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「福島県知事選」に声は届くか――山も海も「難題山積」の被災地

2014年10月23日 18時02分 JST | 更新 2014年12月22日 19時12分 JST

 2011年3月の福島第1原発事故の後、初めての福島県知事選が10月9日に告示された(26日投開票)。現職知事は今任期限りで引退し、6人の新人候補者は福島第1・第2原発の「全基廃炉」と被災地の復興を掲げ、今なお12万7000人に上る避難者(うち県外に約4万6000人)の救済、子どもの健康管理への取り組み、国内での再稼働反対などをそれぞれ訴える。自民党が選挙戦敗北を避け、現職知事の後継候補支援で民主、公明、社民と相乗り。「県民党」の旗の下で原発事故をめぐる争点は沈み、被災地住民には選択肢と変化への期待が乏しい選挙となった。事故から3年7カ月が過ぎた同県浜通りの被災地では、再生の歩みが各地で壁に突き当たり、新たな難題山積が希望を揺るがす。苦闘する住民の声は候補者に届いているのか。

「耕土」は「山砂」に変わった

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山砂で厚く覆われた飯舘村須萱地区の田んぼ(写真は筆者撮影)

 そこは、草が伸びた赤土の空き地にしか見えなかった。福島県飯舘村を貫く県道原町川俣線から山あいに入った須萱(すがや)地区。細長い谷間に沿って赤土色混じりの草原が連なっており、遠く見える集落の手前に真っ黒なフレコンバッグ(土のう袋)の山が並んでいる。8月末、村の農家と支援する研究者、ボランティアらのNPO法人「ふくしま再生の会」(田尾陽一理事長)の一行に同行した先は、昨年1月から約1年間を掛けて除染された田んぼだった。

 須萱地区の田んぼの除染は、環境省の委託で飯舘村役場が代行発注した。村内の農地除染の先行事例で、「再生の会」は作業前に現地の放射線量、土壌の放射性物質の濃度などを測った。この日の調査の目的は事後検証。約100枚の田んぼから20枚を選んで、メンバーが手分けし、長さ30センチの透明なパイプを垂直にねじり込んで土を採取していった。

 1本目のサンプルから、除染作業の実態があらわになった。パイプに入った土の上半分、約15センチの深さまでが黄色っぽい色で占められている。「明らかに山砂」だという。環境省の汚染土の除染基準では、農地の場合、放射性セシウムの大半が集まる「表土から約5センチ」をはぎとり、同じ程度の量の覆土(田んぼは主に山砂)をする。ところが、検証調査が行われた田んぼでは、山砂の深さが多くの地点で約15センチにも達し、除染基準の3倍の耕土が失われていた。村の除染推進課も「基準を守るのが当然だが、どうしても現場で重機を操縦する作業員の腕次第のところがあった」と、過度のはぎ取りを認めた。

 原発事故のため全住民の避難が続く飯舘村では、今年4月から環境省が本格的な除染事業に乗り出した。9月9日には、ゼネコンの共同企業体が作業員5800人の態勢で、1軒ごとに家屋と庭、周囲の屋敷林などでの放射性物質を取り除く仕事を、帰還困難区域の長泥地区を除く19行政区で一斉に始めた。村内では、「除染作業中」を知らせるピンクと黄色ののぼりが至る所に立てられ、作業員を運ぶマイクロバスやダンプカーが慌ただしく行き交っている。しかし、この作業が飯舘村の田んぼを救うことになるのか、住民は不安な目で見守る。

「除染を見て田んぼは諦めた」

 飯舘村内で約2200ヘクタールある農地の除染は、9月末で環境省の計画の約12%まで進捗した段階だが、完了した箇所はいずれも山砂に覆われ、田んぼの姿をとどめない。須萱地区での大量の耕土喪失は、たまたまの検証で分かった氷山の一角なのかもしれない。避難生活から一時帰宅した農家は口々に、「まるでテニスコートになったようだ」「そのまま引き渡されても、どうやって復田をしたらいいのか」と変わり果てた景色に戸惑う。

「肥えた耕土をはぎ取られるダメージは、農家の大切な財産を失うことに等しい」。標高約600メートルの比曽地区の田んぼで震災前、10アール当たり11俵(660キロ)を収穫していた菅野義人さん(62)はこう話す。「1年の収穫が終わった後の冬、土が凍り、吹雪でハンドルを握る指が動かなくなるほどの寒さの中でトラクターを走らせ、田んぼにたい肥をまいた。冷害と闘いながら、長年を掛けた土作りがなければ、高冷地の村でコメは満足に穫れなかった」。

 本来、除染作業と車の両輪で取り組まれるべきだった農地再生策は後手に回っている。「環境省が、ゼオライトやリン酸カリなどの土壌改良材を入れる地力回復の工法を検討中で、それを待っているところ。来年度には除染とセットで発注できる」と村の除染推進課は話す。しかし、問題は、原発事故から既に3年7カ月という時間の経過だ。同村飯樋地区から避難生活中の年配者は「家と田んぼの除染もしてもらった。でも、息子夫婦は避難先の福島市内に土地を買ってしまった。もう戻るつもりはなく、自分も帰る気力をなくした」と落胆する。集落の十数軒の隣人たちも、大半が村外に土地、家を求めたという。「除染を見て、田んぼは諦めた。作ったとしても、飯舘のコメは売れまい」と話す農家もいる。

 除染は復興への手段に過ぎず、目的である農地再生を専門の知見から担うべきは農水省のはず。だが、被災地の除染事業を一手にする環境省との連携はなく、出番もない。国の「縦割り」が復興を妨げている現実がある。菅野さんは危惧を漏らす。「土地を一番知る住民の経験を、帰村につながる除染に取り入れてほしい、と環境省の現地担当者たちに仲間と訴えてきた。本来、国と地元の間に入って被災地の声を反映させ、助けてくれるべき県に、これまで積極的な役割は見られなかった。このままでは国主導の前に、福島の主体性は失われてしまうのではないか」。

新たなコメ作りは評価されたが......

 10月上旬、相馬市今田の農家、佐藤徹広さん(63)を訪ねた。旧相馬中村藩の時代、殿様の食するコメを献上していたという良質米の産地は、黄金色の出来秋を迎えていた。手伝う息子さんがコンバインで稲を刈り、佐藤さんは収穫したてのもみの山を軽トラックで家に運び、大きな脱穀機に投じる。30キロ袋詰めの「福島米」が積み上がっていった。

 初めて取材したのは7月末だった。2011年の震災と原発事故の後、経験のない直播(種もみのじかまき)のコメ作りを始めた。農機具メーカーと組んで直播の試験をする予定だった浜の農家が津波で被災し、佐藤さんに声が掛かった。いわき市の建設会社で働いて10年末に退職し、兼業農家から専業へと人生を変えようとした矢先の震災。原発事故の避難指示圏外(45キロ北)になった相馬市で、稲作の許可が出たのは11年4月半ばだった。

 40アールから始まった直播は今年、耕作する計6ヘクタールの4分の3に広がった。13年産コシヒカリは、地元農協を通して第15回米・食味分析鑑定コンクール国際大会に出品され、金賞に選ばれた。「驚いたが、福島県浜通りのコメが純粋に評価されてうれしかった」と言う。収量は、苗を均一に育てる通常の栽培法より約7%減るが、経費や労力を大幅に節減できる――。それが3年の経験を経た佐藤さんの感触だ。浜通りのコメ作りは、津波や原発事故後の避難で担い手を減らし、放射能の風評によって生産意欲もそがれてきた。津波からの復興で広い田んぼが整備されても、農家不在では再生にならない。「高齢者も、他の田んぼを受託する農家も、新規就農者も、楽に作れる直播の技術を広めたい。機械も共有できる。浜通りのコメを絶やさず、次世代に渡したい」。取材で、そんな夢を聴いていた。

コメ余りで値が暴落

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農家は米価下落の報に落胆した=相馬市今田

 ところが、浜通り復興への期待を込めるコメには、次々と逆風が吹き付けた。原発事故後、除染前のコメ作りを「自粛」している南相馬市。稲作再開に向けた市の呼び掛けで、13年に農家が試験栽培をしたコメ27袋から国の基準値を超えるセシウム(国の食品安全基準は1キロ当たり100ベクレル未満)が検出された。その問題で7月半ば、「福島第1原発のがれき撤去作業で生じた粉じんが飛散し、それが原因になった可能性がある」と農水省が東京電力に指摘し、防止策を求めていた、というニュースが流れた。

 相馬市の佐藤さんのコメは11年産以来、放射能検査で「不検出」が続く。「第1原発が廃炉になるまで30-40年掛かるそうだ。その間は不安も尽きないが、俺はあと10年、体が動くうちはコメを作り続けたい。約200万円の投資をして直播用の機械も買った」。7月末にこう語っていた佐藤さんは、ふた月余りしか経っていない稲刈りの後、「福島米」の袋の山を前に嘆息をついた。「全く想定外のことが起きた。農家は皆、頭を抱えている」。

 コメの値が暴落したのだ。農家から販売委託を受ける際に全農の各県本部が支払う2014年産米の概算金(前渡し金)が、9月の発表で前年比2-3割分の大幅下落になった。背景には全国で220万トンを超えるコメの過剰在庫があり、大震災後の品薄感で高値となった状況は終わったという。浜通りのコシヒカリは前年の1万1100円(1等・60キロ)から、東北の主要銘柄で最も安い6900円に落ちた。農協が1100円を上乗せする救済策を取ったが、それでも「作れば赤字が出る」と佐藤さん。「この打撃で、担い手がいなくなってしまうのでは」。

 隣の南相馬市では、原町区の浜沿いの5地区で津波からの農地復興を目指し、除塩・除染を兼ねた大規模な県営土地改良(基盤整備)事業が始まっている。1枚が1ヘクタール前後の田んぼを中心に、合わせて約320ヘクタールの新しい農地を生み出す計画(16年度の完工予定)だ。来春には、先行して約9ヘクタールでコメの作付けが可能になる。

 このうち北萱浜は、震災前、浜の地区で1番広い約140ヘクタールの農地(8割が田んぼ)があった。が、住民は土地改良事業に参加していない。96戸あった農家の大半が津波被災、原発事故を契機に離農した。8人が13年1月に「北萱浜機械利用組合」を結成し、ネギの栽培と販路開拓に取り組んでいる。

 代表の林一重さん(70)は震災前、近隣からの受託の田んぼも合わせて、市内でも大規模な約20ヘクタールの稲作農業を経営していた。だが、「家も、総額5000万円近い農機具も流され、稲作の再生に見切りをつけた」と話す。「厳しい検査をして出荷するわれわれのネギでさえ、県外の市場で、品質で負けない他産地のものより安値をつけられた。根強い風評だけでなく、コメ余りの時代の市場原理にもさらされ、3年半余りのブランクで体力や意欲をなくした農家は離れていくだけではないか。コメ以外で生きる選択肢を模索しなければ」。過酷な風が被災地に吹いている。

海の苦闘終わりなく

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浜通り漁業者たちが取り組む試験操業=相馬市松川浦漁港

「相馬といえば、カレイだ。ようやく、流通に乗せて大丈夫との結果が出た」。5月に訪ねた相馬双葉漁協(相馬市)の佐藤弘行組合長は、ほっとした表情を浮かべた。政府はその前月、福島県沖のマガレイの出荷停止を解除していた。福島県などのモニタリング調査で、セシウムが国の基準値(1キロ当たり100ベクレル)を継続的に下回った結果だ。

 福島県沖の漁は、福島第1原発事故後の11年4月4日、東京電力が約1万1500トンの汚染水を海に放出したため、全面自粛とされた。12年6月から、調査で安全性が確認された魚種の試験的な操業・流通が許され、相馬双葉漁協といわき市漁協(13年10月から)が、限られた量を捕っている。今年9月の漁期から、マガレイのほかカナガシラ、ユメカサゴなどが加わって計39魚種まで増えた。

「ほそぼそとした漁獲だが、築地(東京)の仲卸業者らは『自信を持って売るから、継続的に出して』と応援してくれる」と佐藤組合長。懸念したのは、13年7月22日、第1原発からの汚染水海洋流出を東電が認めた、とのニュースが流れた後の混乱の再来だ。当時、試験操業で捕れたタコが検査では「不検出」だったが、取引値を一部市場から崩され、漁協は苦渋と屈辱の思いで出荷を断念した。「われわれの取り組みを知ってもらい、1日も早く試験操業から、『競り』に掛けてもらう通常の取引に戻したい。それが浜の復興だ」。

 マガレイの試験操業が始まった9月、相馬市の松川浦漁港の仮設市場には、週にわずか1回の水揚げながら、震災前の活気が一瞬よみがえった。早朝に出漁した沖合底引き網の漁船23隻が、午後1時過ぎに次々と帰港し、慌ただしく魚果を下ろしては岸壁を離れていく。どの船も、30センチほどのマガレイが、大きなプラスチックの樽に5つほど。聞くと、「1隻当たり100キロだけと決まっている」。マガレイはすぐさま仮設市場で浜の母ちゃんたちの手でかごに入れられ、目方を測られ、放射能測定のサンプル調査が行われる。「不検出」と分かれば、地元の魚店やスーパーなどの買受人組合に引き取られる。店頭に並ぶマガレイは、「相馬の味」を待っていた住民から好評だという。が、漁船いっぱいの大漁を競うことが醍醐味だったという漁業者たちの無念さは航跡のように?