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「避難指示解除」後の飯舘村(下)被災地の残酷な現実--寺島英弥

2018年01月31日 11時33分 JST | 更新 2018年01月31日 11時33分 JST
TORU YAMANAKA via Getty Images

  菅野義人さん(65)を再訪したのは昨2017年12月10日。仙台から常磐自動車道を南下し、相馬市経由で国道115号を走った。よく晴れた冬の朝だったが、峠を越えた飯舘村にはうっすらとした雪景色があり、標高の高い比曽に通じる山あいの道は真っ白だった。怖いほどの凍結路が延々と続き、通行車も沿道の人影もほとんどなく、スリップ事故を起こしても助けはない。同じ浜通りでも冬の寒さが違う。「毎年師走の初めは穏やかだが、今年は雪が早い。けさもマイナス5度くらいになった。冷え込めばマイナス10度以下だ」と菅野さん。「これから降雪がどうなるか」。

 原発事故前の飯舘村では、住民が積雪や凍結路に慣れ、村の除雪も「深さ15センチ」を基準に、委託業者が手早く作業をした。比曽の小盆地には県道と村道が南北に通り、雪の日は、スクールバスが走る前の早朝に、2つの土木業者が手分けをして除雪を済ませていた。

 しかし、避難指示解除後も村の小中学校は再開しておらず、比曽に子どものいる若い家族が帰還する見込みもない。

「先月、除雪を請け負う業者がうちに来て、『この冬は、比曽と、隣接する長泥、蕨平の3地区を、1人(1台)でやらなくてはならない』と話していった。帰還者の生活環境を支援するのが政府や村の役目のはずではないか」

 だが、いまだわずか602人しか戻っていない村(2018年1月1日現在、登録人口5880人で帰還率9.8%)には最低限の態勢しかなくなる。それもまた被災地の残酷な現実だ。このまま人口の激減が恒常化し、いつか村への政府の支援もなくなる日には、自立どころか、もはや自治体の維持も困難になるのでは、という懸念さえある。

「雪が多い時には、もう業者を待っていられないな。わが家の回りだけでなく、県道に通じる道も自力でやるしかない」

 菅野さんの悲壮な覚悟には、「開拓者」の苦闘に重ねての理由があった。

予期せぬ妻の発病

 菅野さんは妻・久子さん(65)と2人で暮らすが、その後継者である長男の義樹さん(39)の家族は将来の帰還を志し、村の支援事業を得て避難先の北海道で和牛繁殖を再開。次男と長女も別の土地で家庭を営む。

 2016年9月、ほとんど改築されていた比曽の自宅に子どもたち、孫たちが集った。義樹さんとお嫁さんも北海道で育てた2人の孫を連れて帰省し、除染作業で風景が変わったとはいえ、古里の姿を見せてくれた。菅野さん夫婦はようやく一家団らんのバーベキューを楽しんだ。が、記念写真に写った久子さんの表情は硬く、高齢者が使う手押し車につかまっている。

 菅野さん夫婦は二本松市で借りた避難先の農家で元気に野菜を作っていたのだが、2015年1月下旬、久子さんが突然の脳出血で倒れたのだ。治療とリハビリのため半年も病院に入り、退院して避難先の家に戻ったが、それから間もない9月下旬に家の中で転んで足の骨を折り、再び入院してリハビリの日々を年末まで送った。

 最初に倒れる前まで、菅野さんと久子さんは比曽の家に忙しく通っていた。「母屋の改築は終わっていたが、納屋の解体工事が遅れに遅れた。村のあちこちで家の解体工事があり、大工さんも現場を掛け持ちで慌ただしかった。それで寒い中、家財道具などの運び出しに長々と手間が掛かった。あれが体にこたえたのかな」と菅野さん。

 しかし、それだけではなかったに違いない。

「避難先では近所から温かく受け入れてもらえて良かったと思うが、経験したことのない避難生活のストレスは確実にあっただろう」

ヘルパー確保にも難儀

 病院でのリハビリを終えた後も、懸命に歩く訓練を重ねたというが、避難指示解除を前に、免許更新の時期が迫った車の運転を諦めるというつらい決断をした。地域にぽつんと孤立したような生活環境で、車は必須の便だったのに、だ。手などに若干の後遺症もあり、退院後は二本松市内の避難先に通いの介助ヘルパーを頼んでいた。

 ところが帰還が近づくと、新たな問題が持ち上がった。全住民の避難が6年続き、無人となった飯舘村に福祉のサービスはなくなった。さらに避難指示解除となっても大勢の帰還が見込めない村に、介助・介護のヘルパーを遠路派遣しようという村外の福祉事業所はなかったのだ。

 帰還希望者の大半が60代以上という状況もあり、不安解消のために村は各福祉事業所と必死で交渉し、「村への出張費」を村費から負担することでサービスを受けられるよう話をつけた。久子さんはそれまで利用した川俣町の介助ヘルパーの飯舘村への派遣を断られたが、村の補助を利用して新たに伊達市の福祉業者と契約でき、比曽の自宅に通ってもらえるようになった。

 だが介助ヘルパー確保問題は、まだ解決していない。「むしろ、これからの冬だ」と菅野さんは言う。帰還者が地区の85戸のうちわずか4戸の比曽では、前述したように村の除雪態勢が最低限のものとなり、隣接の長泥などと併せ、たった1台の除雪車しか動かないことになった。

 伊達市までつながる県道が雪でふさがれば、毎週の月曜と木曜に通ってくる久子さんの介助ヘルパーも来られない。村内には毎日の食料を買える場もなく、菅野さん夫婦は毎週水曜の生協の食材配達に頼る。全住民が避難中の2014年冬、村に積雪1メートルのドカ雪があり、村道は除雪が追いつかず、中心部から離れた比曽は1週間孤立した。

「積雪の多少にかかわらず、根雪になる前にトラクターで道を確保しなくては。高台の自宅から村道に出る長い坂道だけでなく、少なくとも県道に出るまでの約300メートルの距離を自力でやるしかない。原発事故前はそんな時、近所や地区の仲間たちが皆、雪道にトラクターを出し合って一気に片付けたものだ。が、今は助け合える隣人もいない。万が一、事故でも起こせば命にもかかわる。それでも、できることをやらねば」

あまりに「日常」遠く

 菅野さんが語る避難指示解除後の村の暮らしは、こんなふうだ。宅配便はヤマト運輸、日本郵便(ゆうパック)が再開された。が、不便に日々気付く。

「水道の蛇口の接続部分の器具が必要になり、ネットで探して注文したのだが、『あなたの地域には配達できません。福島市か南相馬市の営業所に取りに来てください』と返事があった。理由を問い合わせたら、『人がいない地域なので』『会社として決まっていることなので』と言う。飯舘村は一番経済効率の悪い地域のレッテルを貼られたようだ」

 郵便は比曽の自宅に配達されるが、集配の場は地元になく、車を20分ほど走らせて村役場のポストに出しに行かねばならない。

 食料品は生協にまとめて注文し、宅配を週1回受けていると先に紹介した。村を東西に貫く県道原町川俣線沿いの中心部、草野地区には商店街や食料品のスーパーなどがあった。

 が、原発事故以後はすべてシャッターが下りたまま。村は復興策の一環として草野地区のスーパー跡地に公設の商業施設を設け、地元からテナント業者を募ろうと計画した。

「だが、どの業者も『採算が合わず維持できない』と手を挙げず、頓挫した」

 村はまた、政府の福島再生加速化交付金など約14億円を投じて2017年8月、県道沿いに道の駅「までい館」をオープンさせたが、それはコンビニ、農産品販売や軽食がメイン。筆者も取材の折に何度か立ち寄っているが、通行客や現場作業をしている人の利用が目立ち、村民の日常の買い物の場ではない。

 11月13日に菅野さん宅を訪ねた際には、台所から和やかな会話や笑い声が聞こえた。久子さんの親しい友人や身内の女性が、激励を兼ねて車で集まってくれたという。だが、誰も村に帰還してはいない。比曽の家を解体して、村外に家を建てた人もいるそうだ。

「にぎやかにしてくれるが、この寒い不便な土地に帰ってきてどうするの? という雰囲気も感じてしまう」と菅野さんは漏らす。

「地区の住民の集まりに行っても、『戻って何をしようか』という話はなく、『もう戻らない』『だから戻りたくない』という人ばかり。『避難して村を離れた今が幸せ』という話をされるたび、私だけでなく、きっと女房も内心で葛藤に悩んできたはず。『帰還』という生き方を信じているが、逃げ場のない課題を突きつけられているようで」

 そして、そのことも「女房には負担を感じることだったかもしれない」と菅野さんは言う。

夫婦で夢見る未来

「また2人で始めよう」――菅野さんと久子さんは「帰還」という未来を、そう語りあってきた。2人でいることがこれまで、どんな困難も乗り越えて生きる力になってきた。

 出会ったのは、お互い20歳の時。久子さんは同じ浜通り地方でも飯舘村から遠く、温暖な楢葉町の農家の娘だった。福島県が主催した「新・有権者の集い」という若者の交流研修イベントで偶然一緒になり、恋に落ちた。

 久子さんは家を継ぐ立場にあり、「なんで飯舘なんかに嫁に行きたいのか?」と言われたという。菅野さんは「中学生のころ、飯舘は『福島のチベット』という新聞記事も出た」と苦笑する。「飯舘の子どもたちは貧乏で長靴を買ってもらえず、雨が降ると、はだしで学校に行く」という記事があったとも記憶している。

「飯舘の農家たちが『畜産の村にしよう』と力を尽くしたのも、貧しさを生んだ冷害常襲地の歴史を変えようという思いが、みんなにあったからだ」

 菅野さんはそんな若手農家が集い、和牛繁殖に取り組んだ「肉用牛多頭化部会」(後に和牛改良部会)の中心になり、21歳で2代目部会長になった。「若い連中にやらせてみよう、という気概が先輩たちにもあった」と振り返る。生き物を飼う畜産農家の暮らしは朝早く始まり、休日もなしだが、久子さんは結婚と同時にそんな新生活に飛び込み、菅野さんと二人三脚の同志になった。

「比曽の支部もあり、仲間とスライドなどの資料を作って勉強会をし、議論をし、部会全体の催しや牛肉のPRイベントも企画した。牛のお産と重なったりすると大変な忙しさだった。それは女房も同じ。長男が生まれ、自分は風呂に入れる役目だったが、自分が招集する会議が夜にあり、そちらに急いで出掛けようとすると、『自分の子どもも風呂に入れられずに、どうして集まりが優先なの?』と怒られた。

 でも、仲間の牛が難産だと聞けば、どんな時間であろうと大勢が手伝いに集まった。自分1人ではなく、どうすればみんなが一緒に良くなれるのかを常に考え、人のつながりを通して、それが分かった。昔、知らない大人から、いきなり『義人、ここは1人で生きる所じゃない。みんなで生きる所だ。それを忘れるな』と教えられた。誰もそれを言えなくなった時が、この村の本当の危機なのだ」

 久子さんは、避難指示解除からわずか5カ月余り後の8月末、がんと闘いながら村に帰還して亡くなった知人の佐野ハツノさん=(享年70)・拙稿『飯舘村「帰還」の哀しみ』(上)(下)2017年10月22日参照=を自らの経験に重ねて、「この原発事故と避難生活で苦しまなかった人なんて1人もいなかった。『帰りたい』という思いの半ばで倒れた人もきっと数知れない」と語った。

 菅野さんは、北海道に避難した長男義樹さんら農業後継者たちが村を離れてしまい、自分の若いころのような経験をさせてやれないことが残念だという。

「私たち夫婦も孫の面倒を見られない寂しさはある。が、長男夫婦も見ず知らずの土地で苦労して人に交わり、教えられているのだろう。私たちは65歳だが、できるだけ頑張って丈夫に生き、衰えた農地を何年掛かっても回復させて次の代に渡したい。途切れた人の絆をつなぎ直せるよう。それが役目になった」

 自分自身にそう言い聞かせ、菅野さん夫婦は夢を紡ごうと苦闘を続ける。


寺島英弥 ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。
(2018年1月22日フォーサイトより転載)

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