なぜ事件は「東半分」で起きたか?「パリ同時テロ」の現場を歩く

今回の現場一帯は、黒人やアラブ人の移民家庭が多い一方で、左派系知識人らが近年好む場所ともなっている。

1月に起きた風刺週刊紙『シャルリー・エブド』編集部襲撃事件の際、ちょうどその直後にフランス出張の予定が入っており、事件発生4日後に着いたパリで緊張感に包まれた街を見ることになった。今回の同時多発テロの際も、またもやフランス出張の予定が入っており、13日の事件発生翌日のパリに降り立った。単なる偶然に過ぎないが、巡り合わせというものを感じないでもない。

事件から20時間足らずのパリは、週末だというのに人影が乏しく、元日の夜のような静けさだった。事件後、当局が外出を控えるよう市民に呼びかけたからだろう。中心部でもかなりの店が閉まり、開いているカフェやレストランもがらがらのようだった。

ホテルにチェックインをしてテレビのニュースを見たものの、複数の現場の状況が交錯して、どこで何が起きたのか、うまく呑み込めない。実際にテロが起きた場所を訪れ、被害者と加害者が見た風景を脳裏に刻みつつ、情報を反芻しなければなるまい。

翌15日日曜日の朝、雲ひとつない空の下を、レピュブリック(共和国)広場から歩き始めた。この広場は、「シャルリー・エブド」事件の際に追悼の場となり、人々が集まって献花や献灯をした。今回も、やはり大勢が集まっている。

この日の時点で、犠牲者は129人に達し、103人の身元が判明していた。けがを負ったのは352人で、そのうち99人が重体である。このほか、容疑者とみられる7人が死亡した。

赤が襲撃現場、青が関連施設、緑が「シャルリー事件」の現場。

現場(1)コンサートホール「バタクラン」

まず、82人という最大の犠牲者を出したコンサートホール「バタクラン」に徒歩で向かう。最も近い地下鉄の駅は1駅先のオベルカンフだが、治安維持を理由に閉鎖されている。

「バタクラン」周辺は封鎖されている。リシャール・ルノワール街の柵は献花の山だった(筆者撮影、以下同)

19世紀半ばに建てられて東洋風の派手な外観を持つ「バタクラン」は、白い石造りの街並みが並ぶパリの街中で極めて目立つ建築物だ。その名称はオッフェンバックの喜歌劇「バ・タ・クラン」に由来し、歴史的建造物に登録されている。当夜、ここでは米国のロックバンドのコンサートが開かれていた。容疑者らはその途中で壇上にのぼって銃を乱射し、さらに観客を人質にとって立てこもった。最終的に特殊部隊が突入し、容疑者らは死亡した。

ホールの周辺は広範囲にわたって封鎖され、様子がうかがえない。まだ検証が続いているのだろう。路上に設けられたあちこちの柵の周囲に、市民が持ち寄った花束が置かれ、追悼メッセージの紙が貼り付けられている。

柵に沿って回っていると、見覚えのある風景に行き当たった。真ん中に公園が設けられた幅広い街路である。その地下をサンマルタン運河が走る幅60メートルのリシャール・ルノワール街だ。

この通りは、『シャルリー・エブド』襲撃事件以来何度か訪れた。編集部を襲撃したクアシ兄弟が車に乗って逃げた通りであるからだ(2015年8月15日「テロリストの誕生(16)12人目の犠牲者」参照)。兄弟はその途中で、警察官アーメド・メラベを射殺した。

柵があるのは、メラベが殺された場所からさほど離れていない場所である。つまり、「バタクラン」の現場は、『シャルリー・エブド』のごく近くなのだ。

容疑者らはこの地区に土地勘があるのだろうか。ひょっとすると、襲撃に備えて『シャルリー』周辺を下見していたクアシ兄弟に同行した人物がかかわったのかもしれない。

「バタクラン」で実際に何が起きたのか。生存者の証言が求められるが、現在はまだ治療が続いている段階である。実態が明らかになるのは先だろう。その一端をうかがうことのできる動画がある。『ルモンド』紙の記者ダニエル・プセニが撮影し、同紙のサイトにアップされたものである。

プセニは、「バタクラン」裏のアパルトマンの3階に住んでいる。同紙によると、その夜彼は部屋でテレビをつけたまま仕事をしていた。突然、爆竹のような音がした。彼は最初、それがテレビドラマの中の音であると勘違いした。窓の外を見ると、目の前にあるホールの非常口から大勢が走って出ていた。

動画は、地獄のようなその場面を記録している。出口の周囲で倒れたまま動かない人がいる。撃たれた仲間の体を懸命に引きずりながら走り去る人がいる。「バタクラン」3階の窓から逃げようとして外にぶら下がっている女性がいる。

その後、プセニはけが人を助けようと街路に出て、窓からのぞいていたと見られる容疑者に撃たれた。弾は左腕を貫通した。容疑者らが立てこもったため、救助がなかなか来ない。病院に運ばれたのは数時間経った後だったという。

現場(2)カフェとピザ店

リシャール・ルノワール街を北にさかのぼると、通りの名前はやがてジュール・フェリー街に変わる。ここは、別の意味で見覚えのある風景である。30年あまり前、初めてパリに来た私は、この通りのユースホステルに宿を取った。パリで迎えた最初の夜、宿の近くのアラブ料理店で、勧められるままにやたら辛い料理を食べたら、早速お腹を壊した。以後3日ほど、見物もできず宿のドミトリーのベッドでうめくはめになった。

その料理店は、年月を経てまだ同じ場所にあった。名称は「トルコ料理」に変わっているが、相変わらず似たようなメニューを並べている。カフェ「ラ・ボンヌ・ビエール」は、ちょうどその向かいに位置している。五差路の角にあたり、他のカフェと同様、歩道上にテラス席を設けていた。パリでは、11月には珍しく最近暖かい日々が続いていたから、テラスにも多くの人がいただろう。

このカフェと、そこから数軒先の三差路の角にあるピザ店「カーザ・ノストラ」を午後9時32分、車に乗った男たちが襲撃した。カラシニコフ銃を乱射し、少なくとも5人が死亡し、8人が重体となった。

「ラ・ボンヌ・ビエール」のガラスには、銃弾の穴が生々しい。店内には食器や椅子が傾いたまま残り、事件当時の様子を伝えている。男たちは100発程度を撃ったという。このカフェの隣にあるコインランドリーも銃撃を受け、入り口のガラス戸が粉々に砕かれていた。

現場(3)カンボジアレストランとバー

「ラ・ボンヌ・ビエール」から徒歩数分、パリ市内の大病院の1つ「サン・ルイ病院」の塀に面した五差路の角に、カンボジア料理を出すレストラン「プチ・カンボージュ」がある。病院のインターンたちの間で評判の店で、いつも多くの客でにぎわっていたという。その向かいの角にあるバー「ル・カリヨン」も、地元の人の憩いの場となっていた。

バー「ル・カリヨン」では、銃撃でできた穴に花が挿されていた

この一角を襲った男たちは、「ラ・ボンヌ・ビエール」と同じグループだと考えられている。時間的にはこちらの方が早く、午後9時25分ごろである。やはり車で乗り付けて銃を乱射し、少なくとも12人が死亡した。

現場(4)ビストロ「ベレキップ」

レピュブリック広場に戻って地下鉄に乗り、南東に4駅のシャロンヌで降りる。この近くシャロンヌ街のビストロ「ベレキップ」が襲撃を受けたのは午後9時36分ごろだった。『ジュルナル・デュ・ディマンシュ』紙によると、男たちは無言のまま、100発ほど撃ちまくったという。死者は19人に達した。この店の前にも、多くの花束が集まり、追悼の市民やメディアが集まっている。

その隣にある日本料理店「スシ・マキ」も被害を受けた。笹の模様のガラスに、銃弾でできた大きな穴が開いている。日本料理店とはいえ、和食ブームに便乗して中華料理店からにわか仕立てで転換した店だろう。店の一部には中華風の装飾が残っている。パリにはこのようなエセ和食店があちこちにあり、最近では中華料理を見つけるのに苦労するほどだ。

日本食レストランでも惨劇が......

現場(5)カフェ「コントワール・ヴォルテール」

地下鉄シャロンヌ駅からヴォルテール街をさらに南東に進むと、大広場ナシオンの手前の十字路の角にカフェ「コントワール・ヴォルテール」がある。午後9時40分ごろ、店に1人の男が入り、注文まで済ませた。しかし、この男は自爆テロ志願者だった。サッカースタジアム「スタッド・ド・フランス」で自爆した3人と同じ爆発物を身にまとっていた。爆発で本人は死亡し、客や従業員15人ほどがけがを負った。

幸いなことに、死者が出なかったからだろう。この店の前には、他の店のような花束の山はない。それでも、いくつかの花とろうそくが供えられていた。店の前で近所のお年寄りらが立ち話をしている。1人の老人が「通りがかったら大勢の人がいたので、何かと思った。後で新聞で見たら、自爆したんだってねえ」。他のお年寄りが熱心に聴き入っている。テレビのニュース伝達力が弱いフランスで、人々が情報を入手するのは、ラジオか新聞か噂話を通じてだ。

テロの現場はこのほか、パリ北郊のスタジアム「スタッド・ド・フランス」周辺に3カ所ある。いずれも自爆テロである。そこを訪れようと午後、郊外地下鉄RERに乗ろうとしたが、事故があったらしくいつまで経っても電車が来ない。治安がよくない地域で夕方になると危ないため、この日は諦めた。

襲撃場所に込められた意味

訪れて気づいたのだが、襲われたレストランやカフェはいずれも、交差点の角に位置している。こうした店は、多くの場合値段の割に料理はたいしたことがないものの、いつも大勢の客でにぎわっている。明るく開放的で、パリの享楽文化が息づいているように見えるからだろう。そこを狙った過激派たちは、人々が楽しそうにしていることに我慢できなかったのかも知れない。

もう1つ気づいたのは、これらの店の位置関係だ。コンサートホール「バタクラン」を含め、パリ北部レピュブリック広場から東部ナシオン広場にかけてパリを斜めに横切る線上に、いずれの店も位置している。ホールが『シャルリー・エブド』に近いのはすでに述べた通りだが、実は、南東端の現場「コントワール・ヴォルテール」の先には、『シャルリー』事件の直後にアメディ・クリバリが立てこもったユダヤ人スーパー「イペール・カシェール」がある。さらに言うと、反対の北西端レピュブリック広場の先にあるのは、クアシ兄弟らが育ったオーベルヴィリエ街や彼らが出入りしたモスクがある地区である。つまり、今回の事件は何か、1月の連続テロの現場をなぞったような感じなのだ。

ちなみに、「スタッド・ド・フランス」はオーベルヴィリエ街の延長上に当たっている。

少し深読みが過ぎると思えないでもないが、一方で、イスラム過激派はこうした縁起担ぎやオカルト話が大好きでもある。場所に何かの意図が込められていたと考えるのも、全くの的外れではないだろう。

手近で手軽な犯行

今回の現場一帯は、黒人やアラブ人の移民家庭が多い一方で、左派系知識人らが近年好む場所ともなっている。『シャルリー』編集部があったり、『ルモンド』紙の記者が「バタクラン」の裏に住んでいたりするのは、その一例だ。インテリと貧困家庭が交差する少し奇妙な一帯で、テロの容疑者たちもこの地区で普段の日々を過ごしていたのかもしれない。

なお、パリの東半分にあたるこの地域に足を踏み入れる観光客はほとんどいない。エッフェル塔やシャンゼリゼ街などパリの観光地のほとんどは西半分に位置しているからだ。フランス政治を牛耳る政治家や財界人の多くが暮らしているのも西半分である。容疑者らが本当にフランスの政策に反対するなら、なぜ西半分を狙わなかったのか。

恐らく、金持ちたちの地区まで出かけていって何か事を起こすほどの度胸は、彼らになかったのだろう。手近なところで、しかも銃という手軽な手段で起こしたのが、今回のテロだった。ただ、たとえ手段が手軽でも、甚大なる被害をもたらすことはできる。私たちが暮らすのは、原因と結果が釣り合わない非対称の現代社会であるからだ。

カフェ「ラ・ボンヌ・ビエール」のガラスに残る弾痕を不安そうに見つめるパリ市民ら。店の手前には献花が並ぶ

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国末憲人

1963年生れ。85年大阪大学卒。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。富山、徳島、大阪、広島勤務を経て2001-04年パリ支局員。外報部次長の後、07-10年パリ支局長を務め、GLOBE副編集長の後、現在は論説委員。著書に『自爆テロリストの正体』(新潮新書)、『サルコジ―マーケティングで政治を変えた大統領―』(新潮選書)、『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『イラク戦争の深淵』(いずれも草思社)、共著書に『テロリストの軌跡―モハメド・アタを追う―』(草思社)などがある。

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(2015年10月16日フォーサイトより転載)

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