幸せになれる確率が低いのには理由がある

結婚に失敗している人の割合が5%なら、その5%の人達に問題があるのかあるいは努力が足りないのでしょう。しかし全体の半分もの人達がうまくいかないという場合、それは一人ひとりの個人に問題があるのではなく、社会のシステムやルール、常識の側が間違えていると考えるべきではないでしょうか?

現在、日本の離婚率は35%にのぼります。さらに結婚生活が事実上破綻したまま離婚せずに暮らしている人や結婚生活に解決不可能な不満を感じている人をあわせれば、少なくみても半分以上の人が結婚生活に失敗しています。

もし結婚に失敗している人の割合が5%なら、その5%の人達に問題があるのかあるいは努力が足りないのでしょう。しかし全体の半分もの人達がうまくいかないという場合、それは一人ひとりの個人に問題があるのではなく、社会のシステムやルール、常識の側が間違えていると考えるべきではないでしょうか?

現在の結婚制度には、そもそも人間の自然な欲求からずれている部分や世の中の変化についていけていない部分が多くあります。なぜ、そんな制度が作られたのでしょうか?そしてなぜ、そんな制度をムリに維持しているのでしょうか?

かつての民主的でない社会では、世の中のルールの多くは権力者の側の都合でつくられました。

たとえば封建制の社会では、ルールをつくる側の一番の目的はできるだけ多くの税を集めることでした。そのためには平和で安定した社会と一人でも多くの納税する人間が必要でした。

徴税と犯罪防止のためには正確な戸籍がなにより必要でした。戸籍があれば誰が犯罪者なのかが分かりやすいですから犯人を捕まえやすいですし、捕まる確率が高いと思えば罪を犯す人も少なくなります。戸籍があれば納税者の人数や居場所を正確に把握することができるので、税金を取り損ねることも少なくなります。

さて、戸籍を作るためには誰が誰の子なのかが分からなければいけません。一人の男があちこちの女性に子供を産ませていたり、女性が父親の分からない子供を産んでいたり、産まれた子供がどこに行ったのか分からなかったり生きているのかすら分からなかったりすると戸籍はつくれません。そこで封建時代のヨーロッパの権力者は宗教を利用して倫理観を説きました。一組の男女が一生連れ添うのが人間の正しい姿なのだとする宗教や宗派を使って国民にそう思いこませたのです。これは最初から権力者の都合でつくられたルールであって、一人ひとりの幸せのためにつくられたルールではありません。封建制の社会では、多くの分野で、国民一人ひとりの幸せよりも社会全体の安定を優先して社会のルールや倫理感、常識、礼儀などがつくられました。

より安定した社会を築くために封建時代の権力者は人間本来の生理的欲求とか自然な願望とかを無視して、まず理想的な人間像を人工的につくり出しその理想的な人間像を前提にルールをつくります。彼等が悪魔的に巧みだったのは人間が思い描く「自分自身の理想的な姿」を利用した点です。人は誰しも、より理想的な人間でありたいと願う真面目な気持ちを多かれ少なかれ持っています。たとえば世の中の男性は、女性を本気で口説く時にはこの女性を永遠に大切にしたいと思っていますし本当に永遠に大切にできればいいのになという願望も持っています。現実には一人の女性を同じテンションで愛し続けることは不可能なのですが、現実ではなく願望の方を基礎に社会のルールがつくられてしまったのです。結果的に多くの人が理想通りには生きられない自分に苦しみます。家庭を心から大切に思っていない自分に苦しみ、家族に心から大切に思われていないことを悲しみます。多くの人が不可能なルールに従って苦しみながら生きていくかわりに、犯罪が少なくて税を集めやすい社会をつくることができたのです。

時代は変わり、民主主義の世の中になりましたが社会のシステムは封建時代から大きくは変わっていません。そもそも「一人の異性を愛し続けるのが人間の正しい姿である」というフィクションは支配者のためには役に立ちますが、個人個人が幸せを追求する上では役に立ちません。それどころか自分本来の欲求とでっちあげられた正義との歪み(ひずみ)の中で苦しみながら生きていかねばなりません。

同様に、施政者が社会の秩序を保つために用いた「常識」「倫理」「道徳」などにも同様の側面があります。これらは時代が変わっても完全に意義を失うことはなく、秩序ある社会を維持するためには必要な物ではあります。しかし、これらもまた個人個人が幸せを追求するためには何ら役に立ちません。もしあなたがひたすら真面目に常識を守っても、その先に幸せが待っている可能性は極めて低いでしょう、なぜなら常識と幸せの間には最初から何の関係もないからです。常識は社会の秩序を維持するための道具であって、一人ひとりの人間を幸せにするための装置ではありません。

ヨーロッパの一部で人々が民主主義を選択してからすでに数百年がたちました。その間、社会は大きく変わり続けているにもかかわらず、現代の社会にあわせた「個々の幸せの追求のためのルールや常識、社会システム」はつくられていません。あいかわらず封建時代につくられた古い制度や古い常識を使い続けています。日本は明治維新あたりからヨーロッパの生活様式を取り入れましたが、その際にも封建時代につくられた古い常識やルールと民主国家として必要な新しい常識やルールとをごちゃまぜにして受け入れてしまいました。

残す必要のない制度は破壊して新しい制度をつくらねばならないのですが、古くて役に立っていないルールが「伝統」という価値あるものと勘違いされることが少なくないため今日まで維持されてしまっています。

当然のことですが、現代の社会には現代の社会特有の状況があり、その状況にあわせた新しい生活様式が必要となります。現代の社会で昔の社会のルールを使い続けるよりも、現代の社会に適したルールを新しくつくった方がよいことは疑う余地もありません。伝統を守ろうとする人は変化を避けたがりますが、残すべきものと変えるべきものを切り分けようともせずにすべて守ろうとするのは賢明な行為とは言えません。

現代の日本では、離婚した人も、バラバラに暮らす家族も、父親から認知されていない子供も、納税者として把握することができます。警察には科学的捜査で犯罪者を逮捕する能力があります。にもかかわらず国民はいまだに「一人の配偶者を愛し続けるのが人間の正しい姿である」とか「家族というのは仲睦まじく暮らすものでなくてはならない」といったフィクションを押しつけられながら生きています。今も封建時代に権力者の都合でつくられたルールを守り続けています。誰の幸せにもつながらないルールを伝統としてあるいは常識として維持してしまっているのです。

封建時代には個人の幸せよりも社会の安定をより重要なものとして社会の制度がつくられました。現代の社会でももちろん社会の安定は大切なことなのですが、一人ひとりの人間が幸せを追求する権利も重要のものとして認められつつあります。しかし個々の人間が自分の欲求や願望を叶えやすい社会にはなっていません。理想的な人間になり理想的な家族を獲得した時にしか幸せを感じられないのであれば、世の中の人間の大半が不幸だと感じねばなりません。我々はそろそろ現実的な幸せとはどういうことなのかを正直に見つめなおさなくてはいけませんし、個々人の幸せの追求に適した社会システムをつくらねばなりません。

あなたはどう思いますか?

ふとい眼鏡の電子書籍

愛というストレス、幸せという強迫」(アマゾン Kindleストア)

(2014年12月9日「誰かが言わねば」より転載)

注目記事