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年初に考える「農協」問題(上)  生命線は「減反制度」と「兼業農家」

2015年01月18日 02時40分 JST | 更新 2015年03月17日 18時12分 JST
Ron Levine via Getty Images

 都会ぐらしの日本人は農業に対していろいろ誤解があります。たとえば、小規模農家は農薬や化学肥料を使わず、丹念に作物を作っているというイメージがあります。それに対して、大規模農家は農薬をじゃんじゃん使って薬品漬けの農作物を作っているのではないか――。しかし、日本の農業の実情は大きく異なります。

規模の小さい農家は環境に優しいか

 実際には環境にやさしい農業を行っているのは主に農業から収入を得ている規模の大きい「主業農家」といわれる人たちです。普段はサラリーマンをして土日だけ小さな田んぼで農業をしている小さな兼業農家は農業に多くの時間を割いている時間がないので、雑草や害虫駆除のため農薬を使い、化学肥料を多投するのです。規模の大きい農家ほど、農業に多くの時間をかけて環境にやさしい手間暇をかけた農業をやっています。

 本来であれば、アメリカ、オーストラリア、ドイツ、オランダ、フランスといった他の先進国のように、農業が大規模化して主業農家が増え、単位面積ならびに投下労働力に対する収量が高まっているはずです。日本でも、畜産や野菜などコメ以外の農業は主業農家中心です。それなのに、コメだけが生産性の低い「パートタイム・ファーマー」とでもいうべき兼業農家が主流になっています。それには理由があります。

米価引き上げに利用された食管法

 そもそも日本では、堂島正米市場という、世界で最初の先物取引が江戸時代の大阪で行われていました。日本のコメ市場は世界の資本主義の最先端にあったのです。ところが、1918年、コメの値段が上がって米騒動となり、その反動で米価が低落した頃から、政府は市場へ介入するようになりました。その後、戦時経済下で食料が供給過剰から逼迫へ転換する中で、「食糧管理法」が成立(1942年)。農家が生産したものを政府が全量集荷し、消費者に配給する統制経済へと移行したのです。

 もともと食糧管理法(食管法)は、戦時統制下、乏しい食料を消費者に均等に分配するための消費者保護法でした。しかし、戦争終了後もこの制度はずっと続き、高度成長期以降は、農家から買い入れる米価を引き上げて農家の所得を補償する手段に使われるようになりました。その際、農協が食管制度を利用して、コメの価格決定に介入するようになったのです。

平日はサラリーマン、土日だけ農家

 現代の日本人は忘れていますが、終戦直後は食料不足となったので、農家のほうが勤め人より豊かでした。ところが、戦後の経済復興でサラリーマンの所得が農家を追い抜く60年代、農業基本法が成立します(1961年)。農業基本法の理念自体は、農家戸数を減少させて残った農家の規模を拡大することでコストを下げ、農家所得引き上げを目指すという大変理にかなったものでした。1955年あたりから農村の過剰労働力が都市に流入し、彼らが急速な経済成長の担い手となっていたので、農村人口の減少という流れを後押しすれば、農業の大規模化・合理化は自ずから進んでいくはずだったのです。

「別れの一本杉」「リンゴ村から」「東京だよおっ母さん」「南国土佐を後にして」「あゝ上野駅」など望郷の歌が大流行しました。これは農家の次男坊、三男坊などの過剰労働力が都会に集団就職していった時期に歌われました。ところが、1964年「国土の均衡ある発展」を目指して、4大工業地帯ではない場所に新産業都市が指定されるようになってから、農村から人が減らなくなりました。田舎にいながらサラリーマンができるようになってしまったのです。農家の次男坊、三男坊だけではなく長男坊まで、近くの工場で働くようになりました。兼業化です。

 1960年代以降、食管制度下で農協はコメ農家の所得向上を名目に、生産者米価引き上げという一大政治運動を展開しました。米価が上がれば農協の販売手数料収入も増加するので、農協にとって、この運動は合理的な行動です。しかし、日本の農業の全体から考えると、そうではありません。米価が上がったことで、土日のみ農業をする零細で非効率な兼業農家が農業を続けてしまい、農地が主業農家に集まっていきませんでした。農業基本法が考えたような、コスト削減と収量向上につながる主業農家の規模拡大が進まず、農家がコストを引き下げて収益を上げようとする道が、意図的な米価の引き上げで閉ざされてしまったのです。

 農業基本法は農政自らによって葬られたといえます。農政は農村に強力な集票能力を持つ農協の支援を選挙で受けざるをえない自民党の圧力により、米価引き上げに終始することになりました。

歪められた農業基本法の理念

 日本人にとって、コメは特別な食料品です。戦前は農家でも収穫したコメの半分は小作料として持っていかれ、残りのコメも肥料などを買う代金が必要だったために売っていたので、自分で食べるのは粟稗雑穀でした。「あの世では米を食べたい」と枕元に言い残して死んでいく農民もいたほどでした。

 そのような飢えの歴史があり、日本人の頭の中には、コメだけはたらふく食べたいという思いが染み込んでしまったのかもしれません。だから、パンやバターの不足は大して問題にはなりませんが、1993年のコメ大不作では日本中がパニックになりました。

 1960年代までは農業生産の半分がコメだったのに、今や全体の2割にすぎません。農業基本法が成立した時は、むしろコメの供給量は多少足りなかったくらいだったのが、農家の所得を上げるための米価引き上げに、パン食の普及、食事の欧米化などが加わることによって、コメの消費量が減り、減反せざるをえない事態に陥ってしまった。農業基本法の理念は米価引き上げと減反で歪められてしまったのです。

 高く買って安く売るという生産者米価と消費者米価の二重価格制度のため、膨大な食管会計の赤字が生じました。これを解消しようとして、消費者米価も引き上げられました。コメの値段が高くなったので消費量も減り、コメが余るようになりました。

 1970年代後半には、政府は毎年7000億円程度を食管会計の赤字の穴埋めにつぎ込みました。これとは別に、余ったコメは家畜の餌などにただ同然で処分され、こうした過剰米の処理に3兆円というお金が使われています。人間が食べるコメと同じ値段という、世界で最も高価な飼料となったのです。そのため、財政負担を減らすための生産調整として減反政策が始まりました。

 その後も、農協はコメは全部買い上げろ、米価も上げろと主張していましたが、結局、食管制度は行きづまり、1995年には廃止になりました。しかし、コメの生産量を減らすことを目的にした生産調整、減反はまだ続いています。今では、生産調整が米価を高く維持する方法となっています。

農協は官製協同組合

 減反制度と農家の兼業化は表裏一体で、日本の農業の発展を阻害しています。しかし、農協が肥大化するためには役立っています。農協自体を維持する仕組みとしてはうまくできています。

 まず、農協は自らを「自主自立の組織」とうたっていますが、沿革を見れば、それはまったくの嘘です。戦前には農家への技術指導を行う「農会」と、肥料や生活資材の購入、農産物の販売、農家への融資などを行う「産業組合」というふたつの地主主体の組織がありました。

 1930年代では、確かに「産業組合」は地主・上層農家が組織した自主的な組合でしたが、農家の組織率は低かったのです。しかし、農産物価格の暴落によって娘を身売りするほどの事態となった昭和恐慌を切り抜けるために、農林省は一大農政運動を展開し、全町村の全農家が加入し、経済・信用業務すべてを統括する産業組合を作り上げました。

 戦時中、「農会」と「産業組合」は「農業会」として統一され、食糧難の時代、政府が農家からコメを集荷するための統制団体となります。そして、戦後、これが解体されずに、農業会の看板を塗り替えて、農協とされたのです。つまり、100パーセント官製の統制団体が根っこにある協同組合で、同じ協同組合という名前がついている生協などとはまったく異なります。生協は組合員主体の下からの組織ですが、農協は中央会が支配するトップダウンの組織です。

 若い農業者が農協を脱退しようとしたら、農協の役職人に「おじさんたちが頑張って作った農協を君は潰す気か」と慰留されたという話をよく聞くのですが、これは真っ赤なウソで、農協を作ったのは農林省なのです。終戦直後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)や警察の力を使った「ジープ供出」「サーベル供出」と呼ばれるコメの強権的供出まで行われましたが、基本的には、コメの闇市場を防ぎ、政府に供出させるため、農協の組織を利用したのです。

 当時、GHQは農協を強制加入の組織にするつもりはなく、また、銀行業務などは切り離すことを意図していました。ところが、農林省が金融も兼務したままの状態にしておけるよう、コメを買い上げた政府が代金を農家に渡す際、農協を通じて払わなければならないという理由を作り上げて、これを口実にGHQを説得して銀行業務を存続させました。

 その後、高米価で農村に滞留した兼業農家が、金融事業も行える農協口座にサラリーマン所得も預けてくれたので、農協バンクは日本第2のメガバンクとなりました。お金の貸し借りや生命保険、損害保険など金融業務も行えば、農産物や肥料・農薬などの農業用資材も売る、ガソリンスタンドや葬祭業など生活に関する物資やサービスの供給も行うヌエ的な組織に変質しました。日本の中でもこんな万能の組織は農協だけです。(続く)

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山下一仁

1955年岡山県生れ。77年東京大学法学部卒業、同年農林省入省。82年ミシガン大学にて応用経済学修士、行政学修士。2005年東京大学農学博士。農林水産省ガット室長、欧州連合日本政府代表部参事官、農村振興局次長などを歴任。08年農林水産省退職。同年経済産業研究所上席研究員。10年から現職。主著に「農業ビッグバンの経済学」(日本経済新聞出版社)「環境と貿易 WTOと多国間環境協定の法と経済学」(日本評論社)。

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(2014年1月11日フォーサイトより転載)