BLOG

映画『新地町の漁師たち』が描く「もう1つの福島」--寺島英弥

映画監督と漁師の出会い

2017年12月05日 14時27分 JST | 更新 10時間前

2011年3月11日の津波の後、がれきを残して集落が消えた福島県新地町釣師 (つるし)浜漁港。その朝の風景を、自転車に乗った撮影者のビデオカメラが写していく――。

こんなふうに始まるドキュメンタリー映画『新地町の漁師たち』の画面には、やがて岸壁に集った男たちの所在なげな姿が現れ、「どこから来たんだ?」と、撮影者に問いかけてくる。彼らの方言丸出しの語りから、漁船群を津波から守ったにもかかわらず、再び海に出せなくなってしまったという現実が紡ぎ出されていく。

炉心溶融、放射性物質拡散の大事故が起きた東京電力福島第1原子力発電所から北に約50キロ。新地町は避難指示区域からは遠く外れたが、思いもよらない状況が漁師たちを巻き込んだ。原発事故からひと月後、東電が原発構内から海に大量放出した汚染水が原因の漁の全面自粛(同県浜通りの全域)と、海の復興を執拗に阻み続けることになる「風評」だ。そんな苦境からの彼らの長き闘いを、映画は記録していく。

映画監督と漁師の出会い

「2011年7月だった。新地町に来たのは3回目で、お金がなく、新地町のDIYの店で1万円の自転車を買って浜をぐるぐる回り、ビデオカメラを手に取材していた」

映画冒頭のシーンを、東京在住の映画監督、山田徹さん(33)はこう語る。漁港の岸壁で漁師たちと出会い、声を掛けたところ、「話は船主会長に聞け」と言われた。しばらく待っていると、小野春雄さん(65)がやって来た。釣師浜の祖父の代からの漁師で、3人の息子や弟常吉さんと、2隻の船で漁をしていた。

3.11の直後、相馬双葉漁協新地支部(54人)の仲間は、一斉に出航して沖に向かい、船を無事に守った。だが常吉さんの船は遅れて津波にのまれ、山田監督が撮影を開始した同じ7月に、南隣の相馬市の港で遺体となって見つかった。山田監督は撮影の前日、被災を免れた常吉さんの高台の家の前で、遅い葬儀の花輪を見ている。

「漁ができなくて、津波で漁場に流されたがれきの撤去を、俺たちの漁船を使ってやっていた。あの日、岸壁で呼ばれて、山田さんに『何しに来たんだ?』と尋ねると、『写真を撮りたい』と言われ、『現状を知りたいので、がれき撤去の船に乗せてもらっていいですか?』 と頼まれた。それが出会いだった。まさか映画を作るなんて思っていなかった」

「それから何度も釣師浜に通ってきたが、働かないで大丈夫か? と心配し、アルバイトでお金を作っていると聞いて、フリーターなのかとも思ったよ」

小野さんは、若い映画作家との遭遇をこう振り返った。

山田監督は自由学園出身で、渋谷の「映画美学校」でドキュメンタリー作りを1年間学んだ後、「自由工房」に入って羽田澄子監督に師事。映画『遙かなるふるさと旅順・大連』の製作に演出助手で参加した。「ドキュメンタリーの自由さに惹かれた」と言うが、 作品の公開直前に起きた東日本大震災を契機に、自らで映画を撮ろうと志した。

しかし、 陸前高田、南三陸町、石巻、南相馬、飯舘村、双葉町など広大な被災地の中で、なぜ「知られざる被災地」の新地町を選んだか? この問いに、山田監督は福島在住の詩人、和合亮一さんの名を挙げた。

震災、原発事故の直後からツイッターで発信し続けた和合さんが、2011年4月24日にツイートした詩では、津波で破壊されたJR新地駅舎の惨状、落ちていたレコード、無人のホームにいたはずの「人影」、折れ曲がったレールなどが描かれていた。

「東北に縁もゆかりもなかったが、 その詩が自分を新地町につないだ」(山田監督)

翌5月の連休に友人と高速バスに乗り、 初めて新地町を訪れた。1人のボランティアとして釣師浜の風景を眺め、半壊した家の泥かきをした。2度目は6月、町の津波犠牲者94人の合同慰霊祭があると知り、初めてビデオカメラを携えていった。少しずつ地元の人を知り、3度目の7月に、漁師たちとの出会いが待っていたのだった。

生の言葉が紡ぐ現実

「原発(事故)さえなければ、みんな船が(漁に)出た」「みんな(漁の再開を)待ってるんだ。これだけの船が残ったんだもの、船方(漁船乗り)は」「再開をみんな準備してるんだ」

冒頭のシーンに続いて、岸壁の漁師たちから語られる言葉だ。

漁の全面自粛という、浜の歴史にない理不尽な事態を、彼らはいまだ受け入れられずにいる。山田監督が同乗した漁船からの、沖合での映像に映るのは、海中から引き揚げられる「ぼろ網」(津波で流された漁網)の山。そこで行われていたのは、震災の遺物を掃除する漁だった。

2011年11月、翌12年1月のモニタリング調査(放射性物質の測定の漁)の場面では、大きなカレイが網に掛かる。

「普通なら20万円クラスでないの。サンプルだから売れないが」「震災前はこんなに獲れることはなかった。獲らないんだから、増えるのは当たり前だ」

獲りたくても獲れぬ悔しさが言葉ににじむが、現実はあまりにも残酷だ。

福島第1原発近くの海から放射性物質を多く含んだ魚が揚がったという話題に、漁師たちは岸壁で、こんな会話も交わす。「海によどみがあって、放射性物質があるそうだ」「あれを見ると、生きてるうちに魚を捕れない」「夢も希望もない」「復興応援をもらっても、何にもならない」「これから一生、50年、100年掛かるか分からない」「大丈夫だ、生きていないから」。

これらの言葉は、ビデオカメラの存在を意識しない漁師たちの、ありのままの会話だ。マスメディアのようにマイクを向けてインタビューしたり、文字で要領よくまとめたりしたものでもない。当時の震災報道に強くにじんだ「他者目線」あるいは「東京目線」のニュースとはまるで異なる、浜の方言丸出しで語られる生の現実が砲弾のように、映画を観る者に降り注ぐ。言葉を変えれば、観客は漁師たちの立ち話の輪に居合わせるような感覚になる。

「現地で過ごして分かったのは、震災直後のテレビや新聞が流していたのは、情報として『切り取った生々しさ』でしかないということ。大切なものを伝えていなかった」と、山田監督 は言う。それは和合さんの詩に感じたという「震災前と震災後」の断層であり、それでも 流れ続ける「時間」だった。それらをくまなく伝えることで、初めて漁師たちが何を奪われてしまったのかが、分かる。

「それから月1、2回は東京から釣師浜に通うようになったが、2年目の2012年初めから秋にかけて、撮影の足が遠のいた。何を表現したらいいのか分からなくなり、悩んだから」(山田監督)

津波のがれきの引き揚げとモニタリングの漁しか、当時の漁師たちには仕事がなく、「何を映画にするべきなのか。そこにはないのか、と思った」。それは、漁師たちの迷いと焦りの時間でもあったろう。小野春雄さんもこう振り返る。

「以前は寝る時間も惜しいほどに働いて、魚を獲った。が、震災後のあの当時、何をしたらいいか、先がどうなるか、さっぱり分からなかった。原発事故の放射能もどのくらい怖いものなのかも分からなかったんだ」

「拍子抜け」に触発

双方にとって見えない「壁」の時間にも、転機が訪れる。山田監督にとってはそれが、2012年11月3 日に行われる予定だった、釣師浜の安波津野(あんばつの)神社と地元に伝わる「安波祭」だった。

「浜下り」という古くからの民俗行事が、福島県浜通りにある。里の暮らしを守る神は、春先に田に下りて豊作の神となり、秋には海に入って潮を浴び、力を再生して帰るという循環の物語を持つのだが、新地町の「安波祭」は、浜の人々が大漁と航海安全を祈願する神事だ。

地元で「あんばさま」と呼ばれる神社の神輿が集落を練り歩き、クライマックスでは漁師たちが神輿とともに海に入り、潮垢離(しおごり)をする。かつては毎年行われていたが、担ぎ手が少なくなり、今では5年に1度の祭りとなっていた。ちょうど2011年11月3日が「安波祭」開催の年になっていたが、「見に行こう」と釣師浜を再訪した山田監督は、拍子抜けする。「小野さんら漁師が神社にお参りして祈願をし、お神酒をいただいておしまいだった」。

250戸以上が立ち並んだ釣師浜などの集落は、ことごとく流され、住民は仮設住宅などに離散していた。生業である漁そのものに再開の見通しが立たず、「安波祭」は中止となったのだ。

映画の中のその日は、とりわけ印象深い場面だ。人けのない集落跡は枯れ草色に沈んでいる。安波津野神社の仮社の前にたたずみ、目を閉じた男たちからは、無念の思いがにじむ。海の潮で生気を取り戻すはずの神も陸にとどまるほかなく、「恵みの海から切り離された」人々の状況を、残酷なまでに象徴していた。山田監督はこの後、「祭りの意味をもっと知りたい、漁師たちの震災前の姿を知りたい」と新たなインスピレーションを得て、釣師浜に再び通い詰めるようになった。

イメージの変化

漁師たちが待ち焦がれた漁は2012年8月、度重ねてのモニタリング検査でも放射性物質が検出されず、かつ安全が確実な魚種に限る――との条件で、ごく少量の「試験操業、試験流通」という形で始まった。

監督機関である​福島県地域漁業復興協議会の下、相馬​双葉漁協による漁の第1弾は、タコと2種のツブ貝だった。それから少しずつ、試験操業の対象魚種は広がった。

翌13年4月には、名産の「春告げ魚」であるコウナゴも加わり、山田監督は小野さんの「観音丸」に同乗して、試験操業の模様を撮影した。

「船の上での仕事の集中力、眼光の鋭さ、 荒々しさ。初めて見るような彼らに驚き、新鮮な感動を覚えた。本当の姿を見た思いだった。それまで接してきた漁師たちへの、いわばネガティブなイメージがすっかり払拭された」(山田監督)

そのイメージの変化とは何だったのか。「他者の目」だった山田監督の視点も、このあたりから変わっていく。

岸壁で釣り糸を垂らしたり、野球のまねごとに興じたりする漁師たちの日常も、映画は映し出す。

「釣りやパチンコに行って、昼寝をして......。時間を持てあましたような漁師たちに、なぜ前向きに生きられないのか? お金(補償金)をもらっているからか? と、初めは悲観的な見方をしていた」と、山田監督は述懐する。

しかし、気楽に見えた彼らの会話は衝撃的に響く。「昼寝するしかない」「頭がおかしくなる、人間おかしくなる」「人間、いろんな欲があるから働く。それが生きてる実感だべ」「欲しなくなったら、何が面白くて生きてる?」「漁業者に賠償金を払ってるからいいべ、とはならない。何もいいこともうれしいこともない」「のほほんとして、『きょうも1日終わった』という毎日の何が面白くて生きてるのか?」――。

山田監督は言う。

「試験操業の撮影を境に『この人たちは魚を獲るのが好きなのだ』『自分の体を張って生きている』『それらを奪う残酷さこそ原発事故の罪なのだ』と知った」

風評に脅かされる未来

釣師浜から近い高台にある神後団地(災害公営住宅)に、筆者が小野さんを訪ねたのはこの11月8日。津波で家を流されたが、無事だった家族と仮設住宅で2カ月暮らした後、亡くなった弟・常吉さんの家に同居し、応募した同団地の完成とともに、新しい住まいを得た。

原発事故前の収入を基に毎年、東電から「営業被害」の補償金が支払われ、生活に困ることはないが、「将来の不安を、息子たちを思うたびに感じる」と言う。

震災前は3人の息子と一緒に船に乗っていたが、震災、原発事故とともに陸に上げ、土木建設業の現場で働かせた。「試験操業が始まったとき、3人を船に呼び戻した。うちだけじゃなく、新地町の浜では後継者が多い。年に1人、2人は必ず若い人が入ってくる。今の試験操業に張り合いはないが、皆、再び自由な漁ができる未来に期待しているんだ。しかし、その未来は脅かされ続けている」と小野さんは言う。

理由は「風評被害」だ。試験操業の魚が水揚げされる相馬市松川浦漁港では、2016年秋に荷さばき場(魚市場施設)が完成し、17年春には仲買業者による競り入札が復活。一歩一歩、当たり前の状態に近づけようとする地元の努力に、小野さんは「俺たちも本気になってきた」と話すが、「(原発事故の)風評がこの先も続けば、試験でない本格操業が始まったとしても、 地元の魚に常に値崩れが起きるのでは」。

その懸念は、福島産米が国内一厳しい全袋検査にもかかわらず、県外では匿名の「国産米」で売られ、「安く、うまく、便利な業務米」として流通するなど、市場で「風評」が固定化され、現在も安値に甘んじる多くの福島産農産物とダブる。

「ただ『福島』というだけで」

本格操業への実現についても、漁師たちの立場は一様でない。

「60代以上は『早くやってほしい。待っている時間がない』と言うのに対し、若い世代は『まず早く汚染の源を除去してきれいにし、風評を完全になくしてからでいい』と食い違う。彼らの若い奥さんらにも『子どもを守るために地元の魚は食べたくない』という姿勢が珍しくなく、逆に言えば、地元の人たちから安心して魚を食べてもらえなくては、福島の海の復興もないんだ」(小野さん)

これまで福島第1原発の汚染水の海洋流出事故がたびたび報じられ、東電や経済産業省 は、その謝罪と対策の説明会を地元で開いてきた。映画『新地町の漁師たち』には、2014年 3月に相馬市で開かれた東電の「地下水バイパス」計画(大量の地下水が原子炉建屋の汚染源に触れる前に井戸でくみ上げ放流する案)の説明会で、憤る小野さんの厳しい声を記録している。

「船方(漁船乗り)は風評被害が一番怖いです。また魚が売れなくなったら、どうするんですか? 誰が責任を取るんですか? これは我々の代の話じゃない。孫、ひ孫の代の福島県の海が汚されちゃったら、どうにもならない。海は除染できないんですよ」

小野さんらが暮らした釣師浜の集落跡は現在、防潮堤建設などの大規模工事の現場になっており、「あの辺に家があった」と指差されても想像できない。相馬双葉漁協の新地支所も新しい事務所が建てられ、たくさんの漁船がたゆたう岸壁の向こうの海の風景に、小野さんは複雑で理不尽な思いも抱いている。新地町は浜通りの北端にあり、その北には何の境もなく宮城県の海域が続いているのだが、「こちらではいまだに、コウナゴやサバなど季節季節の魚のサンプリング調査をやっている。ところが、宮城県側では何の制約もなく漁をしている。魚が増えて、水揚げも値も上がっているそうだ。増えて当たり前だろう、こちらで獲っていないのだもの。新地町と請戸(浪江町)の水産加工業者が、工場を宮城県側に再建し、こっちに魚を買いに来ている。わずか数キロの距離なのに、ただ『福島』というだけで」。

「安波祭」に見た希望

映画のラストはどこまでも美しい、青い海と空だ。裸の漁師たちが神輿を担いで海に 浸かり、潮垢離をしながら、子どもに戻ったように無邪気にはしゃぐ。2016 年11月3日、大震災があった11年の中止を挟んで10年ぶりに催された「安波祭」のシーンだ。

山田監督のカメラは、すぐ間近で彼らの輝くばかりの表情を捉える。「山田さんは合羽を着てきたのだが結局、深い所まで一緒に入って、ずぶ濡れだったよ」と、小野さんは笑う。

「昔は、集落を練り歩く神輿を担いだまま海に入ったが、一度流されたことがあり、樽(たる)神輿に変わったんだ」

映画は祭りの前に1度完成したが、山田監督にとっても念願の「安波祭」。「5年余り前には津波が押し寄せ、漁師たちの運命を変えた海だった。 いろんな思いが彼らにこみ上げただろう」(山田監督)という場面が、2017年3月の公開に合わせて付け加えられた。

民俗学の解釈では「神が海の潮で力を取り戻す」神事だが、映画を観る者には、それまで語られてきた理不尽と苦難の歳月から、漁師たち自身が再生する姿のように映る。

「東電の説明会で感情をあらわに訴える小野さんに、海と家族を守ろうとする漁師の誇りを感じた。生きがいって何だろう? それを失うと人間はどうなるのだろう? 生きる環境そのものが仕事の場である人々にとって、生業(なりわい)を奪われるとは、どういうことなのか? 自分はリストラをされた経験はないが、失業すれば『次がある』と探すだろう。しかし、漁師たちに『次』はない。映画を見る人に、それを知ってもらえたら」

山田監督はそう語りながら、漁師たちの気持ちが1つになる「安波祭」に希望を見たと言う。

小野さんは、「100歳になるまで漁師を続けるつもり」と真顔で言う。常吉さんとともに沈んだ、2隻目の漁船も再建造した。小野さんは言う。「家族に反対されたが、息子たちのために残すんだ」。

新地町には、阿武隈山地の名山で標高429.3メートルの鹿狼山(かろうさん)がある。大昔、山頂に手の長い神が住まい、新地の海に手を伸ばして魚介を食したという、漁業事始ともいえる伝説がある。小野さんは毎日、その山に登っているという。日常生活でも両足首に1キロずつの重しを付けて歩く。「富士山にも登ったぞ。月山にも那須の茶臼岳にも。100歳まで現役を目標に、まずは本格操業に備えるのさ」。海の男は不屈である。

「震災ものはもう見られない」

「安波祭」のラストシーンを除いたオリジナル版は2016年3月、東京で開催された「グリーンイメージ国際環境映画祭」に出品して、大賞に選ばれた。山田監督が最初に得た手応えだった。

これを励みに「次は映画館のロードショーにかけたい」と願い、売り込みに歩いた。だが、「商業的となると難しい壁があった。何館も断られ、『震災ものの映画なんて、もう観る人はいない』とはっきりと言われたこともあった。それでも、映画は人に観てもらわなくては」と、自主上映を始める覚悟を決め、同年4月、まず新地町で「完成記念上映会」を開いた。主役である漁師たちに観てもらいたかった。町役場の隣の施設で、相馬双葉漁協新地支部の青年部が、旬のコウナゴの試食会をにぎやかに催してくれ、1日2回上映で計2日間の入りが400人に上った。「20~30人くらいかと思ったので、びっくりした」(山田監督)。観客の1人だった小野さんは、「(山田監督が)撮って歩いてるのを見ていたが、映画になるとは思わなかったよ。俺もあんなに(映画に)出るなんてね。東電さんに異議申し立てをした場面など、俺は早口だし、その先がどうなるか分からんかった時の思いがよく出てたな」と笑う。

東京でも同年5月から、教会などを会場に自主上映を重ねた。また震災の被災地、宮城県唐桑町に移り住んだ同級生が、現地で企画してくれた上映会もあった。

やがて評判や支援の声がメディアやネットに広がり始め、本格的に映画館でのロードショーが実現したのが今年3月。祭りのシーンを加えた最終完成版を東京都内の「ポレポレ東中野」で披露することができた。売り込みの成果も現われ、大阪、名古屋、そして7月には地元となる福島市の映画館で1週間上映した。映画のきっかけを生んだ和合亮一さんが初日の舞台あいさつに駆け付け、上映の応援で新地町の女性らが「浜の母ちゃん食堂」と銘打って、名物ホッキ飯やシラウオの吸い物を振る舞うイベントも行った。

「上映会のフィナーレも、ぜひ東北で」という山田監督の念願がかない、12月3日~15日に、仙台市の伝統館「桜井薬局セントラルホール」が上映を引き受けた。支配人の遠藤瑞知さん(55)はこう語る。

「震災、原発事故のドキュメンタリー映画を東北の館として上映してきたが、山田監督の熱さに打たれた。こちらでも普段の生活から震災の爪痕が見えなくなってきたが、今も間近な場所で何が起きているか、忘れ去られていく。『新地町の漁師たち』には当事者の生々しい証言が山のようにあるが、マイクを向けてのコメントではない。震災、原発事故は『俺たちだけでなく未来の世代にも関わる』という言葉を、見る人に共有してほしい」。

仙台での初日には、午後1時からの上映後、山田監督と小野さんを筆者が舞台上でインタビューすることになっている。

「人影」の意味

山田監督はいま、次回作のロケハンで浪江町に通っている。3月末に避難指示解除になった同町の荒廃状況を、筆者は拙稿『「3.11」から6年半:復興は遥かに遠い古里「浪江町」』(2017年9月17日)で紹介したが、後背地が失われた地元の請戸浜には、津波で破壊された漁港が再建されている。避難先の南相馬市や郡山市からの通い漁業であっても、「自分たちの港が欲しい」という漁師たちの切なる願いによるものだ。

山田監督は、初めての映画の原点になった、和合さんの新地町の詩にある「人影」という言葉を、ほぼ誰に出会うこともない浪江町の崩れかけた街、漁村集落が消え去った請戸浜を歩くたびに思うという。その浜からは、真っすぐ南に福島第1原発の排気塔群がくっきりと見える。

「問題がより生のまま残された土地で、『人影』の意味を追求してみたい」と言う山田監督の周りには、冬の福島の浜の厳しい西風が、吹いていた。


寺島英弥 ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。

(2017年12月3日フォーサイトより転載)

関連記事