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スポーツカウンセラーの仕事 ――見えない"こころ"と見えない"仕事"

2015年05月22日 01時57分 JST
時事通信社

"カウンセリング"というと、一般的にはどのようなイメージだろう。私の仕事の一つは、スポーツカウンセラーである。スポーツ選手や、監督、コーチに関わる、いわゆる「こころの専門家」である。

こんなことがあった。関わり始めて1年ほど経ったあるチームの監督と、筆者と、他に数人で食卓を囲んでいたとき

「カウンセラーの先生って、具体的にどんなことをすることが仕事なんですか。」

という質問を、同席していた監督の知人の先生から受けた。

さまざまな場面で、よく問われることである。「何をやってくれるの?」かと。「こころ」そのものが目に見えないが故に、「こころ」のことを仕事にしているといっても、仕事の中味は見え難い。自分にだって見えないのだから、聞かれてもどのように説明したらいいのかな〜と、いろいろと考えて困っている筆者より先に、その監督が答えた。

「一緒にいてくれるんです!」

「へぇ...」

と、まぁ、その先生がどう理解されたのかはおいて、まさにこれこそが、スポーツカウンセラーとしての、筆者の仕事なのだ――そう、そう、そう! その監督はズバリ答えた。ひょっとしたら筆者より理解してくれていた、ということである。他の余分な説明は必要なかった。共にいることがどれほど意味のあることか、説明できない筆者をしり目に、監督には「実感」があったのだろう。しかし、筆者本人としては、自らの仕事の中味や存在の意味に関して、もう少し言葉にしてみたいと考えた。

「トップアスリートでいるということは、高い崖の上、または絶壁にいて、下から引っ張られ、横からは押される中、落とされまいと必死で踏ん張っているようなもの」と言ったのは、ある競技の元日本代表だった友人である。スポーツカウンセラーは、その世界(高い崖の上)に生きている監督や選手に、「何もせずに」ひたすら寄り添って一緒にいる。もちろん、物理的に一緒にいるわけではなく、心の世界での話である。

選手の不安を取り除くわけでもなく、健康になるようアドバイスするわけでもない。もちろん、危ないからといって、その崖から降ろしてしまうようなことは、第一線の勝負の世界から降りることと同義であるから、それでもない。たとえばメンタルトレーニングは、そういう意味では、崖の上にいて、いることを忘れさせるようなものである。恐怖心はないので平静でいられるが落ちることもある...?!

筆者がチームに関わるときに、実際にしていることは、練習時間には練習を黙って見ている、監督が話してくれば話を聞く、試合の日には試合をずっと見ている――このような感じである。基本的に、上記のことの繰り返しだから、専門性を知らない人が見ていれば、「何もしていない」のである。しかし、筆者は心の中で仕事をしている。練習を見ながら、心の中ではできる限りの幅広い視野をもって、深く味わっている。監督の話には、心理臨床家としての筆者の「全力を尽くして」、全身で聞いている。試合の日には、試合を見ながら、監督の心に添い、選手の心に合わせ、さまざまにエネルギーを注ぎ込む。ただ見ているわけでは決してないので相当に疲れる仕事である。

ところで、筆者は剣道家である。この春より、ご縁があって新潟医療福祉大学に着任したが、剣道は今後も長く継続していくつもりである。出身地である奈良県で初めて竹刀を握り、中学卒業時は剣道を続けるかどうか悩んだが、結局、高校は熊本に剣道留学する道を選んだ。寮生活をしていた阿蘇高校(現、阿蘇中央高校)生時代は日本一を目指して(というより、日本一を続けることが使命だった...)ひたすら稽古に励んでいた。高校卒業と同時に進学した、浜松大学(現、常葉大学)では再び日本一を目指したが、ベスト8(全日本女子学生優勝大会)が最高成績だった。

さまざまなことはあったが、生涯現役を貫ける剣道を選んだので、今でも幸せな日々を過ごしている。そうした日々に加えて、筆者は、現在の仕事の他に、臨床心理士としてスクールカウンセラーもしてきた。スポーツカウンセラーが競技現場における臨床心理士(臨床心理学的な専門家)だとすると、スクールカウンセラーは、学校(教育)現場に機能する臨床心理の専門家である。その関わる対象は、校長、教員、保護者、生徒、事務職員、掃除をしてくれる用務員の方など――多岐にわたる。学校をつくりあげている、すべての人が関わる対象になりうるのである。

まだ経験は浅いが、現場は若いからといって許してはくれない。真剣勝負の毎日である。これは例えば、スポーツの現場で、筆者自身が崖の上に立っている時と同じような心境であり、同時に、認定スポーツカウンセラーとしてスポーツ現場に携わっている時と変わらないスタンスである。

元文化庁長官で、我が国の臨床心理学の祖といっていい河合隼雄(筆者が臨床心理学を学んだ大学院は河合隼雄系であった)は、心理臨床家の仕事として「何もしないことに全力を尽くす」と言われたそうだが、筆者はスクールカウンセラーとして、できる限り(心のエネルギーは使っても)現実的なところでの行動はしないように心掛けている。これは認定スポーツカウンセラーとしての仕事の際と変わらない。

たとえば、ある生徒の問題行動について教員から相談される時のこと、担任の先生は、生徒の問題行動をどうしたらなくせるかということで、筆者に、その対応策や解決策を求めてこられる。しかし、心理臨床家である筆者は、その生徒の問題行動によって、家庭やクラスや学校で何が起こっているのかと考える。自分自身も含めて、生徒の周囲の人々にとって、どのような意味があるのかと考えるのである。そういう視点でじっとしている。できる限り何も追加しないでそこにいるのである。しかし心の中では、もちろん、ひたすら考え続けていることも言うまでもない。

カウンセラーはしかし、「目の前に来られた人(一番困っている人)」にとっての意味を考えてゆくのだが、その意味を明らかにするのではなく、「起こったこと」に対してまっすぐ向き合っていると、自然と困っている人にとって意味あるものになってゆく、そんなふうである。ただし向きあい方はさまざまである。たとえばその人と徹底して話し合うこともある。いずれにしても、問題行動について共に考えて解決してゆくという視点とは、少々異なることになる。即ち、「困った事態」こそが、新しい展開への大切なキッカケとなると考えるので、簡単になくそうとはしないのである。

「何もしない」について、河合隼雄(1992)が心理療法の本質として『自然(じねん)モデル』で説明している。以下はその引用である。

「これはユングが中国研究者のリヒャルト・ヴィルヘルムより聞いた話として伝えられているものである。ヴィルヘルムが中国のある地方にいたとき旱魃が起こった。数ヶ月雨が降らず、祈りなどいろいろしたが無駄だった。最後に「雨降らし男」が呼ばれた。彼はそこいらに小屋をつくってくれと言い、そこに籠った。四日目に雪の嵐が生じた。村中大喜びだったが、ヴィルヘルムはその男に会って、どうしてこうなったのかを訊いた。彼は『自分の責任ではない』と言った。しかし、三日間の間何をしていたのかと問うと、『ここでは、天から与えられた秩序によって人々が生きていない。従って、すべての国が「道(タオ)」の状態にはない。自分はここにやってきたので、自分も自然の秩序に反する状態になった。そこで三日間籠って、自分が「道」の状態になるのを待った。すると自然に雨が降ってきた』というのが彼の説明であった。」

これは、河合(同)も述べるように、"因果的に物事を考え行動"しない究極の例であり、心理臨床家の基本姿勢である。河合先生のこの話は筆者からすると、もう、悟りの境地で、足下にも及ばないどころか、並べて語ることも恐れ多い。しかし、このようにカウンセラーがそこにいることと、チームが変わり成熟することが、同時に起こること、それがスポーツカウンセラーの存在の仕方であり、それが仕事であると筆者は考えている。こうした存在の仕方を目指すべく訓練されてきた心理臨床家としてのベースと、長々と継続してきた競技経験を持つ筆者だからこそ、できる仕事があるに違いない! ――などと、思い違い甚だしいと諸先輩方には笑われるかもしれないが、私はこの仕事の専門家として、少しずつでも競技の世界に恩返ししていければと願っている。