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7年目の再出発でも晴れない南相馬市「精神科病院長」の「苦悩」と「怒り」--寺島英弥

2017年08月09日 23時32分 JST | 更新 2017年08月09日 23時45分 JST

「福島原発事故は、この母なる故郷を永遠に奪い去った」

南相馬市小高区の精神科病院長・渡辺瑞也さん(74)は、避難生活中の5年間をかけて、東京電力福島第1原子力発電所事故の実態究明を訴えた著書『核惨事!』(2月刊行、批評社)の前文にこう記した。

小高区は原発から20キロ圏内。昨年7月に避難指示は解除されたが、大半の住民は戻らず、104床の病院再開は不可能だった。がんと闘病しながら再起を模索し、8月21日、北に三十数キロ離れた福島県新地町に小規模な診療所を開設する予定だ。そこで被災地の心のケアを目指す。だが、幕引きされようとする原発事故への怒りは癒えていない。

「東日本大震災」の名を改めよ

「東日本大震災という名称は改められるべきである」という見出しが、『核惨事!』の冒頭にある。

「後代において、東日本大震災とは平成23年に起きた東北地方太平洋沖地震による津波被害を中心とした震災である、として語り継がれることはあるかも知れないが、これによって引き起こされた世界にも先例のない3基もの原発の連続炉心溶解貫徹(メルトスルー)事故のことは抜け落ちてしまいはしないかと危惧するのである」

渡辺さんは、「原発事故被災者/被害者」の1人として、災害の名称はそのような理由から不完全であり、新たに「東日本大震災・原発事故複合大災害」に改めてほしいと訴える。

時とともに津波被災地では町々の再建や農林水産業などの「復興」が進むが、原発事故被災地では、廃炉作業さえ40年と世代をまたぐ。放射性物質との未曽有の闘いが終わりなく続き、その脅威や影響は目に見えない。その中で、渡辺さん自身が不安に感じていることがある。

渡辺さんが院長であり、運営法人の理事長だった小高赤坂病院 は、2011年3月11日からの原発事故で、すべての入院患者を安全に避難させなければならない状況になった。渡辺さんの決断で、比較的若くて動ける患者38人は、副院長が引率して福島市内の5病院に転院させることができた。

渡辺さんは14日午後7時ごろ、残る患者66人を大型バス7台に乗せ、いわき市の高校体育館の避難所を経て、受け入れ先の東京の病院に送り届けた。 渡辺さんが感じた不安とは、「原発から18キロの職場に72時間余り居続けた」ことの健康への影響だ。

事故翌年の2012年ごろから歯がぐらついて計5本が抜けた。2014年には原因不明の不整脈が現れた。「2015年11月に結腸がんが見つかった。ポリープ由来でないデノボ型で、一時は真剣にこの世との別れを考えたこともあった」。

ステージⅡと分かり、手術と抗がん剤の治療で改善できたという。しかし、自身の発症から3カ月後、今度は奥さんの不整脈が危険な状態と診断され、心臓ペースメーカーの埋め込み手術を受けた。奥さんは原発事故が起きてから飯舘村経由で福島市へと、2週間避難したという。

幅広い被ばく影響調査を

初期被爆がどの程度の量でどんな健康被害が現れるかが分からない。それが不安の要因だった。それまで夫婦とも病気などしなかったのに、同じ4~5年の時間を経て、相次ぎ被ばくの影響が出たのではないか、という疑いをぬぐいきれない。

「身近な患者さんらからも、くも膜下出血で亡くなる人がいるなど、にわかな異変を聞いている」。

これらは医師としての経験からの疑問だが、筆者も取材現場で出会った人たちの周囲で、「原発事故がなければ、もっと長生きしたのに」という思いがけぬ不幸を耳にしてきた。それを原発事故、避難生活のストレスというだけで済ませていいのか、釈然としなかった。

福島県は18歳以下の県民を対象に継続的な甲状腺検査を行っている。

しかし、「これまでUNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)が唯一原発事故との因果関連の可能性を認めてきた小児甲状腺がんと白血病だけでなく、それ以外の、例えば心臓血管系や脳血管系の疾患、さらには悪性リンパ腫や固形がんの発症や死亡例が、既に東日本全域で増加している可能性が高く」(『核惨事!』より)、もっと幅広い健康調査を、と渡辺さんは訴える。

「原発事故と健康障害の因果関係が科学的に検証されれば、治療や救済のための政策を立てなくてはならない。『原発症』という新しい概念の設定も必要だ。政府は避難解除で幕引きを急ぐが、健康への影響もなかったことにされてしまう」。

2012 年に国会では、「原発事故子ども・被災者支援法」が超党派で成立した。長期にわたる健康被害防止や被災者支援が盛り込まれたが、「その後はほとんど新規の施策は打ち出されず、それどころか理念を裏切るような支援打ち切りが次々と続いている」と、渡辺さんは指摘する。

政府、東電の加害責任を棚上げした「補償」や、年限を切った「特措法的対応」でなく、世界に例のない原発事故と被災者の被害と不安に向き合う恒久的救済策を、 「東京電力福島第1原子力発電所過酷事故対策基本法」として実現させるよう提案する。

「帰還促進」政策への疑問 

「原子力緊急事態宣言が解除されていない原発の近傍に元の住民を帰還させるという、この完全に矛盾した恐るべき、そして驚くべき政策が進められているというこの現実を、我々は一体どう理解したらよいのであろうか」(『核惨事!』より)

原子力緊急事態宣言とは、東海村JCO臨界事故を受けて2000年に施行された原子力災害対策特別措置法に基づく。

放射性物質や放射線が異常な水準で施設外に放出されるような緊急事態が起き、周辺の放射線量が一定基準を超えて、国民の生命、身体、財産に被害が生じた場合、首相が原子力緊急事態を宣言し、原子力災害対策本部を置く、としている。

福島第1 原発事故では、2011年3 月11日夜、地震の影響で原発1 、2 号機への外部からの電力供給が失われるなど、電源喪失状態になった段階で当時の菅直人首相が発令した。政府は福島第2原発について同年12 月に宣言を解除したが、第1原発では継続中だ。

渡辺さんは、政府が原発事故被災地に対し避難指示解除を発し、避難先の住民の帰還を促しながら、宣言を解除しないことにも疑問を訴える。

「危険が去らない状態であると政府が認めながら、住民を帰還させる政策を進める現状をどう理解したらよいのか」。

放射線量が高く未除染の帰還困難区域は避難指示解除の対象外であり、また第1原発そのものの廃炉の方策は手探り中で、原発構内に約78万トンものトリチウム水(放射性物質を除去できない汚染水)の処分も未解決のまま。その現実に加え、渡辺さんが政府の無責任さを指摘するのが、「年間20ミリシーベルト以下」という放射線量の許容基準だ。 

根拠なき基準が1人歩き

原発事故後、政府は本来の公衆の被ばく許容限度である年間1ミリシーベルトを20倍に引き上げ、避難指示や除染、さらに避難指示解除の基準にも定めた。この数値は2011年4月、当時の原子力安全委員会がわずか2時間で「妥当」と文部科学省に助言。同省は福島県内の小中学校の屋外活動時間の目安にも適用し、内外の批判を浴びて撤回した。

しかし当時、この問題で放射線専門家の欧州連合議員は、「原子力施設で働く労働者が5年間の平均で浴びてよい数値なのだから、それを子どもが浴びていいはずがない」「(緊急時の基準としては)非常に限られた期間のことだ。最大で3~6カ月くらい。その後は被ばく線量が年間1ミリシーベルトになるような対策をとらないといけない」(同年6月29日の『河北新報』)と指摘している。

その後も、根拠の曖昧な基準が1人歩きした。政府の「原子力災害からの福島復興の加速のための基本指針」(2016年12月)は、避難指示解除後、「個人が受ける追加被ばく線量を長期目標として年間1ミリシーベルト以下になることを目指していく」と明記する。だが、具体的な方策や時期の目標は何1つ書かれていない。

「ここに流れている基本思想は、重大被ばくによる急性期健康障害さえ回避できれば、ある程度の住民被ばくはやむを得ない、という人命・人権軽視の考え方である」と、『核惨事!』で看破した渡辺さんは、

「避難指示が解除されれば、避難者は帰還するのが当然であり、帰還しないのは勝手な自己判断なのであるから補償や支援は無用である、という政治側の論調が強まり、東電の賠償も次々に打ち切られた。さらに、帰りたくても不安で帰れないという人たちも自動的に自己責任の自主避難者という扱いにされてしまう」と話す。

著書の出版から2カ月後の4月4日、当時の今村雅弘復興相が自主避難者について言い放った「本人の責任、判断」「裁判でも何でもやればいい」などの言葉は、そのまま政府の本音といえた。

「この環境下で生活することに同意していない人に居住を強要し、健康障害が出れば、政府は傷害罪にも問われかねない。そうした訴訟への防衛策として原子力緊急事態宣言を続けているのではないか」と渡辺さんは疑う。一方的な避難指示解除と当事者の不安が生み出したものが、帰還者がいまだ1割前後という被災地の風景なのではないか。

新天地での再開、戻れぬ小高

渡辺さんの避難先である仙台市泉区の家でのインタビューからふた月余り後の7月20日、福島県新地町の新しいクリニックの建設地を訪ねた。 東日本大震災の津波で大破したJR新地駅の駅舎と線路が再建され(昨年12月10日に運行再開)、そのすぐ東側(海側)に新規計画された造成地の一角にベージュ色の平屋の建物がほぼ完成していた。

渡辺さんに案内された内部には、診療室が2つ。温かみのある白の壁に、ふんだんに使われている木材の明るい茶色がよく調和し、受診に訪れる人々の心を和らげるよう配慮されている。

「かつての病院と比較すれば、小規模な診療所となりますが、長らく休業状態にある、小高赤坂病院で行ってきた精神科医療を、ここ新地町において再開し、ささやかながらも、地域の皆様に貢献して参りたいと思います。何とぞよろしくお願い致します」

開院を前に新地クリニックのホームページには、常勤の院長となる岩渕健太郎医師のあいさつが載っている。運営主体の医療法人理事長である渡辺さんも、週数回の診療に入るつもりだ。

「もともと小高赤坂病院の新地町への移転を考えていた。町長に会って別の予定地を想定し、設計図も作った。休業した病院への東電の営業補償は、移転資金の上でも必要で、当然続くものだと思っていた。が、2014年になって、東電と政府は『あと1年で打ち切り』と打ち出した。

旧警戒区域(原発から20キロ圏)施設の移転については、福島県から5分の4の補助が制度としてあったが、それも半分以下に削減されてしまった。大きな病院の移転・再開は不可能になり、せめて入院施設のないクリニックを開設しようと、町長に再度の相談をした。幸いなことに新地町は開設を歓迎してくれ、ここまでこぎつけた」

と渡辺さんは語る。

「福島原発事故に遭った被害者に対する損害補償において、農林水産業を除く産業分野と個人への補償は、実質的に事故からまる7年後の2018(平成30)年2月で全てが打ち切られようとしている。これに対して大多数の被害者は、到底納得できるものではないとの思いを強く抱いている。これに対して直接の被害者ではない国民や被害者とは断定されていない被災者の中には、賠償に対するこうした被害者の要求を過剰なものとみなして批判的な意見を持つ人もいる」

「被害者が分断させられ、被害者同士が反目させられ、地域が分断され、ややもすると被害者のほうが加害者よりも悪人扱いされかねないような誠に悲しい現実が起きている」(『核惨事!』より)

やむなく古里への帰還を諦め、避難先に家を建てたりすると「賠償御殿」などと言われ、気を病んでさらに遠くへ移住するケースもある、と渡辺さんは言う。福島から他県へ避難した子どもたちが「いじめ」に遭うという社会問題化した現実もこうした文脈にある、と。

帰還者はどこにいるのか

渡辺さんが東北大医学部精神科助手などを経て小高赤坂病院を開設、院長になったのは1981年。30年余りの歴史を共に歩んだ病院の現地再開という選択肢はなかったのだろうか。

「それは不可能だった」と渡辺さんは言う。

6月末の時点で「小高への帰還者は2359人、住民登録人口に対する居住率は24%」(南相馬市)というが、「元から住んでいた人の実数から見れば、13%ほど」と渡辺さん。

4月に小高区の小中学校が再開され、小高産業技術高が開校したが、「朝の通学時間帯が終わると、駅前の通りには工事関係の車しか通らない。家々の多くは解体されて更地になり、いったい帰還者がどこにいるのか分からない。町の姿を目にするたび、ため息が出る。病院の患者さんも散り散りになってしまった」。

避難指示解除後の現実に、渡辺さんの苦悩と憤りは癒やされぬままだ。

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寺島英弥

ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。

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