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マレーシアから見た「金正男暗殺事件」-- 野嶋剛

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北朝鮮の指導者、金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長の異母兄、金正男(キム・ジョンナム)氏とみられる男性が殺害された事件で、現場となったマレーシアと殺害への関与を認めない北朝鮮の関係が緊迫化している。このままでいけば、国際的に孤立する北朝鮮が、東南アジアで歴史的に確保してきた友好国・マレーシアという貴重な足場を事実上失うことは間違いなさそうだ。

国交断絶も?

DNA鑑定で身元を特定できていない状態で遺体の引き渡しを認めないマレーシアに対して、北朝鮮は「我々の敵対勢力(韓国)と結託している」などと述べて強く批判している。いわば陰謀論で、マレーシアが事件の背後にいることをほのめかした形だ。しかし、常識的に考えれば、その国の司法権の及ぶ場所で殺人事件が起きたのであれば、外国の著名人でも起訴されるまで法的手続きを完成させなくてはならないことは言うまでもない。

マレーシアのアマン外務大臣は「マレーシア政府は、我が国の名誉をおとしめるでたらめな批判には非常に厳しく対応する」と述べ、ナジブ首相も「我々は北朝鮮にあえて汚名をかぶせる必要はない。だが、我々は公正さを守りたい」とたまらずコメントした。

これはかなり本音のところであろう。北朝鮮の要求はあまりにも国際常識やマレーシアの主権を無視したものに思える。マレーシア政府も「ふざけるな」というレベルにまでいらだちが高まっている。マレーシアはすでに駐北朝鮮大使を一時帰国させた。マレーシア警察は事件への北朝鮮大使館員の関与を公表し、猛毒のVXガスの使用も断定するなど、調査の手を緩める様子はなく、両国の断交すら見えてきかねない展開になっている。

北朝鮮のメリット

だが、本来マレーシアは北朝鮮にとって、アジアで随一とも言える友好的な国だった。両国の関係は、冷戦下の1960年代に東西両陣営に属さない第3勢力として始まった非同盟運動以来のつながりだ。

同じ非同盟運動の関係もあり、北朝鮮はインドネシア、シンガポール、ベトナムなどASEAN(東南アジア諸国連合)各国と一定の関係を持っており、これらの国の多くの大使館が、北朝鮮産品の輸出や工業製品の輸入などを行うビジネスの拠点として使われてきた。

今後の影響はマレーシアのみにとどまらず、各国で北朝鮮出身者による活動の制限や監視の厳格化といった措置が取られるだろう。

1973年に国交を結んだマレーシアと北朝鮮との近さはかなり際立っている方で、「古き良き友人」だったと言っていいだろう。

2003年には相互に大使館を開設、2009年に両国は合意文書をかわし、マレーシアは世界で唯一、1カ月の短期訪問についてはビザなしで北朝鮮に入国できる国になった。

もちろん北朝鮮国民もマレーシアにビザなしで入国できる。実際は、マレーシアから北朝鮮に行くにしてもグループでのツアー客が多く、個人として自由に出入りするマレーシア人はごくわずかだったとされる。北朝鮮関係者がマレーシアに自由に出入りできるメリットの方がはるかに大きかったに違いない。

マハティール元首相の後押し

これまでマレーシアは、北朝鮮に対してしばしば国際社会の注目を浴びるような交渉の舞台を提供している。2000年に開かれた米朝ミサイル協議や、2002年の日朝国交正常化交渉も、マレーシアの首都クアラルンプールで行われている。

センシティブな問題を扱う外交交渉のホスト国になるには、出席国からのそれなりの信頼がない場合は難しく、高度なロジスティックスのすり合わせも必要なので、どこでもいい、というわけではない。

特にマハティール元首相は、マレーシアが北朝鮮との一定の関係を持つことが米国などに対抗する自主外交の証明でもあるという「意地」もあり、北朝鮮に外交の舞台を提供して存在感を示そうとしていた部分があったと思える。

ASEAN地域フォーラム(ARF)は北朝鮮が参加国メンバーで、北朝鮮の閣僚が定期的に出席して発言する数少ない貴重な国際会議の場となっているが、マハティールは在任中、ベトナムなどとともに北朝鮮の参加を後押ししてきた。

マハティールの引退後も両国の密接な関係は続き、2007年には北朝鮮首相だった金英日(キム・ヨンイル)がマレーシアを訪れ、経済関係の強化に合意をしている。マレーシアのヘルプ大学という私立大学が経済名誉博士号を金正恩に贈ったこともあった。

経済上は、マレーシアも主力輸出産品のパームオイルを北朝鮮が買ってくれるというメリットはあった。北朝鮮の観光局はマレーシアに東南アジアのハブとなるオフィスを開設しており、東南アジア各国からの渡航希望者のビザを処理していたとされる。

北朝鮮製の武器をマレーシアが購入するだけではなく、武器輸出拠点をマレーシアに設けており、米国政府が懸念を持っているといった米紙報道も過去には流れている。

北朝鮮が払う代償

マレーシアにおいて、北朝鮮からの単純労働者やビジネスマンは数千人単位に達していたという報道もある。華人系の多いマレーシアにおいて、北朝鮮産の漢方生薬の輸入も安定して供給されてきたし、華人企業で中国語に通じた北朝鮮系の人材が働きやすいこともあったとされる。

金正男が日常的に拠点のマカオからマレーシアへ出入りしていたというのも、両国の密接な経済関係があってのことかもしれない。

今回北朝鮮が金正男の暗殺を国家レベルで実行していたとすれば、それだけの人員、ロジ、立案などを包括的にやれるのもマレーシアだからこそということだったのかもしれず、であれば皮肉なことだ。

だが、マレーシアとしても長年の友誼はあっても、今回の事件は、その友情に対して恩をあだで返すような行為で、さらに北朝鮮の暗殺を黙認したなどというイメージがついてしまったら、国際的信用に関わる話である。

ただでさえ、近年相次いだマレーシア航空機の失踪・撃墜事件で打撃を受けているので、最初は淡々と事件を処理していく姿勢だったとみられるが、北朝鮮の強硬な対応で、政府の感情もマレーシア国内の世論も厳しいものになっている。

VXガスまで持ち込むか製造するかできるほど、北朝鮮関係者にやりたい放題をさせていた、という誹りを浴びることは不可避なマレーシア政府は、なおさら厳格に事件を処理せざるをえない。

今回の事件で半世紀におよぶ友好の歴史を持ってきたマレーシア・北朝鮮関係は冷え込み、北朝鮮は海外で比較的自由に活動できる数少ない拠点の機能を失うことが予想され、その代償は安くないだろう。(野嶋 剛)

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野嶋剛
1968年生れ。ジャーナリスト。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、シンガポール支局長や台北支局長として中国や台湾、アジア関連の報道に携わる。2016年4月からフリーに。著書に「イラク戦争従軍記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち」(講談社)、「認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾」(明石書店)、訳書に「チャイニーズ・ライフ」(明石書店)。

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(2017年2月28日フォーサイトより転載)