エフゲニー・モロゾフ氏によるネットの未来とプライバシー(4)

警察はビッグデータから利を得ている。犯罪をリアルタイムで見つけ、事前に行動を起こすことが可能になっている。問題はアルゴリズムが客観的とみなされていることや、透明性に欠く点だ。

ジャーナリスト、リサーチャー、作家エフゲニー・モロゾフ氏の本「すべてを解決するには、ここをクリックしてください -テクノロジー、解決主義、存在しない問題を解決しようとする欲望」から、その一部を紹介する。今回はビッグデータの取り扱いやセルフトラッキングについて疑問を呈する。(次回は最終回。)

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第6章 犯罪をより少なく、もっと処罰を

警察はビッグデータから利を得ている。犯罪をリアルタイムで見つけ、事前に行動を起こすことが可能になっている。

問題はアルゴリズムが客観的とみなされていることや、透明性に欠く点だ。

アマゾンのアルゴリズムはまったく不透明で、外部からの詮索がない。アマゾンは競争力を維持するために機密が必要だという。しかし、警察活動はどうだろうか。

警察活動のソフトウェアは民間企業が作っている場合が多く、どんな偏見が入っているかを検証できない。

アルゴリズムに偏見は入らないのだろうか?犯罪は貧しく、移民が多いところで起きる。アルゴリズムに人種によるプロファイリングは入っていないのか?路上尋問で、アルゴリズムがそう言ったからとして、尋問の理由付けに使われないだろうか?法廷での位置付けはどうなるのだろう?

予防アルゴリズムは、将来の犯罪を予測しているのではなく、現在の状況を基にして将来に発生するかもしれない可能性のモデルを示す。

アルゴリズムが私たちの生活にどんどん入っているので、資格を持った、かつ公的な第3者によって定期的に検証されることが必要なのではないか?

警察は個人のプライバシー情報にアクセスするとき、逮捕状が必要になるが、Facebookなどは顧客情報を見るだけでよい。警察からすれば、Facebookが汚い仕事をやってくれるので助かる。

ソーシャルメディアは、どの程度まで実際に警察と情報を共有しているのかを公開するべきだ。

今は Facebookやイェルプを使えば、ほしいものを入手できる。合理的選択論が基にあるので、Facebookのアプリが歓迎される。評価=レピュテーションを作れば、差別がおきにくくなるという人もいる。しかし、完全のマッチングには恐ろしさもある。似たもの同士ばかりの世界に入り込む。社会を前進させるための冒険を除外する。

情報社会化がどんどん進んでいる、「私たちはこのテクノロジーの世界を変えられない」-こんな感情が広く存在している。しかし、これは「デジタルの敗北主義」ではないか。

技術が自動的な力であるとする考えは昔からあった。1978年にはランドガン・ウイナーが「Autonomous Technology」を書き、 Kevin Kelly は「What Technology Wants」を書いた。ケリーはテクノロジー雑誌「ワイアード」の最初の編集長だった。ケリーの本はインターネット至上主義者に知的な理由付けを与えた。

ケリーはテクノロジーを進化としてみる。テクノロジーが自然であり、自然がテクノロジーなのだ、と。こういわれたら誰も反論できない。「テクノロジーに耳を傾ければ、パズルが解ける」、とケリーはいった。テクノロジーには語るべきストーリーがあり、私たちができるのは耳を傾けること。そして、政治および経済上の予測をこれによって変えることだと。

しかし、なぜそうする必要があるのだろう?Facebookもグーグルも規制できるのに、なぜ私たちのプライバシーについての概念を変えなければならないのだろう。どこまで私たちは考えを変えるべきなのか?その「声」とはシリコンバレーの広報部の声だったらどうするのか。

私は、テクノロジー自体は何も欲していないと思う。インターネットも、だ。

テクノロジーの発展を止められないという敗北主義が抵抗の力や改革・変革を求める道を隠してしまう。テクノロジーは進展するので、人間はこれに合わせるしかないという考え方はいかがなものか。

19世紀、カメラが市場に出ると、人々はプライバシーの侵害だと思った。今はみんながカメラに慣れている。こういうことがネットでも起きるという説があるが、本当だろうか。

昔、産業化で町が騒音でいっぱいになった。これに対し、反騒音運動が起き、1934年、これを反映する道路交通法ができた。インターネットでもできないだろうか。

シリコンバレーの世界観から離れ、個々の新しいテクノロジーを検証してはどうか。たとえば顔の認証、バイオメトリックの技術の採用など。

欧米の消費者は、このシステムが中国やイランでは異端者をとらえるソフトにもなることも考えるべきだろう。

新たなテクノロジーを拒否するつもりではない。ただ、もっと問いかけをしてもいいのではないか。本当に有効なのか、逆に問題を複雑にしただけではないのか、と。

第7章 ガルトンのアイフォーン

「データセクシュアルな人々」という考え方がある。個人データに熱中する人々だ。今はスマホをみんながもっているので、自分の行動を細かくトラッキングできる。歯磨きや睡眠時間を記録する人もいる。自分の生活をデジタルに記録する。こういう人は昔からいた。

オンラインの評判を守るにはお金を払うサービスを提供するのがReputation.comだ。金融危機後、評判を守るために銀行家たちは高額を費やした。

しかし、お金を払えない人はどうするのか。二極化になるのだろうか。お金のある人は評判をクリーンアップでき、そうではない人は守れない。オンライン上の評判を気にさせる、心配にさせることをビジネスとするコンサルタントたちがいる。実はそんなことよりも、もっと緊急に心配するべき問題があるかもしれないのに。

個人のデータ売買を商売する起業家たちが出てきている。Digital locker, Personal.comなど。後者では個人がデータをキュレートし、自分が選ぶマーケターに情報を出したり、関連する広告を出す。ディスカウントを得たり、好きなブランド情報を出し、そのブランドが売れたら、品物の価格の5-15%を得る。これを「すべての人が勝つ」などといっていいのかどうか。

デジタルロッカーにはエンパワーメントの意味があるのだろうが、すべてを語っていない。それは、消費者に力を与える唯一の方法が自己の情報をもっと出すことだと考えさせている点だ。

私が自分の情報を出すことで、状況が変わってくる。私が健康情報を出し、あなたが出さないとしたら、あなたには何か隠すものがあると思われる。誰かが情報を出すと、その社会のほかの人も情報を出さざるを得なくなる。

例えば、米国では携帯電話の情報を出さない人を潜在的テロリストとみなす。Facebookにアカウントがあるなしで不審と思われるところまできている。

セルフトラッキングの普及はプライバシーの露出につながる。情報は私たちの「個人的な目論見書」になる。これを通じて、すべて(市民、社会、公的組織)とつながる。健康でお金もあるなら、楽しいかもしれないが、そうでない場合、人生は困難になる。

セルフトラッキングの倫理について議論が必要だ。数で測ればこぼれ落ちる才能・職がある。芸術、学問、作家など。数は少なくても、リスクがあってもやることが少なくなるとしたら残念だ。

ヤフーCEOのメリッサ・マイヤーズは、「文脈上の発見」を目指すといった。利用者が聞く前にサーチエンジンが答えを与える。

グーグルのシュミット会長は、ベルリンの通りを歩いているうちに検索が進み、情報を与えてくれる。これが次の検索だと。自分が知らないことでも、面白そうな興味がありそうなことが広がっている。つまり、自主的な(autonomous)検索だ。勝手に調べて教えてくれる。例えば、グーグルのメガネをかけていて、気分が沈んでいたら、ルーベンスの絵を見せてくれる。気持ちが明るくなる、と。

自主的な検索には、自主的な広告が出てくるに違いない。探さなくてもよい。見つけてくれるからだ。「このレストランがお勧めだ」と。

しかし、これは究極の消費者主義ではないだろうか。(続く)

(2014年1月11日の「小林恭子の英国メディア・ウオッチ」より転載)

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