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テロリストの誕生(5)「監視下」でも深まる交流

2015年05月10日 15時46分 JST | 更新 2016年05月09日 18時12分 JST

 週刊紙『シャルリー・エブド』襲撃事件の容疑者クアシ兄弟が幼少の頃を過ごしたフランス中部コレーズ県と同じように、その東隣に位置するカンタル県もまた、山ばかりで取り柄に欠ける県である。多くのフランス人にとって、この県を記憶するのは、同名のチーズを通じてに過ぎない。セミハードチーズ「カンタル」は、カマンベールやコンテほどの知名度はないものの、フランス人の生活に深く染みついたおなじみの銘柄だ。

 その県都オーリヤックから東に50キロほど、人口2000人程度の山あいの街がミュラである。

 ミュラは、フランスの中央山塊の死火山帯の中央に位置する素晴らしい景勝地である。明るく開けた斜面に中世の街並みが広がっており、その景観はミシュランの旅行ガイドで2つ星に格付けされている。街中には、歴史的建造物に指定された建築物も少なくない。交通の便が良いとは言い難く、有名観光地として開発されているわけではないが、この地に惹かれてパリから訪れる人も少なくない。

 街並みが途切れるところに鉄道駅がある。その真ん前に、いかにも「駅前旅館」といった風情の5階建てホテル「メッサージュリー」が建つ。

 テロ組織「アルカイダ」のフランスでのネットワークの中心にいたジャメル・ベガルの隔離先が、このホテルだった。

女主人の困惑

 パリ南郊外フルリ=メロジス刑務所でアメディ・クリバリやシェリフ・クアシと出会った後、ジャメル・ベガルはフランス中部コレーズ県の山間部にあるユゼルシュ刑務所に移された。単なる偶然だが、ユゼルシュは、クアシ兄弟が少年期を過ごしたトレニャックから30キロ足らずの街である。

 ベガルは、2009年6月に出所した。すでに述べた通り、彼を出身国のアルジェリアに強制送還しようとしたフランス当局に対し、ベガルの申し立てを受けた欧州人権裁判所は、送還をやめるよう指示を出した。このため、人権裁の正規の判決が出るまで、ベガルは当局の監視下で生活することになった。その場所がミュラだった。

 犯罪者をそのような形で受け入れるのは、ミュラにとって初めてのことだった。

「何しろ、今まで例のないことだったからね。話を持ちかけられて、仰天した」

 部屋の提供を求められたホテル「メッサージュリー」の女主人ミュリエル・バレは『フィガロ』紙にこう語った。滞在費は公費から支出するという。やがて、日本だと県警本部長にあたるプレフェ(政府委員)とミュラの市長が、憲兵隊を引き連れてやってきた。ホテルのどの部屋が監視しやすいか、見て回った。

 どうしてミュラが選ばれたのか、バレ自身不思議に思ったが、何の説明もなかった。実際には、あまり深い意味はないだろう。当局者は後にメディアに「都会より田舎の方が、監視下に置くにはいい。人々がみんなで見張っているようなものだ」と話しており、適当な田舎を探していてたまたまこの街に行き当たったと推測できる。

 しかし、何せ有名な「テロリスト」である。ホテルに迎えても大丈夫だろうか。バレは不安にさいなまれた。小さな街だけに、噂は瞬く間に広がった。地元紙にも数日後、ベガル受け入れの記事がでかでかと掲載されてしまった。

「礼儀正しい」ベガル

 他にも心配はつきなかった。イスラム過激派というからには、「ハラール」と呼ばれるイスラムの戒律に沿った食品しか口にしないに違いない。しかし、この地方の名物はチーズとシャルキュトリー(豚肉加工品)である。日々の食事はどうしたらいいのか。

 実際にやってみると、問題は割と簡単だった。ベガルは魚ばかり食べたからである。最終的に、バレはハラール食品供給業者も見つけ出し、食事の問題は解決した。

 ベガルがホテルに住み始めて数カ月後、バレは彼をホテルの離れに住まわせることに決めた。英国に住むベガルの家族らが来る時の便を考えてのことだった。

 ベガルには、シルヴィーという名のフランス人の妻と、4人の子どもがいた。ベガルとその家族は、90年代にフランスから英国のレスターに移った後、アフガニスタンのアルカイダの訓練キャンプで暮らした。しかし、ベガルが2001年にアラブ首長国連邦で拘束されたのを受けて、家族は英国に戻った。シルヴィーは、レスターのイスラム社会の支援を受けながら子どもを育てつつ、年何回かの割合で子どもとともにフランスに渡り、刑務所や隔離先にベガルを訪ねていた。

 バレは、ベガルについて「愛想が良く、穏やかで、礼儀正しい」と証言している。テロリストらしいところはうかがえなかった。それは、地元の多くの人にとっても同じだった。

「いつも必ず挨拶をして、感じが良かった。怖い男だとは全然思わなかった。だけど、今回起きたこと(連続テロ)を考えたら、それは間違いだったんだろうね」

 ベガルがジョギングの雑誌を買うためにしばしば出入りしていた文房具店の店主は、地元紙『ラモンターニュ』にこう語った。

監視下で洋弓銃を所持!

 このようなベガルの表面上の穏やかさは、恐らく外向けに繕ったものだったのだろう。

 ベガルは、かなりの時間を電話に費やし、多くの人と会話をした。盗聴を避けるためだろうか、携帯を頻繁に取り換えた。スカイプも利用した。

 それでも盗聴された相手は、以下のような人物だった。

▼カメル・ダウディ

 このアルジェリア系移民については、本欄で一度紹介したことがある(「10年を経て、テロリストは今」2011年9月8日)。ベガルとともに2001年の在パリ米国大使館爆破計画にかかわったとして有罪判決を受け、ベガル同様に本国に強制送還されかかって欧州人権裁判所に助けられ、やはりベガル同様にフランスの田舎で監視下の生活を続けている。

▼サキーナ・ベガル

 ベガルの女きょうだいにあたる女性である。彼女は一連の事件で、一定の役割を果たしていた可能性がある。その内容については、おいおい述べたい。

 ベガルの会話には、隠語と思われる言葉が含まれていた。例えば、彼は時々「結婚」について話した。「結婚」は、彼らの間で「テロ」を意味していたと考えられている。ただ、電話の盗聴を試みたフランス内務省の情報機関「国内情報中央局」(DCRI、現在は国内治安総合局=DGSI)にとっても、意味をつかみかねる会話が多かったという。

 いずれにせよ、DCRIはベガルを、依然「危険人物」と見なしていた。2001年に米国大使館爆破テロに失敗したベガルは、新たな世代を集めて新たなテロを計画している可能性がある、と疑われた。

 しかし、ベガルを日常的に監視する地元の憲兵隊は、その問題意識をどこまで共有していたか。憲兵隊は田舎の警察組織であり、テロや大事件には慣れていない。ベガルは、四六時中監視の下に置かれていたわけでなく、毎日朝8時、午後1時、午後6時の3回、憲兵隊に出頭して署名することで、所在を明らかにする義務を課されていた。街から出ることはできないものの、日中の行動は比較的自由だった。

 ベガルは、「雀を捕るため」との口実でクロスボウ(洋弓銃)も購入していた。これは明らかに武器である。監視下にあるテロリストがそんなものを手にできたとは驚きだが、ベガルは隠す風でもなく「狩猟免許もほしい」などと言っていたという。憲兵隊も、クロスボウ程度では何もできないだろうとのんきに構えていたのかもしれない。 

 ホテルの女主人バレは、家族以外にベガルを訪ねて来た人はいなかったと証言している。しかし、ホテルの外で会ったから目に付かなかっただけだろう。

 ベガルのもとをアメディ・クリバリが訪れたのは、2009年暮れのことだった。

6枚の写真が物語るもの

 訪問のきっかけについて、クリバリは翌年の捜査当局の聴取で「誰かが電話をしてきて、ジャメル・ベガルの番号を教えてくれた」と説明していた。電話をしたクリバリに、ベガルは「会いに来てほしい」と話したという。

 最初は1人で訪ねたと、クリバリは証言している。刑務所での窓越しのつきあいを通じて、ベガルの人柄に強く惹かれていたクリバリのことである(当連載「テロリストの誕生(3)刑務所内での『思わぬ抜け道』」2015年3月18日参照)。初めて向き合って、恐らく感動し、話し込んだだろう。ただ、ホテルの女主人バレは「家族以外の訪問者はなかった」と述べており、ホテル以外のどこかで会ったと見られる。

 2回目以降の訪問は、妻のアヤト・ブメディエンヌを伴ったものだったようだ。クリバリによると、ベガルのもとを訪ねたのは「1回か2回」だが、深いつながりを捜査当局に隠そうとして過少申告した可能性が拭えない。同様の捜査当局の聴取に対し、ブメディエンヌは「2回訪ねた」と証言していることから、2009年に最初に1人で訪ねたものを含めると、少なくとも3回になる。

 このうち、2010年初めに夫婦で訪ねた時の写真が残されている。クリバリとブメディエンヌ、ベガルが、3人で交互に撮り合ったようだ。

 ルモンド紙は、入手した写真のうちの6枚をネットで公開している【Les photos de Coulibaly et de sa compagne, arbalète à la main.Le Monde,Jan.9.2015】。そこに記録された様子は、すでにかなり異様である。

(1)雪山を背景にしたクリバリの写真。周囲にも積雪があることから、真冬だったと考えられる。

(2)クリバリとベガルが一緒に入り込んだ記念撮影の写真。クリバリは正面を向いているが、ベガルは横を向いている。背景に、ミュラ周辺の素晴らしい眺望が広がっている。

(3)クリバリと、ブメディエンヌらしい女性の写真。「らしい」と言うのは、女性が目だけ出して、黒いヴェールにすっぽり包まれているからだ。これは、フランスの学校でイスラム教徒の女生徒がかぶるかかぶらないかで問題になった「スカーフ」の段階ではない。サウジアラビアなどで見られる「ニカブ」である。フランスで、普通の女性は、例えイスラム教徒であったとしても、このようなものを身につけはしない。原理主義組織にかかわっているか、サウジやペルシャ湾岸諸国から観光にやってきた富豪の身内か、である。

(4)これは、ちょっと怖い写真である。ブメディエンヌが撮影者に向けてクロスボウを構えているのだが、矢が今にも飛んできそうな迫力だ。これは、恐らくベガルが購入していたクロスボウであろう。

(5)銃を構えるクリバリ。銃が本物かどうかわからないが、コスプレとは思えない真剣さが漂う。山中で軍事訓練をしているようでもある。

(6)ブメディエンヌらしきヴェールの女性が草地に膝をつき、クロスボウを構えているところを横から撮った写真。ヴェールの顔の部分がはがれ、横顔がうかがえる。

「原理主義コスプレ」!?

 ブメディエンヌが普段からニカブをかぶるようになったのは、この少し前からだという。ブメディエンヌはもともとスーパーのレジ係として働いていたが、ニカブ着用ではつとまらず、職を離れざるを得なかった。「以来、私はあまり外出しなくなった。それを辛く感じることもあった」と、彼女は後に語っている。

 それにしても、写真からうかがえるのは、少なくともブメディエンヌがすでに、イスラム原理主義にすっかり染まっている様子である。しかも、クロスボウを構え、武装闘争も辞さない決意を示しているかのようだ。これは、単なる「原理主義コスプレ」なのだろうか。しかし、その後の展開を考えると、彼らはこの時すでに、危うい段階に踏み込んでいたのかも知れない。

 ブメディエンヌは後に、こう証言もしている。

「例えば、米国が無実の人々を殺したらどうするか。女や子どもを守るため、男たちが武器を手にするのは当然じゃないですか」

(つづく)

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国末憲人

1963年生れ。85年大阪大学卒。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。富山、徳島、大阪、広島勤務を経て2001-04年パリ支局員。外報部次長の後、07-10年パリ支局長を務め、GLOBE副編集長の後、現在は論説委員。著書に『自爆テロリストの正体』(新潮新書)、『サルコジ―マーケティングで政治を変えた大統領―』(新潮選書)、『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『イラク戦争の深淵』(いずれも草思社)、共著書に『テロリストの軌跡―モハメド・アタを追う―』(草思社)などがある。

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(2015年5月9日フォーサイトより転載)