米国でもやっと始まった「遺伝子組み換え食品」をめぐる戦い

難航している環太平洋経済連携協定(TPP)交渉ですが、参加12カ国がカナダに集まって7月12日まで開いていた主席交渉官会合も、結局、様々な交渉分野で妥結の道筋すら見いだせないまま終わりました。日米間では、その2日後からワシントンで実務者協議を再開したようですが、まだまだ道は険しそうです。そのTPPで議論されているテーマの1つとして、遺伝子組み換え食品の表示基準の緩和問題が大いに注目されています。

難航している環太平洋経済連携協定(TPP)交渉ですが、参加12カ国がカナダに集まって7月12日まで開いていた主席交渉官会合も、結局、様々な交渉分野で妥結の道筋すら見いだせないまま終わりました。日米間では、その2日後からワシントンで実務者協議を再開したようですが、まだまだ道は険しそうです。

そのTPPで議論されているテーマの1つとして、遺伝子組み換え食品の表示基準の緩和問題が大いに注目されています。

気づかないまま流通

そもそも遺伝子組み換え食品の表示の方針は、実は世界各国で大きく異なります。米国食品安全センター(Center for Food Safety: CFS)によると、日本も含め、64カ国が「表示」を義務化しています。ただし、注意しなければならないのは、表示の規制のレベルが異なる点です。

例えば、規制の厳しいEUでは、基本原則は、遺伝子組み換え技術を用いている食品はすべて表示の義務があります。表示が免除される偶然の混入率は、0.9%未満と設定されています。

一方日本では、表示義務の対象になるのは、大豆、じゃがいも、なたね、とうもろこし、わた、てんさい、アルファルファ、パパイヤの8種類の農作物と、これらを原料として、加工後も、組み換えられた遺伝子やタンパク質が検出できる33食品などです。

このパンフレットには表示義務についても説明があり、そのまま読めば、あらゆる遺伝子組み換え食品には表示義務があるために、その食品に遺伝子組み換え技術が用いられているかどうか、一目瞭然だと思われがちです。

しかし、実際には、たとえば豆腐、納豆、みそなどには表示の義務はありますが、しょうゆ、大豆油、異性化糖、コーン油、砂糖(てん菜が主な原材料)などには、表示の義務はありません。なぜなら、組み換えられた遺伝子やタンパク質がその食品を加工する過程で破壊され、検出不能となるためです。

さらに、加工食品については、表示すべき基準がもっと緩やかです。というのも、1つの加工食品に使われているすべての原材料の総重量に占める割合が多い順から上位3位以内の原材料であり、なおかつ、重量の割合も5%以上のものでなければ、その原材料が「遺伝子組み換え食品」であると表示しなくてもよいことになっています。要するに、多種類の遺伝子組み換え食品を少量ずつ組み合わせて加工したものであれば、それを「遺伝子組み換え食品」と表示しなくてもよいわけです。例えば、冷凍調理食品のコロッケで、全原材料の重量に占めるコーンスターチの割合が多い順から4位以下なら、仮に10%含まれていたとしても、表示不要ということです。つまり、逆に言えば、遺伝子組み換え食品であっても、実際にはそれと表示されないまま消費者が手にしているケースがかなりあると考えてよいわけです。

現在、日本国内では遺伝子組み換え作物の商業栽培は行われていませんが、多くの食品を輸入に依存している日本は、世界一の遺伝子作物輸入国です。このように表示の規制がかなり緩いため、私たちが気づかないうちに遺伝子組み換え食品がたくさん流通しているのです。

科学的な安全性は不明

一方、遺伝子組み換え食品大国である米国では、スーパーマーケットで売られている加工食品のうち、約70-80%が遺伝子組み換え食品と言われています。特に、豆やトウモロコシを使用した食品の約90%が遺伝子組み換えと言われています。ところが、米国には遺伝子組み換え食品の表示の義務がないため、消費者は自分が本当は何を食べているのかがわかりません。

こうした現状に米国の消費者もようやく疑問を感じはじめたようで、最近になって、米国では遺伝子組み換え食品の表示に関する議論が白熱しています。

問題の1つはその「安全性」ですが、実は、肝心のその点については科学者でも意見が分かれています。そもそも、1994年、遺伝子組み換え食品として初めて市場に「日持ちのよいトマト」が導入されてから、まだわずか20年しか経過していません。つまり、長期的な健康に対する影響のデータがまだまだ不足しており、実際のところはいまも不明なのです。

そしてもう1つの問題は、「種子の独占」です。1990年代半ば以降、5つの多国籍バイオ企業が、種子の独占のために、200以上の企業を買収してきました。その結果、今では、「モンサント」「デュポン」「シンジェンタ」という3社だけで、実に世界の種子市場の約半分を独占しています。特に、遺伝子組み換え作物の種の世界シェア90%をもつ多国籍バイオ企業「モンサント」は、1社だけで世界市場の約4分の1を占めています。種子を独占すれば食の供給までコントロールできてしまうため、この状況は非常に危険だと思います。

とはいえ、遺伝子組み換え食品の安全性が不明であっても、少なくとも消費者には「知る権利」があります。「表示」がなかったため、急速遺伝子組み換え食品は急速に普及しましたが、「表示」があれば、遺伝子組み換え食品を消費するかどうかは個人が決定できます。だからこそ、米国ではいま、表示の義務化をめぐって、知る権利を訴える消費者と食品産業やバイオ企業の間で大論争が巻き起こっているのです。

2013年の米紙『New York Times』の世論調査では、93%の米国人が表示の義務化を支持しています。ところが、消費者の声が高まっても、なかなか表示の義務化の立法化までたどり着いていません。巨大な金属の扉を、米国民が必死になって押しても押しても、まったく動かない状況です。

巨額の「義務化反対」キャンペーン

実は2012年、カルフォルニア州で、表示の義務化に関して住民投票が行われています。この住民投票の期間中、義務化に反対する食品産業やバイオ企業らと、義務化を支持する消費者たちは、互いにキャンペーン合戦を繰り広げました。ただし、つぎ込まれた費用には大きな差がありました。反対派の筆頭である「モンサント」社は、約800万ドル(約8億円)を支出。他にも「デュポン」「ペプシコ」「クラフト・フーズ」「コカ・コーラ」や他の巨大食品メーカーも協力し、合計で約4600万ドル(約46億円)がキャンペーンに費やされました。それに対して、消費者側の資金は約900万ドル(約9億円)でした。

さらに2013年には、ワシントン州でも同様の住民投票が行われています。その際も、モンサント社などは、キャンペーンに計約2200万ドル(約22億円)を投じています。それに対して、消費者側の資金は約770万ドル(約7.7億円)でした。

そして投票の結果は、両州とも同様に、賛成49%に対し反対51%で、表示の義務化の実現には至りませんでした。米国人の9割以上が義務化を支持しているという世論調査がありながら、なぜこういう結果になったのか――。明確な理由は分かりませんが、食品業界の「表示の義務化によって食品の価格が上昇する」というキャンペーン広告の影響も少なからずあったと考えられています。

重い鉄の扉は開いた

ただし、このカルフォルニア州やワシントン州の挑戦は、完全な敗北ではありません。なぜなら、この投票による敗北は、他の州の活動家の驚きと怒りによる行動を駆り立てるキッカケとなりました。さらに、全米のより多くの人々が、この問題に注意を払い始めたのです。

そしてとうとう今年の5月、バーモント州で、重い鉄の扉が開きました。表示を義務化する法案が州議会で審議され、新たな法律が成立したのです。また、現在では、全米29州で遺伝子組み換えの表示義務化に関する84の法案が議会に提出されています。コネティカット州やメーン州では、法案はすでに可決されており、いくつかの近隣の州が参加すれば、法案が有効になります。米国では、各州における立法化は、他の州の状況を窺いながら進められます。特に、表示義務化のように、全米でこれまでに立法化した州がないケースの場合、ニューイングランド地方にある小さな州などは、近隣の州に協力を仰いで訴訟に備えなければなりません。さらにオレゴン州では、11月の住民投票にむけて、署名活動が行われています。

しかしながら、こうした動きに反対派である食品業界も黙していません。2016年からバーモント州が表示の義務化を開始するまでに、なんとしても阻止するつもりのようです。一旦重い扉が開けば、他の州でも次々と義務化が決まることが予想されます。そうなれば、政治家(とくに民主党)も消費者側を後押しするでしょう。

そこで現在、反対派の食品業界側は、バーモント州に対して訴えを起こしています。恐らく、2016年までには、この訴えが正式な裁判になるかどうかの判断が裁判所から下されるでしょう。ただし、どちらの側にとっても、裁判は時間、費用もかかり、巨額の損害の可能性があるため、裁判開始決定の前に和解となる可能性もあります。その判断がいつごろ下されるのかはまだ見通せませんが、間違いなく全米の注目を集め、他の州の行動に強く影響すると思います。米国でもようやく、遺伝子組み換え食品の安全性に対する消費者の意識が世界レベルになったようです。

日本も表示できなくなる可能性が

さて、最後に、TPPの話題に戻ります。多くの米国民は、TPP交渉について怒りと不安を感じています。というのも、この交渉は内密に非公開で行われ、国民や政治家であっても交渉内容の情報にアクセスすることができません。ただし例外として、600人の大企業顧問は、交渉や提案に参加ができるのです。TPP交渉は自由貿易のためというより、大企業に有利のようです。

『ボストン・グローブ』紙では、「NAFTA on steroids(北米自由貿易協定にステロイド増強剤を使用したくらい最悪な協定)」とも批判されています。

遺伝子組み換え食品の表示義務に対する米国の現状や、少ない情報をもとに考えると、このTPP交渉次第では、逆に遺伝子組み換え食品の表示ができなくなる可能性もあると思います。その場合、日本のように遺伝子組み換え食品を表示していると、TPPに違反することになるため、 日本政府がTPPに参加している国の企業に訴えられる可能性もあります。『ニューヨーク・タイムズ』紙によると、実際に過去の例として、貿易協定違反のため、大手タバコ会社が、タバコの箱の健康の害に対する警告について、ウルグアイやオーストラリアの政府を訴えたケースもあるのです。ひょっとすると日本は、現状のような規制の緩い遺伝子組み換え食品の表示すらできなくなる可能性もあるかもしれません。それだけに、TPP交渉の行方にも十分な注意を払っておくべきだと思います。

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大西睦子

内科医師、米国ボストン在住、医学博士。1970年、愛知県生まれ。東京女子医科大学卒業後、同血液内科入局。国立がんセンター、東京大学医学部附属病院血液・腫瘍内科にて造血幹細胞移植の臨床研究に従事。2007年4月からボストンのダナ・ファーバー癌研究所に留学し、2008年4月からハーバード大学にて食事や遺伝子と病気に関する基礎研究に従事。

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(2014年7月22日フォーサイトより転載)

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