安倍政権の「足かせ」となる自民党「デタラメ改憲草案」ができるまで

現状を直視し、第2次草案を実際に棚上げできなければ、公明党や野党の一部も巻き込んで改正案を発議し、国民投票で可決させることはできないだろう。

戦後初めて、衆参両院で憲法改正を容認する勢力が3分の2を超え、「改憲」を巡る議論が現実味を帯びてきたが、ここにきて、自民党の「憲法改正草案」が、安倍首相の目指す改憲の障害になるという意外な現実が明らかになっている。

1カ月で大幅後退した安倍首相

広島への原爆投下から71年目を迎えた8月6日。広島市での平和記念式典に出席した首相は記者会見で、自民党の憲法改正草案について「そのまま案として国民投票に付されることは全く考えていない」と言い切った。そのうえで、「国会の憲法審査会という静かな環境で真剣に議論し、どの条文をどう改正するかが収れんしていく」と述べて、改憲案作りは憲法審査会の議論に委ねる考えを示した。自民党憲法改正草案の事実上の取り下げに近い表明とみられている。

7月10日の参院選で、自民、公明両党に憲法改正を目指す、おおさか維新の会などを加えた「改憲勢力」の議席が参院の3分の2を超えた。すでに衆院では自公両党で3分の2を超えているため、衆参両院の3分の2以上の賛成で憲法改正を発議する条件は整った。安倍首相は翌11日の記者会見では、「我が党の案がそのまま通るとは考えていない」としながらも、「我が党の案をベースにしながら3分の2を構築していく。それが政治の技術といっていい」として、自民党憲法改正草案を中心に改憲に向けた議論を進めていくことに意欲満々だった。

それから、わずか1カ月足らず。首相が自らの発言を大幅に後退させざるをえなかったのは、国家主義的、復古主義的な印象の強い憲法改正草案の評判があまりに悪く、このままでは憲法改正に向けた議論に野党の民進党などだけではなく、公明党も応じてこない可能性が高くなってきたからだった。

「実現」を重視した第1次草案

自民党の憲法改正草案には、2005年に起草された第1次憲法改正草案と、12年に発表された第2次憲法改正草案の2つがある。問題となっているのは、野党時代に谷垣禎一総裁の下で作られた第2次草案だ。党憲法起草委員会事務局長の磯崎陽輔参院議員が中心となって執筆した。

一方、第1次草案は小泉政権時代、森喜朗・新憲法起草委員長、与謝野馨・委員会事務総長、舛添要一・事務局次長の体制で作られた。与謝野氏と舛添氏のコンビが旧知の学者や検察官・裁判官・弁護士、官僚、衆参両院法制局などのプロ集団を外部ブレーンとして、相談しながら書き上げた。

2人の路線は「憲法改正を実現するためには、公明党や野党の協力が必要で、自民党らしさを抑えなければならない」というものだった。バランスの取れた草案作りを目指し、情報管理を徹底した。一切、外部に漏らさないため、草案の全体像は舛添氏がすべて自分のアップル社製パソコンにだけ打ち込んでいたほどだった。途中で漏れれば、党内から不満が噴出し、作業が頓挫する可能性があったからだ。

案の定、05年10月12日、草案を公開した新憲法起草委員会は大荒れだった。荒れ模様を象徴したのは、中曽根康弘・元首相が小委員長を務めた憲法前文を巡る攻防だ。

これには前段があった。7月末、与謝野氏は長野県軽井沢町の別荘に中曽根氏をひそかに訪ねた。かつて秘書として仕えた中曽根氏は与謝野氏にとって政治の師にあたる。与謝野氏は草案の第1次案を中曽根氏に示しながら、「このように憲法の条文化もできあがりつつあります。しかし、衆院解散になれば、吹き飛びます」として、中曽根氏の長男・弘文参院議員の説得を要請した。第1次案には、中曽根氏が小委員長として担当する前文は含まれていなかった。政局は小泉政権が命運をかける郵政民営化関連法案の参院採決を巡って緊迫していた。参院亀井派会長の弘文氏は反対派の中心と見られており、弘文氏を説得してもらえれば、前文は中曽根氏の言うとおりにするという意味が込められた要請だった。

しかし、中曽根氏は首を縦には振らず、結局、弘文氏は郵政法案への反対を表明した。これを契機に態度未定だった議員も続々と反対を表明し、8月8日、法案は否決された。小泉首相は即日、衆院解散に打って出て、反対派候補に刺客を差し向けた。「小泉劇場」に国民は沸き立ち、衆院選は小泉氏の大勝に終わった。

「中曽根色」も残らず

「郵政解散」で激動する政局の中、中曽根氏は「日本国民はアジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島々に、天皇を国民統合の象徴としていただき、和を尊び、多様な思想や生活信条をおおらかに認め合いつつ、独自の伝統と文化をつくり伝え、多くの試練を乗り越えてきた」から始まる前文案を書き上げた。「和を尊び」という一節は、中曽根内閣の官房長官だった後藤田正晴氏が、中曽根氏に聖徳太子の十七条憲法の「和をもって尊しとなす」を入れて欲しいと頼んだものだった。後藤田氏は9月に亡くなった。中曽根氏は後藤田氏の遺言に応えるつもりで、この前文案を10月7日、前文小委員会に提案した。

しかし、郵政解散に大勝した小泉氏に中曽根案を採用する理由は、まったくなかった。与謝野氏は「『太平洋の波洗う』などの表現はやめる。愛国心を表すような表現もやめる」として、「日本国民は、自らの意志と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する」というまったく違う前文を書き下ろし、小泉氏もこれを採用。中曽根色は残らなかった。

国家主義的思想を肯定?

こうした1次草案作成を巡る経緯を舛添氏がまとめたのが『憲法改正のオモテとウラ』(講談社現代新書)だ。舛添氏は同書の冒頭で第2次草案を「一読して驚いてしまった。右か左かというイデオロギーの問題以前に、憲法というものについて基本的なことを理解していない人々が書いたとしか思えなかった」と評し、第2次草案のPR用パンフレットである「日本国憲法改正草案Q&A」で「天賦人権説に基づく規定振りを全面的に見直しました」「西欧の天賦人権思想に基づいたと考えられる表現を改めた」などと明記し、天賦人権説を否定していることを痛烈に指弾している。人は生まれながらにして自由・平等であるという天賦人権説の否定は、国家主義的思想の肯定と見られても仕方がないからだ。

舛添氏は国家権力から個人の基本的人権を守るために、主権者である国民が制定するものが憲法であると説く。「国家」の対極にあるのが「個人」であり、そこから現行日本国憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される」と規定している。そのため、第1次草案ではまったく変更しなかったが、第2次草案では「全て国民は、人として尊重される」と変更したことで、「立憲主義憲法なのかと疑問を呈さざるをえない」と指摘している。「人」の対極は犬や猫といった動物であり、「個人」のように「国家権力」と対峙する意味はなくなるからだ。

舛添氏は「第2次草案をまとめたと言われている自民党議員は東大法学部の出身であるが、母校の憲法の授業で立憲主義について教わったことがないと言ったという」として、筆者の磯崎氏も厳しく批判している。その上で、「今の自民党は、本当に憲法改正を実現させたいのであろうか。皮肉に言えば、護憲勢力の後押しをしているとしか思えない」とまでこき下ろしている。

「野党時代」ゆえのツメの甘さ

第2次草案を巡り、さらに批判が強まりそうな動きも表面化している。

8月8日、国民に向けたビデオメッセージとして公開され、生前退位の意向を示唆した天皇陛下のお言葉は、「象徴天皇制」への強い思いが感じられるものだった。ところが、第2次草案は第1条で天皇について「日本国の元首」と明記している。第2次草案をベースに議論した場合、第1条から議論が紛糾するのは不可避だろう。

安倍首相は第2次草案がリベラル派の谷垣氏の時代に作られたことで、国家主義的、復古主義的とされる自らへの批判に反論する材料にできると考えていたようだ。しかし、責任のない野党時代に作られたため、谷垣氏もほとんど関心がなかったというのが実情だ。

戦後、日本が主権を回復したサンフランシスコ講和条約発効から60周年にあわせて作られた第2次草案だが、政権奪還を目指すため、リベラル色の強かった当時の民主党政権に対抗して保守色を強めたものとなってしまった。

起草委員長の森氏をはじめ、中曽根氏のほか、宮沢喜一氏や橋本龍太郎氏ら首相経験者を要所、要所の責任者に据え、重鎮がにらみをきかせる形で党内議論を集約し、最後は郵政解散大勝の勢いにのる小泉氏の判断で保守色を弱めた第1次草案とは対照的だ。小泉氏以下、与謝野氏や舛添氏らの起草関係者は公明党や野党との調整のしやすさを考え、実際に成立させることを目指したからだ。

与党時代と違って、事前調整をしなかった第2次草案は公明党にも受け入れがたいものとなっている。与党の公明党すら応じないようでは、修正協議に持ち込める可能性はほとんどないだろう。その上、国家主義的、復古主義的と言われても反論できない内容から、「やはり安倍首相の改憲は危ない」という批判の根拠にされてしまっている。現状を直視し、第2次草案を実際に棚上げできなければ、公明党や野党の一部も巻き込んで改正案を発議し、国民投票で可決させることはできないだろう。

辻原修

ジャーナリスト

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(2016年8月29日フォーサイトより転載)

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