キャノン中佐との恐ろしいデート:山口淑子さん追悼

戦前・戦中は李香蘭、戦後も国際女優として活躍した元参院議員の山口淑子(本名・大鷹淑子)さんが7日、心不全のため死去した。享年94歳だった。告別式は親族で執り行われ、喪主名も公表されない、ひっそりとした最後だった。
時事通信社

戦前・戦中は李香蘭、戦後も国際女優として活躍した元参院議員の山口淑子(本名・大鷹淑子)さんが7日、心不全のため死去した。享年94歳だった。告別式は親族で執り行われ、喪主名も公表されない、ひっそりとした最後だった。

彼女の戦前戦後の芸能人としての活躍や、参院議員を3期務めたことなどはよく知られており、各紙は彼女の死を1面、社会面、文化面に評伝なども大きく掲載、「波乱の生涯」などと伝えた。

しかし、彼女が戦後、父親と中国情報当局との関係などを指摘されて、連合国軍総司令部(GHQ)防諜部隊(CIC)の監視を受けていたことは伝えられなかった。筆者は約20年前、米国立公文書館で彼女のファイルを発見し、彼女自身にも取材した経験がある。

父親に関する情報のほか、「山口は戦時中、中国大陸で日本のスパイ訓練を受けた」「山口は中国共産党の情報連絡員」「妹の1人は共産党員」などといった情報が集められていた。その中には確度が低い情報も含まれており、「山口はむしろ反共」といった友人の否定証言があったが、修正されないまま、ファイルには誤った情報も残された。

彼女は中国大陸で、満州映画協会(満映)の看板女優として、事実上の文化プロパガンダ作戦に従事したことが「スパイ活動」とみられたようだ。他方、戦後対中情報工作に乗り出したCICが何らかの形で彼女を利用しようと考えた可能性もある。

その美貌にひかれ、「情報収集」を名目にして、彼女に近づいたCIC情報将校も何人かいたようだ。その中に、特殊工作に従事していたジャック・キャノン中佐がいた。キャノンは「キャノン機関」を率いて、東京・本郷の岩崎邸に陣取り、対中国工作にも従事していた。キャノンは横浜市中区の米軍将校用住宅で頻繁にパーティーを開き、山口さんを招いたことがあった。キャノンは1949年の国鉄3大事件(下山、三鷹、松川)への関与が指摘されているが、確実な証拠はまだ見つかっていない。

約15年前、筆者は山口さんに電話インタビューした。彼女はキャノン邸でのパーティーで「支那の夜」を歌ったこともある、と話してくれた。鎌倉で歌のレッスンを受けに行く、と言うと、ジープに乗せて送ってくれたこともあったという。しかし、「運転が荒っぽく、急ブレーキを掛けて停車し、鳥を撃ったりしたので、恐ろしくなった」。山口さんはそんな経験があったので、キャノンを遠ざけて、防諜担当の大尉と親しくなったところ、キャノンは彼を韓国に左遷した、という情報もファイルの中にはあった。

1950年、彼女は訪米、ブロードウエーのミュージカル「マルコ・ポーロ」や映画「東は東」への出演が決まり、注目されたが、在米中は連邦捜査局(FBI)が彼女を監視した。ニューヨークではユル・ブリンナーらとも知り合い、画家・石垣栄太郎氏の紹介で彫刻家のイサム・ノグチと会って恋に落ち、結婚した。2人はしばらく鎌倉に住んだが、1953年ノグチが仕事のためニューヨークに戻ったところ、アメリカ政府は山口さんへのビザ発給を拒否した。当時は「赤狩り」の時代で、ビザの拒否は、戦前アメリカ共産党との関係を指摘された石垣氏、さらに「追放」されたチャーリー・チャップリンと接触した山口さん自身も疑われたためだった。

山口さんはこうした疑いをすべて否定し、犬養健法相らが国務省に要請して、1954年9月ようやくビザは出たが、すれ違いが重なって、それから2年後離婚した。疑り深い米情報機関のせいで翻弄された戦後の半生だった。

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春名幹男

1946年京都市生れ。大阪外国語大学(現大阪大学)ドイツ語学科卒業。共同通信社に入社し、大阪社会部、本社外信部、ニューヨーク支局、ワシントン支局を経て93年ワシントン支局長。2004年特別編集委員。07年退社。名古屋大学大学院教授を経て、現在、早稲田大学客員教授。95年ボーン・上田記念国際記者賞、04年日本記者クラブ賞受賞。著書に『核地政学入門』(日刊工業新聞社)、『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)、『スクリュー音が消えた』(新潮社)、『秘密のファイル』(新潮文庫)、『スパイはなんでも知っている』(新潮社)などがある。

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(2014年9月16日フォーサイトより転載)

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