「レバノン内戦」モチーフ戯曲を表現する「言葉」の難しさ:俳優・大谷亮介インタビュー--フォーサイト編集部

レバノン出身のムワワド作品は、自身の難民体験に基づく狂気と魂の叫びを持つ衝撃的な物語

重厚なテーマの文芸戯曲からコミカルな舞台、強烈な印象を残すドラマのバイプレーヤーや時には女形も、そしてハワイ生まれの謎の日系三世ジャズミュージシャンとして音楽ライブまで――常に異彩を放ち続ける俳優、大谷亮介(63)。

昨年デビュー40周年を迎え、新たな一歩を踏み出した今年の舞台1作目として選んだのは、劇作家ワジディ・ムワワドの「約束の血4部作」の1作目である『岸 リトラル』(2月20日より「世田谷パブリックシアター/シアタートラム」にて。公演詳細は末尾参照)である。

レバノン出身のムワワド作品は、自身の難民体験に基づく狂気と魂の叫びを持つ衝撃的な物語だが、共演の俳優たちとはほぼ初顔合わせだけに、呼吸の合わせ方ひとつにも力量が問われる。稽古も佳境を迎え、本作への想いや役者としての来し方を振り返って本人が語った。

小劇場的な「ピュア」な作風

この作家はレバノン・ベイルート生まれで、子供の頃に内戦(1975~1990年。第5次中東戦争とも)を経験し、難民となって家族とともにフランスに亡命するんですね。しかし結局受け入れてもらえず、カナダに移住して演劇を学んだそうです。そこで様々な演劇賞も獲って成功したら、今度はパリに迎え入れられたという作家です。2016年4月、パリにある「コリーヌ国立劇場」の芸術監督に就任しました。

ちなみに、カナダの演劇って、僕も何本か演ってますが、日本の小劇場と近い感覚があるんです。日本の小劇場の場合、社会問題をテーマにするとどこか理屈っぽくなることがありますが、もっとストレートな感じですかね。

去年3月、この作家の4部作第2作目である『炎 アンサンディ』が再演されました。演出は、今作と同じ上村聡史さん。この作品は2014年の初演時に文化庁芸術祭賞大賞などたくさんの演劇賞を獲っていますが、今作はその4部作の1作目ですから、粗削りで、より小劇場作品に近い感じがします。

物語は、ある青年がずっと疎遠だった父の訃報を知り、埋葬するために内戦の傷跡がいまだ癒えない祖国に向かう。その旅で、死んだ父親や、虚実ないまぜの様々な人間に出会うことで戦争の悲惨さも感じていく、という構成です。だから、反戦という直接的な言葉ではないけれど、メッセージとしては観客にそこを訴えている。しかも理屈っぽくないところが面白い。作家がまだ20代のときに書いているので、ピュアな部分もあるし。

ただ、これは翻訳劇全般に言えることですが、言語、台詞って、やはり脚本が書かれた国の言語でなければ伝わりにくい部分がどうしてもある。いくら正確に訳していても、その言語が本来持っている熱とか力、意味は、微妙に違ったりする。そこを日本語でどれだけ伝えられるか、それが難しいところですね。

その点で言うと、今作は僕の出身地でもある兵庫県でも上演するんですが、関西のお客さんはシビアですよ。関西のお客さんは翻訳劇を観る機会が東京ほど多くないからか、東京で大好評の作品でも、関西ではウケないことも多いんです。これまで僕が出た翻訳劇でも、向こうでやると母親や友人らがみんな観にきてくれるのですが、もう100人中100人、母親でさえ、「あかん、さっぱり分からへんかった」言いますからね(笑)。やっぱり言葉で伝えるのは難しい。

でも、この作品は肉体的な表現も多いので、そこでうまく表現できたらいいなと思っています。僕自身もそうですし、共演者もみな、本作ではそれぞれ何役か演らなければならない。僕の場合は映画監督だったり騎士だったり盲目の老人だったり......。そういう演じ分けも楽しんでもらえれば。

僕自身は戦争体験の世代ではないし、日本ではいまはもう体験世代も少なくなっています。そんな時代にあるなかで戦争の悲惨さをどう演じるかという難しさもあります。僕はまだ父親など体験者の話を子供の頃によく聞いて育った世代ですからリアルにイメージできますが、それでも、反戦、反戦ってアジテーションするような観せ方をしても逆に伝わらないと思っています。そういう意味では、この作品は別に"闘っている"という感じではない。こういうふうにいろんな人間がいますよ、いろんな想いがあるんですよ、ってことを観せていく。それで受け手がどう感じるか、という作品なんですね。それだけに、僕らは素直に演じられればいいと思う。

役者の技量って上手い下手とかじゃなく、たとえば小学生の芝居だって観ていて感動するときあるじゃないですか。ああいう素直で自然な演技が大事だと思うんです。

役を生身の存在に

よく、役作りはどうしているのかと聞かれますが、基本的には台本を読み込むことだと思っています。この物語の中で自分の役の存在がどういう意味を持っているのか、そこを何べんも何べんも読み込んでいくことでつかみ取っていく。

舞台の場合、基本的に稽古が始まったら、作家や演出家より俳優のほうがその役については一番分かっているはずです。だから、自分のなかにあるその役に対して、演出家が舞台上で立ち位置や仕草、相手役との距離とか指示を出してきたとき、その自分のイメージ、自分がつかんだ役の人物としていかにその指示に近づけるかというふうに考えて芝居を作っていきますね。まあ、何と言っても、その役が生身の人間としてちゃんと存在していると感じてもらえるようにしたい。

たとえば、時代劇で侍を演じたり、今作では中世の騎士の役もやりますが、そういう人物らは日常的に刀や剣を振っていたわけです。だから、僕も稽古の前に毎日毎日何十回も刀や剣を振り回す。自分自身にも日常のこととして身体に沁み込ませることで、それを嘘っぽくしないようにします。

台詞で言うと、とくに今回のような翻訳劇は、翻訳だから普通の日本語と違ってやっぱり喋りにくいわけです。それを何べんも喋って喋って、もう鼻歌のように口から出てくるまで繰り返し喋る。頑張って台詞を言うというより、何かの音色のように自然に出てくるまで練習する、というのも役作りの1つですかね。まあ、要は単純なことの繰り返し、積み重ねです。

これまで役作りというか役の解釈で演出家と意見が違ったということはあまりないですね。

あ、ただ、1回だけ、渡辺えりちゃん(ドラマや映画、舞台で活躍する女優。劇団も主宰し、作・演出もこなす)の舞台に初めて出たときのこと。彼女は演出家としてももの凄く稽古熱心ですが、そのときは若手の役者ばっかり稽古をつけて、僕らベテランにはまったく稽古つけない。仕方ないから同年代の共演者2人で、小道具や衣装も自分たちで勝手に作って、コメディ作品だったので作中のアドリブのギャグとかも自分らで完璧に考えて、よっしゃあと思ってえりちゃんや共演者の前で稽古で演ってみせた。そしたらもの凄くウケて、みんな大笑いしてくれる。でも、だんだんみんながえりちゃんの方をチラチラ見ながら、笑い声が小さくなっていく。おかしいなあ思っていたら、演出助手の「はいカット!」でみんながえりちゃんに注目。すると胡坐かいてたえりちゃんがひと言、「大谷さん、真面目にやってよ!」って叫んで、わあ~って泣きだしちゃったんです。あとでよくよく話したら、えりちゃんはその作品を"大正ロマン"みたいな感じで柔らかい笑いにしたかったらしい。それを僕らは赤塚不二夫の線で笑かそうとしていた。そりゃあまるで違いますよね。泣きますわ、演出家としては。もちろん、必死で謝ってちゃんと軌道修正しましたが。

ま、これはレアケースで、普通は毎日一緒に稽古していますから、演出家と意見が食い違うということはそんなにはないですね。

女形への挑戦

そもそも僕が役者になったキッカケは、大学時代に友だちに奨められたから。大学に入学したのがちょうど「あさま山荘事件」の翌年で、大学内にも活気がなくて、遊んでばかりいたんです。それで演劇好きの友だちに連れられて、シェイクスピア・シアターとか仲代達矢と栗原小巻の『令嬢ジュリー』とか、安倍公房スタジオとか観に行きました。そして面白半分に劇団の試験受けたら、受かっちゃった。それが『オンシアター自由劇場』(演出家の串田和美が主宰。吉田日出子が看板女優で、小日向文世なども所属)です。

ちょうど劇団員が少なくて働き手が必要だったのでしょう。小道具大道具製作からすべて自分たちでやり、365日ずっと劇場にいる生活。演劇が生活のすべてになり、のめり込んでいった。後には自分でも劇団を立ち上げる(余貴美子らと『東京壱組』を、さらに草野徹らと『壱組印』を)ようになるんですがね。芝居の方向性とかはあまり考えなかったですが、自分で主宰しているときは、やっぱり自分の好きな作家さんの本を自分で演出したりしました。

2003年から、篠井英介さん、深沢敦さんと3人で、男優が女形をやる3人芝居のユニット『三軒茶屋婦人会』も始めました。言い出しっぺは僕ですが、もともと篠井さんや深沢さんは昔から女形を演ってたんです。歌舞伎の役者さんは女形やったり現代劇やったり、普通じゃないですか。だったら僕らが女形やったっていいじゃない、って思いましてね。

でも最初は、篠井さんは鼻にもかけなかった。「大谷、あたしたちをバカにしてんじゃないの?」て感じで。それがあるとき、僕がおばあちゃんを演じる1人芝居を2人が観にきてくれたんです。それで2人の間で、「あら、大谷もけっこう真面目にやってるじゃないの」ってことになったらしくて。結局、そんな篠井さんを説き伏せて実現するまで、8年かかりました。

いざ実現となってからも、篠井さんはとにかく女形に誇りを持っているので、男3人がちょっとふざけた笑かしで女形をやってみました、みたいな感じには絶対にしたくないと。もう本気の真剣試合です。だから、実は毎回の公演のチラシだって、衣装や設定整えてスタジオもちゃんとしたところで撮影して、もの凄くお金かけているんです、あれは。あの本多劇場1公演分くらいの額ですから。チラシだけでそこまでお金かける芝居なんてないですよ普通。そういう篠井さんの心意気みたいなものがきっちり反映された舞台なので、お陰さまで好評をいただけているのも、それがあるからだと思います。

でもね、女形で生きてこられた篠井さんは別として、僕なんか、やっぱり女を演じるのはむちゃむちゃ難しいです。ポットや湯のみ茶碗を取る仕草ひとつとっても、やっぱり女には女の仕草があるじゃないですか。僕がやると、どうしても男が演じているという域を超えられない。これは難しいですね。だからこそ、役者としては挑戦しがいがあるのですが。

そこへいくと宝塚の人たちは凄いですね。女優さんが軽々と男を演じているじゃないですか。僕は宝塚が好きで昔からよく観ていますが、たとえば轟悠さんという男役の人。『エリザベート』で暗殺者役だったとき、ウィーンから演出家やスタッフも観にきていたそうです。それで終演後、宝塚は女優だけでこれほどの舞台に仕上げるとは実に素晴らしい。しかし1つだけ聞いてもよろしいか。昔から女優だけしかいないと聞いていたが、今回はなぜ1人だけ男優が混ざっていたんだ、おかしくないか、って文句言われたそうですから(笑)。轟さん、ほかにもたとえばリンカーンも演じていますが、あれもまさにリンカーン。女が演じているんじゃないですね、あれ。リンカーンそのものです。あと、美城れんという女優さんが西郷隆盛をやったときも凄かったなあ(作品は『桜華に舞え』)。いままで観たなかでいちばん西郷隆盛。もう出てきた瞬間、あ! 西郷さんだ! て思いましたから(笑)。やっぱり宝塚の人たちって凄いですね。

お客さんがいる限り

実は今回の『岸 リトラル』が終わった後、3月末に『Dolly & Tanny ドリタニ知らんと意味ないで!』という音楽ライブをやります(詳細は末尾参照)。僕が「Tanny」で、キムラ緑子さん(ドラマや映画、舞台で活躍する女優)が「Dolly」。

昔から、まだ役者で食えないころから、役者仲間たちとバンドやっていたんです。みんな仕事ないから、ヒマだから。作家の東野博昭さんの企画で六角精児さんとかコング桑田さん、山西敦さんとか去年亡くなった井之上隆志くんとかと一緒に、毎年ライブをやっていました。その東野さんのアイディアで、僕とドリちゃんで、ジャズを関西弁の替え歌にしたコーナーをやったら、これがウケて、自分でも面白くなって、ほなまたやろう! となったのが始まりです。それが2008年。僕、趣味でウクレレも弾くので、それを本格的に練習しましてね。いちおう、「ハワイ生まれの日系三世」てことになってます。ほんまは神戸生まれですけど(笑)。

以来、ほぼ毎年1回の公演を続けています。東野さんの替え歌の作詞が絶妙で、毎回新しい芝居を上演しているような、これも舞台と同じなんですね。台詞の代わりに歌があって、動きの代わりに楽器演奏や踊りがあって。ああ見えて、けっこう真面目に真剣に練習してるんです(笑)

とにかく、あれをまた観たい聴きたいて言ってくれる方々がいる限り、一生懸命頑張り続けます。

『岸 リトラル』

【作】ワジディ・ムワワド

【翻訳】藤井慎太郎

【演出】上村聡史

【出演】岡本健一 亀田佳明 栗田桃子 小柳友 鈴木勝大 佐川和正 大谷亮介 中嶋朋子

【日程】2018年2月20日(火)~3月11日(日)(3月17日より兵庫県立芸術文化センターにて「兵庫公演」も)

【会場】世田谷パブリックシアター/シアタートラム

『Dolly & Tanny ドリタニ知らんと意味ないで!』

【企画・構成】東野ひろあき

【音楽監督】赤石香喜

【出演】Dolly Kimura(キムラ緑子) Tanny Ohtani(大谷亮介)

【日程】2018年3月30日(金)、31日(土)

【会場】吉祥寺スターパインズカフェ

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(2018年2月19日
より転載)

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