甦える「サッチャーの呪い」――秘話「統一ドイツ」への大反対

実は、このEU離脱という歴史的出来事の本当の主役はドイツだった。

英国の欧州連合(EU)脱退劇は一時、インテリジェンスの世界にも驚きが広がった。だが、オバマ米大統領が米英の「特別の関係は維持される」と明言、動揺はなかった。英国は北大西洋条約機構(NATO)の主要加盟国であり続けるし、米英を中心とするアングロサクソン系5カ国の「ファイブ・アイズ」と呼ばれる信号情報交換協定、即ち世界的盗聴システムも維持され、全く問題など起きそうにないことがはっきりした。

ドイツに英国の代役?

実は、この歴史的出来事の本当の主役はドイツだった。市場が当初の動揺を吸収し、落ち着きを取り戻し始めると、次の段階で、名実ともにEUの盟主となるドイツの動向が注目されるのは必至だ。

EU脱退か残留かで揺れた英国内では、やはり「われわれは大英帝国だから」という声が市民の間から聞こえた。そんなプライドがあって、自らが主導権を握れないEUの現状は我慢できず、残留にNOを突き付けた市民の方が少し多かったというわけだ。

最大の問題は、英国のEU脱退で、戦後維持されてきた堅固な西側の体制が維持できるかどうか、だ。

冷戦終結後、唯一の超大国となった米国は、NATOでもEUでも、価値観を共有する「ジュニアパートナー」として英国が支えてきた。しかし、米国がEU内で最重要同盟国を失えば、ドイツがその代役を演じてくれるだろうか。

そんな疑問がいま、広がりつつある。

英国民投票の約1カ月半前、英紙フィナンシャル・タイムズは「ドイツはユーロゾーンの最大の問題」と題するコラムで、ドイツの金融・財政政策を厳しく批判した。

ドイツは、ギリシャ財政危機でも対ロシア制裁でも主導権を握り、EU内で不満が出た。

2003年のイラク戦争でも、ドイツはフランスとともに反対し、米国を批判。西側同盟諸国間の不協和音を表面化させた。2013年には、元米中央情報局(CIA)職員、エドワード・スノーデン氏による情報暴露に伴い、米情報機関がメルケル・ドイツ首相の携帯電話を盗聴していた事実が分かった。その後CIAによるドイツ政府職員リクルート工作が判明して、ドイツ政府がCIAベルリン支局長を国外退去処分とする事態に発展した。

経済・安保の両分野で、米国がドイツに英国の代役を期待することは難しいだろう。

「独統一を望まない」サッチャーの秘密外交

東西冷戦末期の1989年、東西ドイツの統一を前に、当時のサッチャー首相はドイツの強大化を防ごうと秘密外交を進めた。「鉄の女」と呼ばれた彼女は今、生きていたら何と発言するだろうか。

実は、1989年11月のベルリンの壁崩壊の1カ月半前、サッチャー首相は日本訪問の帰途、モスクワに立ち寄り、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長に「東西ドイツ統一」反対を直談判した。

本誌2009年11月号掲載の「旧ソ連文書が明かす『ドイツ統一を恐れた英仏』」でサッチャー首相とゴルバチョフ書記長の会談の大まかな内容は伝えられているが、ここでは米民間調査機関「国家安全保障文書館」が同書記長の側近アナトリー・チェルニャエフ氏から入手した正確な会談録を記しておきたい。この会談録には、米大統領が東京滞在中のサッチャー首相に送信した電報の内容がゴルバチョフ氏に伝達された、という新事実も記されていた。

サッチャー:われわれは東ドイツで進行中の事態に憂慮している。今や大変化の直前にある......。何千人もの人たちが東ドイツから西ドイツに逃げている......。

英国と西欧はドイツ統一に関心がない。NATOコミュニケには違う文言が書かれているが、無視してください。われわれはドイツの統一を望んでいない。それは戦後の国境線の変更につながる。われわれは、こうした展開が国際情勢の安定を損ない、われわれの安全保障の脅威になるため許せない。

われわれは東欧の不安定化あるいはワルシャワ条約機構の解体に関心がない。......われわれは東欧の国内情勢に干渉せず、東欧の非共産化に拍車をかけない。これは米大統領(ブッシュ父大統領)の立場でもあります。彼は私が東京にいたときに電報を送信してくれて、米国はソ連の安全保障上の利益に脅威を及ぼすことをしないとあなたに言うよう求めました。

ゴルバチョフ:情報をありがとう。全体的にはあなたはわれわれの立場を正しく示しました。社会主義諸国は彼らの国内問題について彼ら自身で決定すべきだとわれわれは思う。彼らは彼らの社会主義的選択でどの道をどんなテンポで進めるか選択できる。われわれはこうしたプロセスに干渉したくないし、しない。しかし、もちろんわれわれは友好国と同盟国を助ける。エーリヒ・ホーネッカー(ドイツ社会主義統一党書記長)の健康に関しては、彼は東ドイツ建国40周年のあらゆるイベントに出席する計画です。私は10月6、7日に祝賀のため東ドイツを訪問する計画です。

本音を隠す首脳たち

この秘密のオフレコ会話を開始するにあたって、サッチャー氏は記録をノートに残さないよう求めた。そして、この会話の終了時には「私の話の秘密部分はこれで終わりです。記録を再開してください」と言ったという。

チェルニャエフ氏はその後、会談中の記憶を元に、この部分を記録に残したという。英文への翻訳は「国家安全保障文書館」が行った。英国のサッチャー財団はホームページに同文書館の翻訳文を掲載している。

サッチャー首相は「国際民主同盟(IDU)」党首会議出席を機に1989年9月19~22日、日本を公式訪問、海部俊樹首相とも会談。23日訪ソした。11月9日にベルリンの壁が崩壊し、翌1990年10月3日東西ドイツが統一。サッチャー氏の危惧が現実のものとなった。

ゴルバチョフ氏も、当時のブッシュ(父)大統領も、たとえ望んだとしても、ドイツ統一の動きを止めることなどできる状況ではなかったと言えるだろう。

その後欧州には統合の波が押し寄せ、EUもNATOもさらに広域化した。実は、当時のミッテラン・フランス大統領もドイツ統一反対だったが、これまでは独仏両国の協力でEUの主導権を握り、運営に当たってきた。

関係諸国首脳らはこれまでと同様、本音を隠して自国の利益を模索しながら、EUを安定的に運営することができるかどうか。Brexitを機に、西側陣営が揺らぐと、中ロも含めた世界秩序は、大きく動揺する恐れがある。

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春名幹男

1946年京都市生れ。大阪外国語大学(現大阪大学)ドイツ語学科卒業。共同通信社に入社し、大阪社会部、本社外信部、ニューヨーク支局、ワシントン支局を経て93年ワシントン支局長。2004年特別編集委員。07年退社。名古屋大学大学院教授を経て、現在、早稲田大学客員教授。95年ボーン・上田記念国際記者賞、04年日本記者クラブ賞受賞。著書に『核地政学入門』(日刊工業新聞社)、『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)、『スクリュー音が消えた』(新潮社)、『秘密のファイル』(新潮文庫)、『スパイはなんでも知っている』(新潮社)などがある。

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(2016年7月4日フォーサイトより転載)

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