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「南スーダン」をめぐる難題(上)「自衛隊だけ無傷」の保証はない

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南スーダンで展開中の国連平和維持活動「南スーダン派遣団(UNMISS)」に派遣されている陸上自衛隊に「駆け付け警護」の任務を付与するに当たり、「自衛隊員は1発も撃たず、1人も殺さず、1人も犠牲になるべきではない」という主張がある。国家政策として自衛隊を派遣する以上、自衛隊の任務拡大、あるいは自衛隊派遣そのものに反対する主張は、日本国内の議論として存在して当然である。

殉職者は5年で46人

日本国民である自衛隊員に犠牲を出さないことは、日本政府が全力で追求しなければならない課題である。だが、UNMISSには62カ国から合計約1万6000人の軍人、警察官、専門家らが派遣されているが、2011年7月の任務開始以来、今年8月末までに計46人が殉職している。状況からみて、現在世界に展開している16の国連PKOのうち、コンゴ民主共和国東部に展開するMONUSCOと並んで最も危険度の高い国連PKOであることは疑いない。残念ながら、日本の自衛隊だけが今後も無傷である保証はない。

南スーダンでは各地で日々無数の暴力が行使され、膨大な死傷者が出ている。2013年末に大規模な武力衝突が始まって以降の死者数について、国連は「少なくとも5万人」と見積もっており、国内避難民は270万人に達している。

今年7月の数日間に首都ジュバなど南スーダン各地で発生した大規模戦闘では、ジュバだけで少なくとも270人が死んだと南スーダン政府は発表した。現地に駐在していた国連や国際NGOの関係者からは、実際にはこれよりはるかに多い犠牲者が出たとの証言が相次いでおり、戦車やヘリコプターも使用されたことが判明している。

国会での議論の質は......

そうした中、日本の国会では先日、今年7月の大規模戦闘が「戦闘」か「衝突」だったのかという論戦が行われ、メディアが大きく取り上げた。
 
日本では通常ほとんど注目されることのないアフリカの武力紛争の中で、南スーダン内戦は、自衛隊が派遣されているゆえに、その存在が知られている例外的な紛争である。

とはいえ、日本国内での議論の中心は、あくまでも南スーダンへの「自衛隊派遣の是非」と「任務の内容」であり、そういう関心の持ち方の延長線上に南スーダンの治安情勢への関心がある。南スーダンという国家そのものや、国連PKOの全体的な在り方についての関心が高いわけでは決してない。
 
アフリカの小国の運命など気にかけている暇はないと言えばそれまでだが、問題は、こういう国際的視野を欠いた関心の持ち方を続けていると、世界の武力紛争に日本としてどうやって対処すべきかについての議論の質が一向に向上せず、国際社会の現実から乖離していくことである。

「戦闘」か「衝突」かを巡る国会論戦を英訳し、世界の紛争地で懸命に生きる人々に向かって「これが日本の国権の最高機関における安全保障論議です」と胸を張って放送できるとでもいうのだろうか。我々は、日本語に英語やアラビア語のような国際的汎用性がないのをいいことに、国際常識から遠くかけ離れたところで愚論に時間を費やしてはいないだろうか。

「虐殺を黙認すること」への批判

国連PKOなどの外部勢力が「人道」を大義に他国の武力紛争へ介入することは、そもそも極めて困難な問題を孕んでいる。ブッシュ・ジュニア米政権で国務省の政策企画本部長を務めた国際政治学者のスティーヴン・クラズナー(スタンフォード大教授)の言葉を借りれば、世界のどこかで人道危機が生じ、それがメディアを介して先進国の人々の道義的関心を引きつけると、先進国の政治家は「介入すれば非難され、介入しなければまた非難される」状況に追い込まれる。

日本の場合は、政権が国連PKOへの自衛隊派遣を通じて武力紛争に介入し、誰かを殺害した場合に国民やメディアから受ける批判(介入に対する批判)の方が、紛争地の子供が武装勢力に虐殺されることを黙認した場合に受ける批判(不介入に対する批判)よりも、遥かに大きいだろう。この傾向が今後も同じか否かは分からないが、少なくとも今日まではそうであった。

共産党や社民党といった左翼政党とその支持者はもちろんのこと、保守勢力とその支持者の中にも強い軍事アレルギーが一定程度存在してきた。だから今日まで、国連PKOにおける自衛隊の任務は戦闘ではなくインフラ整備や民生分野への支援であり、だからこそ「駆け付け警護」も大きなニュースになっているわけである。

実際に起こったPKO批判

武力行使の問題を南スーダンに話を引きつけて考えてみよう。もし、UNMISS指揮下の自衛隊が発砲し、誰かを殺害した時、何が起きるだろうか。

2016年2月17日に南スーダンのアッパーナイル州の州都マラカルで起きた丸腰の市民に対する襲撃事件は、国連が開設したPoC(Protection of Civilians)と呼ばれる避難民保護施設の内部で発生した。PoCは戦闘で家を失った人々、他の民族グループからの襲撃を恐れて自宅に戻れない人々などを保護する施設であり、敷地内にはUNMISSの部隊も駐留していた。

武装した集団が避難民を襲撃した際、UNMISSの部隊は空に向けた威嚇射撃や催涙ガスで対応し、隣接する別の国連施設へ逃げ込んだ人々の保護に当たったと言われているが、多数の市民が殺害されたために、一体UNMISSの部隊は何をしていたのかという批判や疑問が南スーダン社会から上がった。

つまり、このケースでは、武装したPKO部隊が「正当防衛や緊急避難のために武力行使しなかったこと」が批判された。

ルワンダ大虐殺

丸腰の市民を殺戮する武装集団に武力行使しなかったこと、あるいは権限が与えられていないために武力行使できなかったことを批判された歴史に残るケースは、1994年に東アフリカの小国ルワンダで発生した「ルワンダ大虐殺」の際の国連PKOの対応である。虐殺を止めることができなかったカナダ軍の司令官は、帰国後に自殺を図り、一命を取り留めた。

彼が率いていた国連PKO部隊には、武装集団を殺害するのに十分な権限が国連安保理から付与されておらず、部隊規模も小さかった。国連は中立性を失って「紛争当事者」になることを恐れ、武力行使を躊躇しているうちに、わずか3カ月ほどの間に推定80万~100万人以上のルワンダ国民が虐殺されてしまったのである。

ルワンダ大虐殺の首謀者は当時の政権であった。国家は国民の保護を任務としているが、その国家が加害者であったり、国民を保護する能力を欠いている場合、その国の人々の命を守ろうと思えば、外部の警察力が介入し、必要に応じて武力を行使するしかない。こうして「保護する責任」という考え方が発展し、近年は国連PKOがしばしば紛争当事者になることを覚悟の上で武力行使する傾向が強まっている。

筆者が直接目撃した例では、コンゴ東部の紛争地帯に展開しているMONUSCOの前身のMONUCが、民間人に残虐行為を加える武装勢力に対し、戦闘ヘリコプターまで投入して猛攻を加えたケースがあった。

以上のように書いてくると、PKO部隊による武力行使が無条件に正しいように思われるかもしれないが、現実はそう単純ではない。PKO部隊の過剰な武力行使が事態を悪化させたケースも多数存在するところに、人道介入の難しさがある。PKOによる武力行使は、たしかに無辜の民の命を救うことにもつながるが、その一方で国連が現地で「紛争当事者」として認識されることになるため、和平の調停者としての中立性を失うリスクがあるのだ。

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白戸圭一
三井物産戦略研究所国際情報部 中東・アフリカ室主席研究員。京都大学大学院客員准教授。1970年埼玉県生れ。95年立命館大学大学院国際関係研究科修士課程修了。同年毎日新聞社入社。鹿児島支局、福岡総局、外信部を経て、2004年から08年までヨハネスブルク特派員。ワシントン特派員を最後に2014年3月末で退社。著書に『ルポ 資源大陸アフリカ』(東洋経済新報社、日本ジャーナリスト会議賞)、共著に『新生南アフリカと日本』『南アフリカと民主化』(ともに勁草書房)など。

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(2016年10月31日フォーサイトより転載)