【賀衛方・北京大学教授「独占」インタビュー】「習近平体制」の行き詰まりを物語る「劉暁波」の悲劇(上)--野嶋剛

いまなお中国政府の立場と異なる意見を発表する数少ない中国の良心的知識人の1人、賀衛方・北京大学教授にインタビューした。

いまなお中国政府の立場と異なる意見を発表する数少ない中国の良心的知識人の1人、賀衛方・北京大学教授にインタビューした。

賀教授は中国の政治改革や司法改革を当局の圧力を受けながら20年以上にわたって訴え続けており、先日肝臓ガンで亡くなったノーベル平和賞受賞の民主活動家・劉暁波氏が起草の中心になって逮捕された2008年の「08憲章」にもいち早く署名した人物である。

当初、私は賀教授が来日中だった6月上旬に話を聞いていたのだが、その後、賀教授とも親交の深い劉暁波氏が末期ガンで非業の死を遂げ(2017年7月14日「『私に敵はいない』劉暁波を最後まで『敵』とした中国共産党」参照)、改めて、中国にいる賀教授に追加取材を行った。劉暁波氏の早すぎる死に対して、抑えきれない悲しみ、中国当局の無情に対する怒りが言葉の端々から溢れていた。

「08憲章」最初の署名者に

野嶋:賀衛方教授と劉暁波さんの交流はどのような形で始まったのでしょうか。

賀衛方教授:私と劉暁波の付き合いは2004年ごろからで、当時、彼はすでに当局の監視下にあって自由を半ば奪われ、国内のメディアでは文章を発表できず、海外でときどき文章を書くことしかできていませんでした。一緒にシンポジウムに参加し、仲間と食事をする機会があり、彼は私に対して、熱心に中国のペンクラブに参加するように誘ってくれました。最初、私は自分が作家とは言えないので断っていたのですが、彼はずいぶん熱心に誘ってくれて、最後はペンクラブに入ったのです。

野嶋:劉暁波さんの人柄についてはどんな印象でしたか。

:私の印象では、劉暁波はとても誠実で快活な人間です。自分では酒はあまり飲めないのですが、酒の席ではいつも人に飲むように勧めるのです。いつも「衛方は大酒飲みだから、みんな、一緒にどんどん飲みに行きなさい」と言っていました。彼の情け深く朗らかな笑い声には人を惹きつける力がありました。

野嶋:中国政治について、お2人はどんな話をしていたのですか。

:2008年1月、彼の家の近くの茶館に誘われ、鲍彤氏(趙紫陽・元首相の元ブレーン)と一緒に歴史や時事問題を議論しました。私は、中国が社会主義イデオロギーから一刻も早く脱却すべきことの切迫性を説いたところ、鲍彤氏は、社会主義は単なる名前であり、必ずしも廃止しなくてもいいという意見でした。

しかし、私は、もし基本的な政治的自由や財産の私有化などを受け入れるならば、社会主義の名前と実態が乖離し、絶え間ない論争を生むため、やはり廃止すべきだという意見を語りました。思うに、その茶館での討論のころから、劉暁波はのちに自由を失う原因となる「08憲章」のことを考え始めていたのだと思います。

その年の夏、劉暁波や彼の仲間は「08憲章」の起草作業に全力を挙げていました。彼は私に対して08憲章の草稿への意見を求めました。「憲章」とある以上、私の専門である法律と密接に関係していると劉暁波は考えたからです。

ざっと見てみたところ、「前言」のところの表現を少し柔らかくしたほうが多くの人に受け入れられやすいのではないかとアドバイスしました。また、連邦制を提起していましたが、この問題では異なる意見も多く、連邦制に対して社会がより正確に認識したあとに推進するほうがよく、基本主張のなかに入れないほうがいいという意見も伝えました。

その後、最終版ができあがり、「前言」のところは柔らかな表現になっており、連邦制のところも弱めて書かれていました。劉暁波に対して、私は08憲章に最初に署名する1人になってもいいとはっきり伝えました。

1日でも冤罪

野嶋:08憲章を発表したあとは何が起きたのでしょうか。

:もともと予定していた発表日は、その年の世界人権デーの12月10日です。しかし、メールや郵便、電話のやりとりが当局の監視から逃れられませんでした。劉暁波らは予定の2日前にネットで文書を発表し、本人はその日の夜に身柄を拘束され、以来、彼は亡くなるまで1日として自由を得ることはありませんでした。彼が拘束されたあと、08憲章に署名した仲間たちは続々と釈放を当局に求めました。

鲍彤氏も、「08憲章のどこに罪があるのか」と怒りを込めて問いかけました。崔衛平・北京電影学院教授(当時)や徐友漁・中国社会科学院哲学研究所研究員(当時。いずれも「異見人士」と呼ばれる、当局にも耳の痛いことを語ろうとする人々)らが中心になって、私たち08憲章の署名者による「我々と劉暁波を分けることはできない」という呼びかけを始めました。崔衛平は当時始まったばかりの『微博』(中国版ツイッター「ウェイボー」)を利用して、みんなに呼びかけました。

私はこんな文章を書きました。

「最近、海外のメディアが電話取材で、劉暁波に対する懲役11年という扱いについての私の見解を聞いてきたので、私は『何も言うことはない』と答えました。記者は『11年は重すぎると思いますか』と聞くので、私は『3年ならば適切なのか』と答えました。根本的にまったく罪を犯していない人間にとっては1日でも重すぎる。1日でも冤罪です。そして逆に、彼が牢獄で11年も置かれ続けると思いますか、と聞き返しました」。

野嶋:しかし、現実にはその後も劉暁波さんはずっと刑務所に置かれたままでした。

:私たちは楽観的すぎました。世界がどれほど呼びかけようが、劉暁波はずっと監獄から出られませんでした。私たちは善意に基づく甘い想像を抱き、当局が国際的なイメージに配慮して、半分ほど刑期を終えたら釈放されると期待しました。しかし1年が過ぎ、また1年が過ぎて、彼はなお、東北地方の錦州の監獄に留め置かれ、すべてが絶望的な状況になりました。

さらにひどいことに、彼の妻である劉霞ですら軟禁状態になり、普通の生活を営めなくなりました。我々友人たちもまったく何も力になることができず、いたずらに時間が過ぎていき、最後には、とうとう彼の釈放の知らせではなく、死の知らせを受け取ったのです。

野嶋:劉暁波さんの病気の不自然さについては多くの指摘が上がっています。

:劉暁波はいったいどうして肝臓ガンを患ったのか、我々には知りえないことです。しかし、当局が6月になって彼が肝臓ガンの末期であることを公表したのは、常軌を逸しており、常識ではありえないことです。なぜ、早期に発見して治療ができなかったのか。無実の罪にあるノーベル平和賞受賞者を末期ガンになるまで、この世を去るまで、刑務所に留め置き続けた非人道的なやり方は、中国の現政治体制の行き詰まりを物語るものです。

ブログを更新する権利すらない

野嶋:法治や言論の自由について、当局の圧力に口をつぐむ言論人が大勢を占めるなかで、賀さんはブログやSNSで勇気ある発言を続けてきましたが、5月下旬、「今後一切SNSでの発信をしない」と語ったとして、海外メディアにも広く報じられるニュースになりました。『AP通信』が報じ、世界中に転電されるニュースになり、日本でも「賀衛方さんにまで何かが起きたのでは」と関心が集まりました。

:私はブログや『微博』、『微信』(ウイチャット)の公式アカウントも持っています。いずれも当局とのトラブル続きで、毎回何らかの文章を発表すると、内容が法律違反だと言われてアカウントが停止されます。どんな内容でもです。ジョークを書いても停止されるかもしれません。私にはまるでブログを更新する権利すらないようなものです。

ウイチャットの公式アカウントは開設から4日後に停止されました。何も政治的な発言はしていないのにです。私は非常に憤り、ウイチャットの『朋友圏』(モーメンツ。フェイスブックのタイムラインに相当)に以後の発言の停止を宣言したのです。『朋友圏』は私と関わりのある人はたいてい読んでくれます。そこで私は、「私の言論への封殺がここまできて、どのような発言もできない以上、ソーシャルメディアを使った対外発信は今後しないことを決めた」と書いたのです。

最後の一言にはこう付け加えました。

「你即便把全世界的公鸡都给杀死,也阻止不了天亮,阻止不了太阳的出来。太阳照样还会升起,天还会亮的(仮に世界中のニワトリが殺されても、夜明けは阻止できない。太陽が昇るのは止められない。太陽は昇り、世の中は光で照らされる)」

それを読んだAP通信が報じたあと、『ドイツ海外放送』の中国語放送がAP通信の報道を中国語にして報じ、話が広がりました。

狭められた言論空間

野嶋:2度とSNSでは発言しないという気持ちはいまも変わりませんか。

:中国の全体状況に変化がない限りは。

野嶋:いまの中国メディアで、賀さんを取材する記者はいますか。

:現在はまったくいないですね。ときどき、事情をあまり知らない記者が、私に電話してきて法律問題について意見を尋ねたりしてきます。そんな時は「まずあなたの組織のトップに私の見解を載せられるかどうか聞いてみてください」と答えることにしています。たいていはしばらくして、「賀さん、申し訳ありません。原稿は出せないようです」という返事が戻ってきます。

過去、私は『南方周末』(中国の有力紙)などで多くの文章を書きました。その後、編集部からは、「賀さん、今後はご専門の法律のことは書かないでください。書評でしたら発表できます」というので、書評をしばらく書いていたのですが、そのうち書評もダメだということになり、旅行記の原稿もダメになりました。この3年ほど、実名で書けるところはどこにもありません。『新京報』も『中国青年報』もダメです。

野嶋:賀さん個人の言論空間がどんどん狭められているのですね。

:深刻なのは、学術雑誌も私を要注意人物と見ているので、私の専門の法律分野でも論文を発表できないことです。出版社も私の本を出してくれません。ですから私は次第に思想家になっているような気がしています(笑)。毎日家にいて思考し、本を読み、思想を内在化させているような......。それもいいでしょう。少しばかりゆっくりと思索を重ねるのもいいかもしれません。

抜本的な変化は難しい

野嶋:賀さんが今後SNSで発信しないという記事を読んで、中国の知識人は「完全沈黙」の時代に入ったと感じました。

:私が「発信しない」と言ったのは、主体的にそうしているのではなく、「発信できなくされている」というのが正しいところです。ちょっとでも語れば削除され、アカウントを止められるのです。発言の余地が与えられず、これは呼吸ができないも同然の状況です。

野嶋:習近平政権が誕生した「18大」(2012年の中国共産党第18回全国代表大会)以後の中国の公知(社会問題などで公に発言する知識人)の運命は大きく変わったと思います。

:確かにそうです。『微博』には価値のある情報は流れなくなりました。ちょっとでも政府批判があればすぐに削除され、あるいは根っこからアカウントを取り消され、言論封鎖は徹底しています。

野嶋:今年の「19大」(秋に予定される第19回大会)以後、前向きな変化があると期待されますか。

:本当にそうあってほしいと願います。ただ、少しばかりの規制の開放、あるいは、少しばかりの締め付けについて、あまり一喜一憂しても仕方ありません。抜本的な変化が望まれますが、この現在の体制に自由と相容れない価値観が内在している限り、抜本的な変化は難しいでしょう。(つづく)

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(2017年7月24日フォーサイトより転載)

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