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100歳迎えた日米スパイの秘話

2015年03月26日 01時19分 JST | 更新 2015年05月23日 18時12分 JST

 この3月、日本と米国の元スパイが100歳の誕生日を迎えた。

 日本の元スパイは、陸軍中野学校の第1期生で、開戦前に南米のコロンビアに派遣され、中野学校校友会会長も務めた、東京の牧澤義夫さん。

 アメリカの元スパイは、日本語が堪能で、インパール作戦の背後などで戦略情報局(OSS)の謀略工作などに従事したエリザベス・マッキントッシュさん。

 偶然にも、2人は約20年前から筆者の貴重な知り合いでもあり、この機会に「100歳のスパイ」の業績と歩んだ道を紹介しておきたい。

パナマ運河破壊工作?

 牧澤さんは1915(大正4)年3月3日、山口県防府市に生まれ、旧制山口高等商業(現・山口大学)を卒業した。小野田セメントに入社、サラリーマンをしていて徴兵され、陸軍に入隊した。千葉歩兵学校通信隊に配属されたあと、「後方勤務要員養成所」行きを命ぜられた。これが実は、優秀な要員を集めて訓練した中野学校の発足だった。

 1938(昭和13)年7月始動した中野学校の第1期生は入学時19人、卒業時は1人減って18人だった。選りすぐりの教官には、後にインド独立工作に従事した「岩畔機関」の岩畔豪雄中佐(後に少将)や、戦後公安調査庁に入ったソ連専門家、甲谷悦雄少佐(後に大佐)のほか、変わり種には、フランス事情を教えた音楽家の山田耕筰氏がいた。

 鬼怒川発電所見学ではダムの破壊法や構造上の弱点を学び、満州旅行では「浅野部隊」(数百人の白系ロシア人部隊)を視察した。

 牧澤さんは1939年、参謀本部第2部(情報)第6課アメリカ班に配属、英語から学んだ。このころ、蒋介石に反旗を翻して南京に親日反共の国民政府を樹立した王兆銘らの子弟を預かって世話をし、起居を共にしたこともあった。

 1940年9月、在コロンビア日本公使館に「外務書記生」として赴任した。しかし、柳井恒夫公使以外に本当の身分を知っていた者はいなかった。同公使は、戦後外務次官や駐米大使を歴任した柳井俊二氏の父である。

 コロンビア在任中には、パナマ運河を見学、その構造の詳細を日本に報告した。日本がパナマ運河破壊を検討した可能性もあるが、牧澤さんには何も知らされなかった。また、海軍の軍用機に必要だとの指示を受け、危険を冒して当時輸出禁止だったコロンビア産プラチナ30キロを買い付け、外交官特権を利用してエクアドル経由でペルーに運び込み、輸送船に搭載したこともあった。

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100歳を迎えた牧澤義夫さん(東京都下の自宅で)

巣鴨プリズンに5年間

 真珠湾攻撃を知ったのは、闘牛見物中だった。米国の外交官も一緒に闘牛場に来ており、その日双方とも開戦に備えてはいなかった。

 開戦後、いったんアメリカに渡り、北米駐在の日本外交官らとともに、日米外交官の交換船に乗って、ポルトガル領ロレンソマルケス(現・モザンビークの首都マプト)を経由して、帰国した。太平洋戦争中は「風船爆弾」の目標の選定作業のほか、米国政情や世論動向などの分析にも当たった。

 1944年7月、情報班長として台湾軍司令部に赴任、少佐昇進を経て、翌1945年8月終戦を迎えた。

 終戦後の1946年5月、上海の米軍法廷で重労働30年の刑を宣告されたのちに帰国、1951年3月まで巣鴨プリズンに収容された。今では「100歳はスガモのおかげ」と周囲の人を笑わせている。

キツネを使って日本兵をだます?

 マッキントッシュさんは首都ワシントン出身で、ワシントン大学でジャーナリズムを学び、スクリップス・ハワード系新聞の記者としてハワイに勤務中、真珠湾攻撃に遭遇して現地で報道。その後同系新聞ワシントン支局に異動、そこでドノバンOSS長官の部下と知り合い、1943年にOSS要員としてリクルートされた。

 彼女に与えられた任務は、日本軍の志気をくじく工作(MO)だった。OSS極東部門で、日本軍に対するブラック・プロパガンダ、つまり真実と嘘を取り混ぜた、さまざまなうわさや謀略情報を流して、日本兵の戦意を喪失させる作戦に従事した。彼女が所属したグループには、「新聞記者やラジオ記者、芸術家、漫画家らがいた」という。

 拙著『秘密のファイル』でも紹介したが、日本人のアメリカ共産党員のほか、画家、八島太郎(岩松淳)らもこのグループにいた。

 日本の文献から、日本人は迷信でキツネに化かされてしまうと、おじけるという話を応用して、動物園でキツネ6頭を調達し、夜光塗料を塗って戦場に放つ実験までしていた。

 約20年前、OSS文献にそうした事実が明記されていたのを筆者が発見して、彼女に質問すると、「日本学の大家、セルジュ・エリセーエフ博士の発案だった」と教えてくれた。

インパール作戦の裏で

 援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した日本軍の作戦に対して、OSSはさまざまな謀略工作を行った。

 ビルマ人エージェントを使って、ジャングル内の前線に文書を届けようとする日本軍の連絡要員を殺害させ、文書カバン内に偽の文書を入れて、降伏をそそのかす、といった謀略作戦もあったという。

 マッキントッシュさんは戦後、復員し、一時は記者の仕事に戻り、中国大陸やインドでの経験をまとめた回想録『アンダーカバー・ガール』を出版した。

 その後、彼女はOSSの後身である中央情報局(CIA)のアレン・ダレス長官のすすめもあって、再びスパイに戻り、アジアなどで情報工作に従事したあと、1973年に引退し、数冊の本を書いた。

彼女を称えたCIA長官

 3月1日、100歳の誕生日を迎えたマッキントッシュさんは2日後の3日、CIAで行われた誕生祝賀会に招かれ、ブレナン長官から「彼女の業績はすべての女性、特にCIAの女性たちにとって励みになる。彼女の誕生日が毎年、女性月間(3月)の最初の日に当たるのはふさわしい」と称えられた。

 他方、牧澤さんの誕生日は家族に囲まれた静かなお祝いだった。100歳のスパイ誕生パーティは日米間で全く違っていた。

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誕生日のケーキを前にしたエリザベス・マッキントッシュさん(CIAホームページから)

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春名幹男

1946年京都市生れ。大阪外国語大学(現大阪大学)ドイツ語学科卒業。共同通信社に入社し、大阪社会部、本社外信部、ニューヨーク支局、ワシントン支局を経て93年ワシントン支局長。2004年特別編集委員。07年退社。名古屋大学大学院教授を経て、現在、早稲田大学客員教授。95年ボーン・上田記念国際記者賞、04年日本記者クラブ賞受賞。著書に『核地政学入門』(日刊工業新聞社)、『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)、『スクリュー音が消えた』(新潮社)、『秘密のファイル』(新潮文庫)、『スパイはなんでも知っている』(新潮社)などがある。

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(2015年3月24日フォーサイトより転載)