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比ドゥテルテ大統領「北京の休日」で吐露した「反米の原点」

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フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領は中国政府の招きにより、2016年10月18日から21日までの3泊4日の日程で、国賓として中国を訪問した。

その後の訪日は2泊3日(10月25~27日)であり、明らかに中国重視の姿勢を見て取ることができるが、北京での日程をよくよく見ると、実質的な滞在期間は2泊3日といっても過言ではない。北京ではスケジュールをぎっしり詰め込むことはせず、ゆったりとした日程を消化した。

「米国との決別」発言

メディアで最も注目されたのは、10月20日に行われた中国の習近平国家主席や李克強首相らとの首脳会談、中国とフィリピンの経済貿易協定調印式、中比経済貿易フォーラムでのスピーチであった。首脳会談に先立って、習近平主席はドゥテルテ大統領を人民大会堂の正面玄関前で出迎え、秋天の下での厚遇ぶりをアピールした。

連日、米国への暴言や放言が報道されているが、同大統領による「米国との決別(separation)」発言は、同経済貿易フォーラムで飛び出したものだ。

中比首脳会談後に、中国政府は対フィリピン経済協力として13本の協定を取り交わし、総額約2兆5000億円(約240億ドル)にも上ると言われる包括的な経済協力を打ち出した。これらの経済協力案件はいずれも「覚書」程度のものだが、フィリピン政府は、現状で満足できる条件を中国から獲得したことで外交的勝利と受け止めている。

人民大会堂で習近平国家主席との歴史的な会談を終えた後に、待ち構えていた記者の1人から、前日の19日はほとんど日程が空白だという趣旨の質問が出た。不意を突かれたドゥテルテ大統領は、首脳会談の準備をしていたととっさに返答して、なんとかその場を切り抜けた。

ここで取り上げられた、ゆったりとしたスケジュールの19日は、中国政府にとって、そしてドゥテルテ大統領にとって各々の思惑が交錯する充実した1日であったはずだ。「北京の休日」となった19日を追ってみるが、まずは北京に到着した風景からを再現してみよう。

ひっそりとした空港での出迎え

ドゥテルテ大統領は訪中する直前までブルネイを公式訪問しており、10月18日夜、ブルネイから北京にチャーター機で乗り込んだ。同機が北京の首都国際空港に到着したのは午後8時を回っており、タラップを降りた直後に中国の王毅外相らの出迎えを受け、中国の最高級乗用車「紅旗」に乗車して一路、宿泊する北京市内のホテルへ向かった。

この「紅旗」は習近平国家主席が2015年9月3日、「抗日戦争勝利70年」記念軍事パレードで、将兵を観閲した際に乗車したものと同じモデルである。

宿泊していたホテルはと言えば、ドゥテルテ大統領があれほど罵声を浴びせた米国を代表する高級ホテル「グランド・ハイアット・ホテル」だ。

夜の帳が下りた国際空港では派手な式典はなく、ドゥテルテ大統領を圧倒する歓迎式典は、これから2日後に人民大会堂の前で、習近平国家主席がドゥテルテ大統領の車列を出迎える行事までお預けとなる。

ドゥテルテ大統領の歴史的な訪中の前に、ブルネイを訪問した理由はと言えば、以前に突然キャンセルしていたからである。

もともとは、ラオスの首都ビエンチャンで9月初旬に開催されたASEAN(東南アジア諸国連合)関連首脳会議のタイミングでブルネイを訪問することになっていたが、大統領の地元ダバオ市内で爆弾テロ事件が発生したため、急遽中止したという経緯がある。

今回のブルネイ訪問は延期となっていた日程を、再度調整して実現したもので、これに連続して訪中という歴史的な日程を組み込んだ。訪日は天皇陛下の日程調整を反映して10月25日~27日と決まっており、中国側はドゥテルテ大統領に対して早期の訪中を要請したことで、ブルネイ訪問と重なることになった。

中国政府の招待による北京訪問も、当初は2泊3日を予定していたと言われるが、ブルネイ訪問に連続させてフライト・プランを組んだ結果、3泊4日へ延長した可能性もある。

中国からのプレゼント

北京での一夜が明けた19日の午前中、ドゥテルテ大統領はいつものように部屋で十分な睡眠を確保して、お昼ころに起床したと言われている。大統領に就任する前のダバオ市長時代からの習慣で、起床は午前11時~正午の時間帯で、完全に夜型である。

片頭痛の持病があると報じられており、ビエンチャンでのASEANと米国との首脳会議、またインドとの首脳会議も、午前中に開催されたため体調不良(片頭痛)を理由に欠席している。フィリピン国内での記者会見は深夜12時から行われることもある。

お昼過ぎ、宿泊しているホテルから徒歩で外出して、北京随一の繁華街で知られる王府井(ワンフーチン)をゆっくりと歩き、北京ダックで有名な中華料理レストラン「大董(Dadong Roast Duck)」王府井店に足を運んだ。お洒落な照明ライトに包まれた個室で、随行団の閣僚に加えて、中国政府要人も交え、北京ダックのフルコース・メニューを堪能した。

円卓のテーブルへ着席する前に、ドゥテルテ大統領は中国側から洒落たブリーフケースを、突然プレゼントされる。中身はと言えば、中国がドゥテルテ大統領へプレゼントする麻薬中毒者リハビリセンターのデザイン画が収められた設計図で、厚紙にカラー印刷されたデザイン画と設計図1枚ずつに目を落としながら、ドゥテルテ大統領はご満悦の表情であった。

このリハビリセンターの建設構想こそ、中比関係を飛躍的に改善するための大きな第1歩。中国側としてはリハビリセンター建設支援に着手するという意思表示を、ここで行ったのである。とにかく中国によるフィリピンへの支援は早い。

ラオスの首都ビエンチャンで9月初旬、ドゥテルテ大統領と中国の李克強首相が、南シナ海問題を実質的に棚上げすることで"手打ち"をして以来、中国はすでにマニラにある既存の麻薬中毒者リハビリセンターへの支援を表明し、フィリピン側の信頼を獲得し始めている。

中国は麻薬中毒者を治療するリハビリセンターをフィリピン各地に建設する支援を持ちかけており、これがドゥテルテ大統領の心証を良くしている。

北京ダック専門レストラン「大董」には2時間ほど滞在し、その後、車でホテルに戻って、夕食までの間は十分な休息をとったようだ。少なくとも公表されている日程を見る限り、他に予定は何も入っていない。

マルコス・ファミリーとの提携

この日の予定は、夜にもう1件のみ。北京を中心に中国で就労している在外フィリピン人コミュニティの集会に登壇して、スピーチをすることであった。会場は、ドゥテルテ大統領が宿泊しているグランド・ハイアット・ホテルの大宴会場である。

9月にはインドネシアの首都ジャカルタで、今回の訪中直前のブルネイ訪問(10月16~18日)でも、在外フィリピン人コミュニティに顔を出して、刺激的な発言で聴衆を沸かせ、テレビニュースや新聞で大きく取り上げられてきた。ここ北京でも同じような暴言が飛び出すのではないかと、会場に足を運んだ参加者はもちろんの事、報道関係者が期待したことは想像に難くない。

フィリピンの音楽が会場に流れる中、まさにスーパースターのように登場したのがドゥテルテ大統領であった。壇上には随行団員の主要閣僚をずらりと並ばせ、大統領自ら1人ひとりを紹介するという演出ぶり。その度に会場から歓声が湧き上がるのだが、ひときわ大きな歓声で迎えられたのが、ボンボン・マルコス前上院議員だった。

先の副大統領選挙では僅差で敗北した立候補者である。父親は独裁者として知られたあのフェルディナンド・マルコス元大統領であり、母親は今でも地方政治で実権を握るイメルダ・マルコス夫人だ。大歓声で迎えられたボンボンを、会場のフロアで誰よりも微笑んで見守る1人の女性がいた。

姉のアイミー・マルコスで、現在はフィリピン北部のイロコス州知事の要職に就いている。つまり、ドゥテルテ大統領は、マルコス・ファミリーの中核メンバーの2人を北京に招待したのである。

これは一体、何を意味するのであろうか。ドゥテルテ大統領はフィリピン南部の拠点都市ダバオ市を支配し、マルコス家は北部地域を支配している。

両者が提携することで、フィリピンの南北を支配することが可能となり、地方からマニラの中央政治をコントロールするという政治的な仕組みが出来上がる。この仕掛けの舞台として、ドゥテルテ大統領は北京を選んだのである。

反米感情の原点は「ビザ問題」

オバマ米大統領を批判した「売春婦の息子」発言、「ミスター・オバマ、地獄へ落ちろ」に続き、北京では「米国よ、グッドバイ」「米国と決別する」との発言――いずれもドゥテルテ大統領が発した言葉であるが、世界中のメディアにより大きく報道された。

ドゥテルテ大統領の反米、嫌米感情は、一体どこから来ているのであろうか。

現在、事実婚の相手である内縁の妻、ハニーレット・アバンセーニャは、ダバオの医療大学を卒業した後に渡米し、カリフォルニア州で4年間にわたって看護師として勤務していた。そのハニーレットを米国まで追いかけて行ったのが、ダバオ市長時代のドゥテルテ氏であった。

ハニーレットは子供を授かり、故郷のダバオに戻って愛娘のヴェロニカ(愛称キティ)と共に、ドゥテルテ氏との共同生活を始め、今日に至っている。同氏にとって米国は愛しい彼女が暮らす異国であり、初めから筋金入りの反米、嫌米であったとは考えられない。

ドゥテルテ氏にとって大学時代の恩師は、フィリピン共産党の最高幹部ジョマ・シソンだ。この時に対米批判の思想が植え付けられたとも解釈できるが、だからと言って反米の闘士であったということもない。

では何故、反米的な姿勢を持つようになったのであろうか。ラオス・ビエンチャンで9月初旬、首脳たちの夕食会の直前に控え室で、ドゥテルテ大統領が自らオバマ米大統領に歩み寄った際、オバマ大統領から「私の部下と話してくれ(My men will talk to you)」と相手にされなかったことが、一連の反米的発言の引き金になったことは間違いない。

しかし、オバマ発言だけで、ドゥテルテの反米的な強い姿勢を説明することにはやや無理がある。過去に遡ることで何らかの手がかりを見つけられると思っていた矢先に、北京での発言が謎を解くヒントになった。

その発言とは、19日夜に開かれた在外フィリピン人との集会、そして翌20日に人民大会堂で開催された中国フィリピン経済貿易フォーラムでのものである。同フォーラムには、中国共産党序列7位の張高麗副首相も出席し、両国の企業関係者を中心に200人以上が参加した。

檀上の中央席に陣取る副首相を前に、ドゥテルテ大統領は約30分に及ぶスピーチを行い、半分以上の時間を米国批判に費やした。そこで明らかにされたのは、米国によるドゥテルテ氏の入国ビザの発給拒否であった。

ドゥテルテ氏は、大学時代にガールフレンドがいる米国へ渡ろうとした際に、入国ビザが発給されなかった。同様の屈辱的な経験は東ネグロス州内の市長もしたことがあり、米国際援助局(USAID)が外国人招聘事業としてこの市長を招聘したにもかかわらず、マニラの米国大使館が同氏にビザを発給しなかったことで、渡米を直前に控えた段階で断念したのだという。

その一方で、米国人はビザなしでフィリピンに入国することができる。ドゥテルテ氏が「もうそろそろ考えるときじゃないか? なぜ我々はそれと同じことができないのだろう?」と話すと、会場からは拍手が巻き起こった。

また、カリフォルニア州ロサンジェルス空港で、外交パスポートを持参していたにもかかわらず、ドゥテルテ氏は書類の不備を指摘され、黒人の空港係官に別室で尋問された。これ以来、ドゥテルテ大統領は2度と米国を訪問しないと心に決めたそうだ。

これらが米国によるドゥテルテ氏に対する「第1の拒否」であるならば、ビエンチャンで開催されたASEAN関連首脳会議での、オバマ大統領によるドゥテルテ氏との対話拒否が、「第2の拒否」となる。つまり自分は常に米国から拒否される、見下された人間だという強い怒りが、心の底にあると考えられる。

こうした感情的な軋轢が大きく作用して、フィリピンの対米関係は大きく修正を迫られ、対中接近へ舵を切ることになった。中国は巨額の人民元を用意してドゥテルテ大統領を歓迎し、これに対してドゥテルテ大統領はしばしば「感謝」の意を表明している。米国のアジア外交・安全保障政策において、同盟国フィリピンを安定したパートナーとして利用することは、ドゥテルテ政権下ではほぼ望めないのではないか。

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竹田いさみ

獨協大学教授。1952年生れ。上智大学大学院国際関係論専攻修了。シドニー大学・ロンドン大学留学。Ph.D.(国際政治史)取得。著書に『移民・難民・援助の政治学』(勁草書房、アジア・太平洋賞受賞)、『物語 オーストラリアの歴史』(中公新書)、『国際テロネットワーク』(講談社現代新書)、『世界史をつくった海賊』(ちくま新書)、『世界を動かす海賊』(ちくま新書)など。

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(2016年10月25日フォーサイトより転載)