東日本大震災から4年:遺族が問い続ける「企業の責任」

復興の歩みは津波の記憶も赤土の下に埋めていく。女川町でわが子を津波に奪われ、この4年間、「なぜ、死なねばならなかったか?」と問い続けてきた夫婦の声を紹介する。

東日本大震災の被災地は、間もなく5度目の3月11日を迎える。宮城、岩手両県の沿岸では、あの日壊滅した町々の再建に向けた大規模なかさ上げ(土盛り)工事が進められ、被災者が仮設住宅から高台の造成地へ移り住む動きも、ようやく本格化し始める。まだ見渡す限り土色の風景の中で3月21日、宮城県女川町はJR線と駅舎の復旧・再開を機に「まちびらき」を行い、「復興」を宣言する。しかし、その歩みは津波の記憶をも赤土の下に埋めていく。女川町でわが子を津波に奪われ、この4年間、「なぜ、死なねばならなかったか?」と問い続けてきた声がある。「語り部」ともなった夫婦の声を紹介する。

鎮魂の花壇

宮城県石巻市と境を接する女川町には、2011年3月11日午後2時46分ごろの大地震に続いて同3時20分過ぎ、津波が湾口防波堤を破壊して到達した。リアス式海岸で奥が狭まる女川湾を進んだ津波は高さを増し、最高20メートル前後に達したという。建物や住宅約6500棟が被災し、その3分の2が全壊。827人(うち行方不明者254人)が犠牲になった。

女川町の中心部では現在、被災した建物が撤去されて、膨大な量と面積のかさ上げ工事が進む。再建されたJR女川駅の周辺の区域は、町の新しい地盤となる高さ10メートル近い盛り土の上にある。津波を生き延び、いまも唯一目に付く建物が、中心部にそびえる堀切山の上にある女川町地域医療センター(旧町立病院・海抜16メートル)。堀切山には、地域医療センターの広々とした駐車場に通じる車道のほか、南北から徒歩でじかに登れる鉄製の避難階段がある。町の中心部で唯一の高台である堀切山と旧町立病院は、震災前から町の指定避難所で、津波のあった当日は、入院患者や職員、駆け上ってきた町民ら653人が病院内で命を救われた。それでも津波は病院1階の天井近く、高さ約2メートルに達した。

地域医療センター駐車場の南側斜面の一角に、町が設けた献花台があり、隣に小さな花壇がある。冬も咲くハボタンなどの寄せ植えのプランターをたくさん並べ、茶色のブロックで縁取りした手作りの場所。津波のため行員ら12人が亡くなった(うち8人が不明のまま)七十七銀行女川支店の犠牲者遺族による「鎮魂の花壇」だ。12年5月に支店ビル(2階建て)が解体された翌月、跡地に設けた花壇には、支店ビルの壁や床などの破片を敷いていた。町の復興事業で支店跡地がかさ上げされるため、遺族たちはビルの破片を拾い集め、今年1月31日に花壇を町の献花台脇に移し、破片を底に敷き詰めた。2月22日の日曜、「鎮魂の花壇」で田村孝行さん(54)、弘美さん(52)夫妻と再会した。

遺族は裁判を起こした

「遺族による震災フォーラム」という集いが毎年12月、仙台市で開かれる。仙台、石巻、気仙沼、岩沼各市で11年6月以来毎月、津波でわが子を亡くした遺族の分かち合いの場を設ける「つむぎの会」(世話人は、自死遺族の「藍の会」代表の田中幸子さん)が主催し、昨年末に3回目を迎えた。終わることのない悲しみを背負う人々の声を社会につなぐ――という震災フォーラムは今回、「わたしたちは伝え続ける」をテーマに当事者たちが登壇した。

その1人が田村弘美さん。津波で、女川支店勤務の25歳の行員だった長男・健太さんを亡くした。行員らは当時の支店長の指示で支店屋上(高さ約10メートル)に、さらに高さ13.35メートルの塔屋に上がったが、津波ははるか上を超えて12人の命をのみこんだ。

「支店は海から100メートルの場所。わずか1分走れば、指定避難所で町立病院がある堀切山に登れた。そこで実際に大勢の人が助かった。津波常習地なのに、なぜ屋上に避難しようと判断したのか。目の前に津波が迫る状況にさらされた、行員たちの恐怖はいかばかりだったか」。弘美さんは、航空写真による現地の地図を聴衆に示しながら語った。

11年4月から、銀行側による犠牲者の家族会への説明会、家族会の質問・要望、それを受けた話し合いが行われた。が、「09年に改訂した災害等緊急時対応プランに『指定避難所または支店屋上など安全な場所へ避難』とあり、現場の判断はやむを得ない」という銀行側の説明に田村さん夫妻は納得できなかったという。「12年3月にあった合同慰霊祭でも、銀行側から追悼の言葉はあっても、原因には触れられぬままだった。被災後1年を切れ目にして死亡退職とされ、さらに『証人』である女川支店ビルも取り壊され、これで終わりにされてしまうと思った」(弘美さん)と、犠牲者のうち行員3人の遺族で裁判を起こした。

「巨大津波は予測困難」

「人命の安全確保を最優先にしなかった」と主張する遺族たちの訴えを、14年2月の仙台地裁判決は退けた。「宮城県に予想される大津波の高さは6メートルとされ、支店がある女川町の過去最大の津波の高さは4.3メートル。巨大津波は予測困難」「銀行側は、各支店の屋上の高さが宮城県の地震被害想定(最高水位5.3メートルまたは5.9メートル)よりも十分に高いことを確認した上で、避難場所の選択肢を広くする観点から屋上も避難場所の1つとして追加した」「企業には行政機関よりも高い安全性を労働者に保障すべきとまではいえない」と訴えを退けた。遺族たちは控訴し、裁判は高裁で続いている。

震災フォーラムで、孝行さんも会場から発言し、「悔しい思いで亡くなった息子の命を、次に起こりうる災害に生かすためにも、『企業防災』の責任を問い続けたい」と聴衆に語りかけた。「企業には、お客様や従業員の命を預かっている社会的責任がある。命を守ることが一番の義務で、『やむを得ない』では企業倫理に反する。いかなる場合でも、命を落として良いという理由はありえない。想定外の自然災害だったから仕方がないと言って、同じ悲劇を繰り返そうとしている」。仙台市内の会社員である孝行さんは、「地元の銀行と闘う選択には厳しいものがあった」とも語った。「だが、同じ立場の企業の人、学校の人をはじめ、全国の職場、組織にいる人々に伝えなければならない。死ぬまで語り継ぐ覚悟でいる」

企業の管理下にある人間である以上、上司の指示に反した独自の行動は取りにくい。逆に、大勢の人の命を預かる企業の責任が今回の裁判で問われぬことに、遺族は憤る。「企業には行政機関よりも高い安全性を労働者に保障すべきとまではいえない」という論理がこのまままかり通れば、今後発生が予測される東南海地震などの大災害で、同様の企業災害がもっと大規模に起きるのではないか――と、1人のサラリーマンとして孝行さんは訴える。

埋まっていく「津波の記憶」

弘美さんはフォーラムで、女川町での家族会の活動を紹介した。「私たちは支店跡に花壇を作って毎週日曜に通い、女川を訪れる人たちへの『語り部』をしてきた。被災地のことを知ろうと今も全国から来る人たちに、こう話している。『会社はあなたの命を守ってくれますか。人ごとだと思わず、自分の身に置き換えて考えて』。若者には『あなたが死んだら、お父さん、お母さんは悲しむ。あなたの命を大切に守ってください』と。みんな、涙を流して聴いてくれる。語り伝える大切さを感じている」

七十七銀行女川支店跡のそばに、津波で土台ごと持ち上げられて横倒しになった「江島共済会館」が最近まで残っていた。町は津波の猛威を伝える震災遺構として保存を検討していたが、老朽化が著しいといった理由で解体が決定され、今年1月、ついに姿を消した。3月21日のJR女川駅の再開を機に、周辺では民間の交流施設の開業やテナント商店街、地域交流センター(仮称)のオープンも秋にかけて計画され、赤土に覆われた女川町は1日も早く「復興の町」へと舵を切りたい構えだ。

しかし、かさ上げ工事は津波の記憶をも地面の下へと埋めていく。「ここに来るたび、たった1週間でも景色が変わっていく。どこに何があったか、何が起きたのか、初めての人には想像もつかなくなる。だからこそ、私たちが立ち続けなくては」と孝行さん。花壇を訪れる人に語り、共感を得て書いてもらった、原因究明などを求める署名は1万5000筆を超えた。遺族の闘いも5年目に入る。

七十七銀行女川支店跡を見下ろす花壇に通う田村さん夫妻(2月22日、筆者撮影)

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寺島英弥

河北新報編集委員。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。東北の人と暮らし、文化、歴史などをテーマに連載や地域キャンペーン企画に長く携わる。「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」など。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。

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(2015年3月5日フォーサイトより転載)

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