金正男氏暗殺の謎:「白頭の血統」の視点から--平井久志

故金日成(キム・イルソン)主席の血筋を引く「白頭の血統」の者が殺されたことはない。

北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長の異母兄である金正男(キム・ジョンナム)氏が2月13日午前、マレーシアのクアラルプール空港で毒殺された。

「金正男死亡の情報」

実は、筆者は2月14日の午後の早い段階で、金正男氏が死亡したという情報に接した。韓国の情報機関・国家情報院が確認に動いているようだった。

しかし、筆者は、この情報に敏感に反応できなかった。それには筆者なりの理由があった。年齢も若い金正男氏が死亡したとなると、考えられるのは「暗殺」だった。金正男氏を暗殺するとなると、それは常識的には北朝鮮しかない。

「白頭の血統」

北朝鮮では過去、凄まじい粛清が繰り返されてきた。幹部が粛清されたり、銃殺されたりすることはよくあることだ。

しかし、これには例外があった。故金日成(キム・イルソン)主席の血筋を引く「白頭の血統」の者が殺されたことはない。

金ファミリーでも、金正恩党委員長の叔父である張成沢(チャン・ソンテク)党行政部長が粛清・処刑され、金正男氏の叔母にあたる成蕙琅(ソン・ヘラン)の息子・李韓永(リ・ハンヨン)氏が亡命先のソウルで北朝鮮工作員とみられる者に銃殺されることはあった。しかし、張成沢氏も李韓永氏も金ファミリーであり、金日成主席の姻戚ではあるが、金日成主席の血は引いていない。

北朝鮮では金日成主席の血統は「白頭の血統」と呼ばれ、「白頭の血統」への忠誠は北朝鮮を支えている核心的なイデオロギーだ。

北朝鮮では「白頭の血統」は神聖不可侵の存在だ。このイデオロギーがあるから、北朝鮮の最高指導者は金日成主席の血統からしか出ず、ここから出す必要がある。

金正日(キム・ジョンイル)総書記は金日成主席の後継をめぐり、金日成主席の弟である金英柱(キム・ヨンジュ)氏や異母弟である金平日(キム・ピョンイル)氏(現駐チェコ大使)との権力闘争を繰り広げた。

金正日氏は後継者の座を獲得するために、叔父の金英柱氏や継母・金聖愛(キム・ソンエ)氏、金平日氏らにつながる人脈への徹底的な弾圧を加えた。これは「横枝(キョッカジ)叩き」といわれた。白頭の血統の中で幹が大きく育つためには「横枝」は刈らねばならないという論理だった。

金正日氏がこの権力闘争に勝利して後継者の座を獲得するが、金英柱氏、金平日氏の命を奪うことはなかった。それは「白頭の血統」につながる人々であったからだ。金英柱氏は1993年に国家副主席として復権し、金平日氏は東欧の大使へ転出した。

金正恩氏が最高権力者の座に座れたのは、彼の実力というよりは、彼が金日成主席の孫であり、金正日総書記の息子であるからだ。

金正男氏を殺す必要があるのか?

金正日総書記は一時、金正男氏を要職に就けたことがある。後継も視野に、彼の実力を養わせ、その能力を見ようとしたとみられる。当然、周辺では後継者という目で彼を見て、彼の周辺に人が集まっただろう。

しかし、結果的には金正男氏は父親の期待に応えられず、要職を解任されたようだ。

それに加えて2001年5月に息子や2人の女性と日本のディズニーランドを見物に行こうとして成田空港で偽造旅券が発覚、強制追放された。これ以降は、1度の帰国を除いて、基本的に北朝鮮に帰らず、中国やマカオ、東南アジアを転々とする生活を続けていた。

一時は海外のメディアのインタビューに答えたりしていたが、金正恩政権がスタートして以降は、本人自身がメディアとの接触を嫌い、自分の意見を語ることも避けていた。

北朝鮮本国には彼を支える勢力はなくなり、金正恩氏にとっては、その地位を脅かすような存在ではなくなっていた。金正恩氏が現時点で、金正男氏を殺す必要性はないとみられた。

殺害は「白頭の血統」の否定

さらにこの時点で3日後の2月16日は金正日総書記誕生75周年の日だ。北朝鮮では金正日総書記の業績が強調され、金日成主席、金正日総書記、金正恩党委員長という「白頭の血統」の偉大性が称えられる。その直前に「白頭の血統」の直系である金正男氏を殺害するだろうか?

筆者は「金正恩党委員長が金正男氏を殺せば、それは金日成主席の孫、金正日総書記の息子を殺すことになる。それは自ら『白頭の血統』を否定することになる。そんなことをするだろうか。それは『白頭の血統』への忠誠という自分自身を支えているイデオロギーを自分自身で否定することになるのでは」と考えた。「『金正男暗殺』はよくある誤報騒ぎではないか」と考えた。

金正男氏の死亡確認

韓国の聯合ニュースは2月14日午後8時13分「北韓の金正恩の異母兄、金正男、マレーシアで殺される」と緊急報道を行った。韓国ではその前に朝鮮日報系のケーブルテレビ「テレビ朝鮮」が同午後7時40分に「金正男氏マレーシアで殺される」と報じていた。

この時点での各種情報を総合してみると、金正男氏がマレーシアのクアラルンプール空港で何者かに毒殺されたことは事実とみられた。

筆者はその時点でも、金正恩政権が金正男氏を殺害してプラスになることよりも、マイナスの方が大きいという考えからは解放されなかった。合理的に考えれば、金正恩政権が金正男氏を殺さなければならない重大な理由は見つからない。しかし、犯行は北朝鮮以外に考えにくいという疑問に陥った。

マレーシアのザヒド副首相は16日、記者会見で、殺害されたのは正男氏だと正式発表した。死亡した男性は北朝鮮旅券を所持し、その名前は「キム・チョル」となっており、「1970年6月10日 平壌生まれ」となっていた。金正男氏は1971年5月10日生まれとされている。

彼がしばしば「キム・チョル」という偽名を使っていたという情報もあった。マレーシア当局は韓国政府が提供した指紋やDNAと照合し、金正男氏と確認したとみられる。

不可思議な暗殺手法

マレーシアの警察当局は2月17日午前の段階でベトナム旅券を保持した女性とインドネシア旅券を保持した女性の2人の身柄を拘束し、2人に犯行を指示したと見られている4人の男性の行方を追っている。

しかし、ベトナム旅券を持った女性はこうした犯行を行うにしては極めて目立つ「LOL」と大きなロゴが書かれたシャツを着て、犯行後も空港近くのホテルにいるなどテロ犯とは思えない行動を取っている。一方では、ホテルで髪の毛を大量に切って、イメージを変えようとした形跡があるなど不審な点もある。

マレーシア紙・東方日報は、女は男4人から「悪ふざけをしよう」と持ち掛けられ、別の女と2人で正男氏を襲ったと供述していると報じた。女らはスプレーを吹きかけ、ハンカチで顔を10秒近く押さえたという。

韓国メディアは北朝鮮の女性工作員が第三国の偽造旅券を使って行った犯行の可能性を繰り返し報じたが、インドネシア政府はインドネシア女性の所有していた旅券は偽造ではなく本物であるとした。

「外部発注」の可能性?

こうなってくると考えられるのは、北朝鮮が金正男氏の殺害を第三者に依頼したということだ。

しかし、北朝鮮がこうしたテロ行為を「外部発注」するケースは極めてまれだ。第三者に犯行を依頼し、最後の段階で裏切られれば、自分たちの犯行がばれてしまう。北朝鮮のテロの多くは、長年の訓練を積んだ工作員の犯行だ。

過去のテロ事件で唯一の例外といえるのは、1986年のソウル・アジア大会開催を前にした金浦空港爆破テロ事件だ。この事件は爆破に使われた爆弾が過去に北朝鮮が使った爆弾と似ているとみられたことなどから、韓国政府は北朝鮮の犯行とした。

しかし、北朝鮮の犯行を裏付ける明確な証拠はなかった。

朝鮮日報系の月刊誌「月刊朝鮮」は2009年3月号で、この事件は旧西ドイツの赤軍派要員が英国人に偽装し、金浦空港のゴミ箱に爆発物を置いて香港に出国した事件だったことが旧東ドイツ情報機関の資料にあったと報じた。同誌は、この事件はアブニダルの組織が北朝鮮の依頼で行ったものだとした。

しかし、この場合も第三国とはいえ、専門の工作員の犯行である。今回の犯行の手口をみていると、結果的に殺害には成功したが、プロの犯行のようには見えない。16日に逮捕されたインドネシア人の女性容疑者は、見知らぬ男に「いたずらビデオ」の撮影を持ち掛けられたと供述している。

北朝鮮は沈黙、崔龍海氏が姿見せず

この事件に北朝鮮側は2月17日現在、沈黙を守っている。北朝鮮では2月15日に平壌で「わが党と人民の偉大な首領である偉大な領導者、金正日同志誕生75周年慶祝中央報告大会」が開かれた。金正恩氏も出席したが、極めて堅くて暗い表情だった。

さらに、金正恩党委員長は16日午前零時(日本時間同零時半)には金日成主席や金正日総書記の遺体が安置された錦繍山太陽宮殿を、幹部を引き連れて訪問した。

中央報告大会と錦繍山太陽宮殿訪問で関心を引いたのは崔龍海(チェ・リョンヘ)党中央委員会副委員長と、国家安全保衛相を解任されたとされる金元弘(キム・ウォンホ)氏の姿がなかったことである。金元弘氏の姿が見えなかったのは革命化教育を受けているためとみられるが、2月1日の行事には姿を見せていた崔龍海氏の姿がないことが関心を呼んでいる。

韓国統一部は「身辺異常説まで考えるにはまだ無理がある」としている。一部では訪中説も出ているが、これも確認されていない。

北朝鮮が今回の金正男氏の暗殺に直接的に言及する可能性は低いとみられる。

問題はマレーシア当局の捜査がどう進展するかだ。身柄を拘束している2人に犯行を指示したとみられる4人の男がどういう人物たちなのか、北朝鮮の関与が出てくるのかだ。場合によっては、事件の真相は不明のままになる可能性もある。

韓国当局は「5年前の暗殺指令が生きている」

韓国の情報機関・国家情報院が2月15日に国会の情報委員会へ報告したところでは、北朝鮮は金正恩政権スタート直後の「2012年から金正恩氏の暗殺を図っていた」とした。

さらに、李炳浩(イ・ビョンホ)国家情報院長は「金正男暗殺は金正恩政権執権以後、『スタンディング オーダー』(取り消されるまで有効な命令)だった」とし「2012年に本格的な試みがあり、その後の2012年4月に金正男氏が『私と私の家族を助けてくれ』と書信を送った」と述べた。

しかし金正男氏は、以前は行動の拠点を北京などの中国に置いていたが、中国の監視を嫌い、マカオや東南アジアに拠点を移した。自分や家族の身の危険を感じていたのなら中国を離れただろうか。

また、日本のメディアをはじめ、実は密かに金正男氏と交流をしていた人たちは多い。そうした「アマチュア」でもコンタクトが可能だったし、映像で紹介されているように金正男氏は1人で自由に活動してきた。5年前の暗殺指令がずっと有効ならもっと早くにいつでも殺害できたのではないか。

張成沢事件の余波

筆者は今回の事件にそうした疑問を持ちながら、しかし、もし、北朝鮮が行った暗殺であるなら、それは金正恩党委員長の個人的な感情のためではないかと思うようになった。あくまでも、北朝鮮の犯行が立証されればという前提での推論だ。

まず考えられるのは、張成沢党行政部長粛清の余波だ。張成沢氏に連なった勢力はほぼ根絶やしにしたが、金正恩党委員長はその後も張成沢氏の業績となるようなものをすべて否定し、その痕跡を残さないようにしている。それは偏執的なものだ。

金正男氏は幼いときから金慶喜(キム・ギョンヒ)・張成沢夫妻の世話になってきた。金正男氏が2001年に日本から国外追放されて以降も、金慶喜・張成沢夫妻と連絡を取ってきたようだ。張成沢氏が海外に秘密資金を置いていて、金正男氏がそれと関連していた可能性は高い。

そして、金正恩氏が張成沢氏の粛清活動を続けている中で、再び金正男氏の存在が浮上した可能性はある。今回の事件を張成沢氏粛清事件の延長とみる見方だ。

さらに本質的な動機はやはり「白頭の血統」だ。「白頭の血統」を考えると、この血統の嫡流は金日成主席から長男の金正日総書記、それから長男の金正男氏になる。金正恩氏は金正日総書記の3男である。金正恩氏が自身を「白頭の血統」の傍流であると考えれば、嫡流の金正男氏の存在は許せないだろう。

さらに、金日成主席は、最初は金正男氏の存在を知らなかった。金正日総書記には金英淑(キム・ヨンスク)氏という本妻がおり、金正男氏の母・成蕙琳(ソン・ヘリム)氏との同棲は、金日成主席には秘密であった。しかし、後にこれが金日成主席の知るところになった。この時に取りなしたのも金慶喜・張成沢夫妻である。しかし、金日成主席は、金正男氏の存在を知ると初孫として溺愛する。

韓国の朴振(パク・ジン)元議員は聯合ニュースとのインタビューで、カーター元大統領が1994年に訪朝して金日成主席と会った時の話を、その直後に会った金泳三(キム・ヨンサム)大統領に語ったエピソードとして紹介した。朴元議員は当時、金泳三大統領の通訳だった。

カーター元大統領が金日成主席に「趣味は何か」と尋ねると「われわれ夫婦は釣りと狩りが好きだ」と語った。そして「息子(金正日総書記)は党と軍の仕事のために狩りをする時間はなく、孫(金正男氏)と釣りを楽しむ具合です」「私が一番大切にする孫」と語り、金正男氏への愛情を語った。

金正恩氏は現在、偶像化作業を行っているが、まだ金日成主席と一緒に写した写真は公表されていない。金正恩党委員長は1984年生まれとみられるが、1994年に亡くなった金日成主席が金正恩党委員長の存在を知っていたかどうかは不明だ。これは今後の金正恩党委員長の偶像化作業にとっては大きな弱点だ。

さらに、金正男氏の母、成蕙琳氏も、金正恩党委員長の母・高英姫(コ・ヨンヒ)氏も正妻ではない。さらに、高英姫氏は在日出身というハンディを抱えている。

こうした状況を考えると、金正恩氏は「白頭の血統」の視点からある種のコンプレックスを持っているとも考えられる。自分より優れた血筋に当たる金正男氏の存在を容認できないという心理に陥る危険性だ。金正恩氏の偏狭な考えが金正男氏の暗殺につながった可能性はある。

横枝叩きと制止者の不在

激しい権力闘争と粛清が繰り返された北朝鮮においてなぜ「白頭の血統」に犠牲者が出なかったのかを考える時に、金日成主席の存在を考えざるを得ない。

金正日総書記が、自らが後継者になるために、金日成主席の弟の金英柱氏や妻の金聖愛氏、息子の金平日氏への圧迫を強めても、金日成主席は殺すことは許さなかったはずだ。金正日総書記は金日成主席の下で自らの権力を構築してきただけに手が出せなかったといえる。

金正日総書記が「横枝叩き」として、金英柱氏や金聖愛氏、金平日氏を圧迫したように、金正恩氏は自らにとって「最大の横枝」である金正男氏を除去したのかもしれない。金正恩氏はこの「横枝」は放置すれば「幹」の成長を妨げると考えたのだろう。

金正日時代には金日成主席という強大な抑止者がいた。しかし、現在は、金日成主席のような存在はいない。金正恩氏と金正男氏の父の金正日総書記もいない。「白頭の血統」に危害を加えることを止める強力な抑止者が不在だ。本来ならば、これは金日成主席の娘であり、金正日総書記の妹である金慶喜氏が果たすべき役割である。しかし、金慶喜氏は夫の張成沢氏の粛清以降、もはや金正恩氏に影響力を行使できるほどの存在ではない。

しかし、もし、金正恩党委員長が金正男氏の暗殺を指示したのであれば、それは北朝鮮という国がこれまでつくり上げてきた「白頭の血統」というイデオロギーを否定するものだ。金正男氏の暗殺はすぐには北朝鮮内に広がらなくても、韓国側の政治宣伝などにより、次第に住民の間に広まるだろう。「白頭の血統」というイデオロギーが、単なる権力闘争のレベルに引きずり落ちる危険性がある。それは金正恩氏が目指している、自身の偶像化作業に難関をつくることになりはしないだろうか。

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平井久志

ジャーナリスト。1952年香川県生れ。75年早稲田大学法学部卒業、共同通信社に入社。外信部、ソウル支局長、北京特派員、編集委員兼論説委員などを経て2012年3月に定年退社。現在、共同通信客員論説委員。2002年、瀋陽事件報道で新聞協会賞受賞。同年、瀋陽事件や北朝鮮経済改革などの朝鮮問題報道でボーン・上田賞受賞。 著書に『ソウル打令―反日と嫌韓の谷間で―』『日韓子育て戦争―「虹」と「星」が架ける橋―』(共に徳間書店)、『コリア打令―あまりにダイナミックな韓国人の現住所―』(ビジネス社)、『なぜ北朝鮮は孤立するのか 金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮選書)『北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ』(岩波現代文庫)など。

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(2017年2月18日フォーサイトより転載)

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