大震災5年後の被災地 「飯舘村」住民の苦闘(上)「丸川発言」の波紋

2月8日の信濃毎日新聞は、丸川珠代環境相が前日、松本市内で講演したという記事を載せた。

2月8日の信濃毎日新聞は、丸川珠代環境相が前日、松本市内で講演したという記事を載せた。ニュースになったのは講演での発言だ。東京電力福島第1原発事故の後、政府が全住民避難を指示した被災地で行っている除染で、年間被ばく量の目標を1ミリシーベルトとしている点について、「『反放射能派』と言うと変ですが、どれだけ下げても心配だと言う人は世の中にいる。そういう人たちが騒いだ中で、何の科学的根拠もなく時の環境大臣が決めた」などと語ったという(発言部分は同紙の記事から引用)。

「年間1ミリシーベルト」は、政府の原子力災害対策本部が昨年6月に決定した基本方針「原子力災害からの福島復興の加速に向けて」(改訂版)に以下のように明記してある。「住民の方々が帰還し、生活する中で、個人が受ける追加被ばく線量を、長期目標として、年間1ミリシーベルト以下になることを引き続き目指していく」。この文言に続き、線量水準に関する国際的・科学的な考え方を踏まえて対応することについて、「住民の方々に丁寧に説明を行い、正確な理解の浸透に引き続き努める」ことを政府自らに課している。

国際放射線防護委員会(ICRP)は、原子力災害の「復興期(現存被ばく状況)」にある場合の目標を1~20マイクロシーベルトと勧告し、その範囲での適切な防護をした上での長期目標を「年間1ミリシーベルト」としている。政府は原発事故被災地の避難指示解除要件として「年間20ミリシーベルトを下回る」ことを除染目標を掲げている。

被災地住民にとっての「丸川発言」

原発事故被災地の復興に向けて政府が決めた方針であり、それを丸川環境相が知らぬはずがない。9日の衆議院予算委員会で問われ、「反放射能派」について「秘書がおらず(講演の)記録も取っておらず、こういう言い回しをしたという記憶もない」と答弁し、翌10日にも「1ミリシーベルトを除染だけで達成するとか、帰還の際の目標値だと誤解している人がいる。住民との意思疎通が不十分だったとの指摘をしたいとの趣旨だった」と釈明した。

昨年10月、第3次安倍改造内閣発足で就任した丸川環境相は同月8日に福島市入りした際、訓示に訪れた同省福島環境再生事務所で「『原発事故直後、東京で電気を使っている立場として申し訳ないと思っていた。皆さんと共に頑張っていきたい』と言葉を詰まらせながら職員に訓示した」という(同9日の河北新報より)。発言を被災地の住民はどう聴いたのか。

「あれだけの原発事故を起こして、国が自らの責任で除染を行っている以上、被災地の環境回復と住民の帰還のために少しでも線量を下げる、しっかりやっていく、と言うべき立場なのが環境相ではないか。目標通りの安全を目指してもらいたいのは『反放射能派』でなく、被災地への帰還を願う我々当事者だ。(丸川環境相は)初心の謙虚さを忘れたというより、線量を低くすることよりも『早く幕引きをしたい』という政府の本音を出したようだ。政府は来年3月までの避難指示解除(全住民が避難する地域が対象。帰還困難区域を除く)を決めたが、そこからどうやって生活していけるかが帰還者には問題なのだ」。福島県飯舘村の比曽地区から二本松市に避難し、帰還の道を模索している農業・菅野義人さん(63)は語る。

放射線量は高レベルのままなのに......

阿武隈山地の山懐にある飯舘村で、比曽は南部に位置する標高約600メートルの高冷地。村で唯一の帰還困難区域である長泥地区に隣接する。〈3月15日 44.7マイクロシーベルト/毎時・以下同じ〉〈16日 24.4 マイクロシーベルト〉〈20日 17.9マイクロシーベルト〉〈25日 11.7マイクロシーベルト〉〈30日 7.96マイクロシーベルト〉。この数値は、2011年3月11日の大震災とともに起きた福島第1原発事故の直後の同じ3月中、飯舘村役場の隣で測定された放射線量(地上1メートル)の推移だ。

村は、行政区(住民の自治会組織)がある村内20地区でそれぞれに放射線量の定点測定を始めた。4月5日、村役場の隣の数値は6.25マイクロシーベルトに減ったが、比曽(2地点)では8.45マークロシーベルト、14.6マイクロシーベルトと高い数値が計測された。4年が経過した15年3月27日の定点測定では2.35マイクロシーベルトに減ったが、それでも年間20ミリシーベルト(毎時単純換算2.28マイクロシーベルト)を上回った。

《自民党の東日本大震災復興加速化本部は14日、震災と東京電力第1原発事故からの復興に向けた5次提言の骨子案を発表した。住民避難が続く福島県内の「居住制限区域」と「避難指示解除区域」について、事故から6年となる2017年3月までに避難指示を解除する目標を示した。今月中にも正式に取りまとめ、政府に提案する。》(15年5月15日の河北新報より)

この提案を受けて政府は、原発事故から6年となる17年3月までに(帰還困難区域を除いて)避難指示を解除する――という方針を昨年6月12日に閣議決定した。各地に離散した被災者たちの避難生活に期限が切られ、この時点で環境省による家屋除染のさなかだった古里に帰還するか否かの判断、選択を1人1人が迫られることになった。政治がついに原発事故の幕引きにかじを切ったとも言えた。先の自民党の提案が報じられた後の同5月下旬、比曽地区の避難中の住民が集い、村の幹部と意見交換をする「行政区懇談会」が福島市の飯舘村飯野出張所(役場仮庁舎)で開かれた。住民たちは不安と疑問を抱えていた。

安全な環境を住民は求める

「(避難指示解除についての)新聞報道を知って、村民は不安でたまらない。説明を随時してもらいたい。私たちは懇談会の1週間前に、比曽行政区としての『質問書』を作成した。安心できる場所に安心して戻れることが我々の願いだ。その環境を確保してほしい」。菅野秀一行政区長はこう訴えた。住民を代弁する菅野典雄村長あての質問書も提出した。

『昨年度から国の(家屋)除染、本年度から農地除染が開始されたばかりの今の状況で避難指示区域の解除時期が報道されることに、大変不安を持っている。早急な帰還を住民が望むのは当然だが、それは以前のような健康で安心して暮らせる環境と生活できる経済的な裏付けがあってのこと。この条件が整備されるのか。いまだに安心して帰還できる住環境の空間線量基準の明示も、また生産意欲を抱かせるための農地の放射性物質汚染の低減に向けた対策も進んでいるように見えず、農地の詳しい汚染土調査もされていないように思われる。空間線量および土壌汚染に対しての検証と結論づけを慎重に行うべきだ』

質疑では、次のような意見が相次いで村幹部に投げ掛けられた。「帰村が宣言される根拠というが、それは、生きていく見通しが立った時のことだ。農を再開できても、高線量の中で食料生産をしたら、消費者から警戒される。地元で生きていくすべはないのか」「地元に戻りたい人は、年寄りが多い。今の比曽の状況では、1、2年で戻れるはずがない。除染もインフラの回復も、どうなるか分からない。それなのに、『帰還』の話ばかり。高齢者世帯は、金取り(収入の道)がないのだから、姥捨(うばすて)山みたいになってしまう」

木々に付いた放射性物質の影響

比曽の行政区は、環境省による家屋の除染作業が本格化したのにあわせて14年春、役員や元区長らをメンバーとする「除染協議会」を設け、「高線量地区の実情に応じた方法の除染をしてほしい」と環境省福島環境再生事務所に要望を重ねた。地域づくりが盛んだった比曽では、住民が避難生活を強いられた後も放射能汚染からの環境・生業の再生を諦めることなく、希望の糸口を自ら調べて環境省側に提案しようという活動を続けてきた。

12年4月、支援NPO「ふくしま再生の会」の協力で地区全域の放射線量と土壌の放射性濃度を測定し、同年9月には前区長の菅野啓一さん(61)が小型重機で、放射線量が特に高い居久根(いぐね・屋敷林)の枝葉除去と林床の土はぎ取り(深さ約10センチ、奥行き約20メートル)の実験を行った。その結果、地表面の放射線量は20.5マイクロシーベルトから1.8マイクロシーベルトに減り、地上1メートルの高さでも9マイクロシーベルトから2マイクロシーベルトと大幅に減った(福島第1原発事故の政府事故調査委員会委員長だった東大名誉教授畑村洋太郎さんの研究グループも13年11月、比曽を訪れて菅野さんらと共同で同様の居久根の除染実験を行い、効果をあらためて実証した)。

比曽にある86戸の家屋除染が完了した後の15年5~7月、菅野啓一さんは行政区の活動として50ccバイクで全戸を巡り、家の周囲の放射線量を測定した。つくば市の放射線研究者、岩瀬広さん(40)が分析を支援し、除染後と除染前の測定値の比較を試みた。家屋除染を独自に検証する活動だった。その結果は一様な傾向を示した。大半の家で、南側に開けた玄関側の線量は1マイクロシーベルト前後に下がったが、居久根に面した裏手では3~4マイクロシーベルト強の数値が並んだ。「居久根からの影響は明らか。原発事故から4年を経ても、木々に付いた放射性物質の影響が強い」と岩瀬さんは分析した。

「期限」と「安全」どちらが大事か

環境省の除染方法は、家のまわりで表土から「深さ5センチ」の汚染土のはぎ取りをするが、居久根については林床の落ち葉など堆積物を除去するのみで、はぎ取りを行っていない。防風林を研究し、比曽で居久根に付いた放射性物質の実態を調査してきた辻修帯広畜産大教授は「落ち葉が林床で分解すると、放射性物質が葉から離れ、雨水で腐葉土層の下まで浸透する。表面の堆積物除去だけでは足りない」と指摘した(「居久根は斜面に多く、重機によるはぎ取りは土砂崩れにつながる」と同省福島環境再生事務所は取材に答えた)。

「比曽の住民の大半は農家だ。放射線が怖くて家にこもっているような生活はできない。家の裏手も居久根も一体の生活環境だ」と菅野啓一さんは語った。「俺たちが確かめた方法で再除染してほしい。17年3月の避難指示解除の期限と安全とどちらが大事なのか」

帰還を志す仲間で前述の菅野義人さんの自宅裏には、氏神の古い社が立つ居久根がある。杉木立の間の社には、延享2年(1745年)の年号と先祖の菅野伝右衛門の銘が入った鉦(かね)がいまも下がっている。14年の秋、やはり「家族が代々お参りしてきた場所だ。生活圏と認めてもらいたい」と同省の現地担当者に訴え、特例的に社の周りだけ土の剥ぎ取りが行われた。

菅野義人さんは測定データを記録し、除染前に地上1メートルで7.93マイクロシーベルトあった放射線量は、環境省が当初行った林床の堆積物除去の後で6.41マイクロシーベルトと約2割しか減らなかったのに、剥ぎ取り後は2.58マイクロシーベルトと約7割減になった。「家の周囲が等しく安全な環境に戻らなければ、住民も帰れない。土の剥ぎ取りは帰還への必須の条件だ」と菅野義人さん。福島県森林計画課が15年3月に公表した森林モニタリング調査結果「森林の放射性物質対策について」によると、森林に降った放射性物質の75%がこの5年で枝葉から土壌(深さ5センチ内)に移行した。表面の堆積物除去では足りないのは明白だった。(つづく)

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寺島英弥

河北新報編集委員。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。東北の人と暮らし、文化、歴史などをテーマに連載や地域キャンペーン企画に長く携わる。「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」など。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。

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(2016年2月24日フォーサイトより転載)

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