長谷川豊氏ブログ記事への世論の反応について

日本の高所得者層・リーダー層を中心に「新自由主義的な思想」が浸透しすぎたのではないか、歯止めとなるべき社会規範が弱かったのではないかと考えています。

フリーアナウンサーの長谷川豊氏が発表されたブログ記事

『自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!』

に対し、多くの非難の声が上がっています。

今回の状況を「炎上」と表現する向きもありますが、この言葉に「賛否両論含め、活発な議論が提起された」という意味が含まれるのだとすれば、私自身はこの表現に違和感を覚えます。

長谷川氏の記事を掲載(転載)していたニュースサイトBLOGOSは掲載の3日後、サイトから記事を削除するという判断を下しました。

言論プラットフォームとしての役割を担う立場としては、重大な事実誤認などの理由を除き、なるべく介入は避けたいところだったと思います。

BLOGOSは記事削除の理由について

『BLOGOSは可能な限り多様な意見を掲載し、議論のきっかけとなる場づくりを目指し運用しておりますが、誹謗中傷・公序良俗に反すると捉えられかねない表現、事実とは異なる可能性のある内容を掲載・拡散させてしまうことは、もとより本意ではありません。』

とコメントしています。

直接的には、「殺せ!」といった長谷川氏の過激な表現が削除理由ということになるのでしょうが、ネット上にみられる多くのコメントを読むにつけ、もっと穏当な表現であったとしても、世論の受け取り方はそう変わらなかったのではないかと感じます。

年金、医療や介護、子育て支援、失業者の救済といった「社会保障」について語る際、その理念を前提とせず、議論することはできません。

社会保障の理念の中で、代表的なものは『社会による包摂』、つまり

『貧困や失業、健康不安により社会から結果的に排除される人々を、再び社会の関係性に引き入れよう。どのような立場や状況にあろうとも居場所と役割があり、互いの存在意義を認め、尊重しよう』

とする概念です。そして実際に、この理念に力を与えているのが、社会に共有される「人権意識」や「倫理観」であるといえます。

学問的に、あるいは教養として、体系的にこれを理解しようとするならば、ジョン・ロールズやアマルティア・センに代表される「正義論」、アダム・スミスからケインズ、ベヴァリッジ、次いでフリードマン、スティグリッツといった「経済学の潮流の変化」や、これらに伴う思想や倫理について学ぶ必要があるのかもしれません。

しかしながら、そういった手順を踏むまでもなく、社会保障制度に通底する「利他の精神」や「助け合い」、「連帯」といった精神は、地域で、あるいは親から子、子から孫へと(日本であれば仏教的な価値観、欧米であればキリスト教の教義を伴って)連綿と受け継がれています。

つまり、長谷川氏の論考に対し、個々の問題点について明確に指摘しづらいとしても、

「この人の意見はもう、聞きたくない」

「長谷川氏が提起する議論には、乗る必要がない」

といった意見が多くみられたのは、世論として正当な反応なのだろうと私は感じました。

個人的な印象としては、日本が戦後、経済大国の仲間入りをする過程で、核家族の増加や長時間労働に伴う世代間の交流の減少があり、また経済的な成功こそが人間としての成熟だとする誤った理解が広がる中で、日本の高所得者層・リーダー層を中心に「新自由主義的な思想」(自由放任・規制緩和・自己責任・小さな政府を志向)が浸透しすぎたのではないか、歯止めとなるべき社会規範が弱かったのではないかと考えています。

収入や社会的地位が高いほど、こうした思想に染まりやすいとされますが、日本のリーダー層や制度設計担当者、マスメディアに広がるのは非常に危険です。

日本では政府系の会議に企業経営者が「有識者」として招聘されがちでもあり、こういった思想に対し、その都度、強い口調で拒否の意向を示すことが必要なのかもしれません。

ちなみに、新自由主義的経済学の代表格とされるミルトン・フリードマンは、

「麻薬をやる人は、麻薬をやったときの快楽と、麻薬中毒になったときの苦しみとを比較して、麻薬をやったときの快楽の方が大きいと自ら合理的に判断して、麻薬をやっているのだ。決して、麻薬を規制して、個人の選択の自由を制限してはいけない」

という発言でも有名です。通常、同意することのできない主張だと思います。

また今回の騒動に関しては、もう一点指摘しておくべき問題があります。

長谷川氏の持論形成の根拠となった「多くの医師」の問題です。長谷川氏のブログでは「多くのお医者さん」が持つ印象として、

「はっきり言って大半の患者は自業自得」

「患者さん?お金にしか見えないですね」

「まー、人工透析を見てると、日本の未来はないってよくわかるwwww」

等と記述されています。実際、長谷川氏は若手医師らによる社団法人の理事も務めており、「数人の医師による特異な意見」ということでもないのでしょう。

これまで拙文において繰り返し言及してきたように、日本の医療制度に関する厚労省での議論は、政治力を駆使して「権限と金」を奪い合うパワーゲームであり、多くの場合、医師会が勝利してきました。

問題のある医師を牽制すべき薬剤師の機能は事実上骨抜きにされ、医療費削減のための職能間のスキルミックスも一切拒否したまま、超高齢化社会を乗り切るとしています。

市販薬においては「医療ではない」という観点から市場化され、ほぼ完全に自己責任の分野とされました。「セルフメディケーションの推進」は医療者による介入を保つためではなく、専ら利便性の向上と市場活性化を目的としてします。これも諸外国には見られない特徴です。

つまり、そもそも医療業界自体が「正しいかどうか」ではなく、「弱肉強食」の論理で動いている訳です。

残念ながら、医師会が主張する「優秀な人材を集めるため」として設定された高い収入と強い権限は一方で、「勝ち組資格」を求める自己責任論者を集めているのかもしれないと感じます。

そもそも診療報酬制度では、モラルのない医師が不適切、あるいは過剰な検査や処置、投薬をすることを想定しておらず、十分なチェック機能はありません。

上記のような不心得な医師(もっとも主義主張の違いですから、それが正義だという立場なのでしょう)がごく一部であり、医師たちによる自浄作用によって解決するのであれば問題はないのでしょう。

ただ、もしそうではないのだとすれば、(医療制度は複雑であり、疑問や批判を呈しにくいからこそ)国民の不満は今後も鬱積し続けるのではないか、週刊誌などに見られる医療不信はその兆候なのではないかと心配になります。

本当に現在の方針のまま、今後の超高齢化社会を乗り切ろうとするのか、それで国民からの信頼を保ち続けることはできるのか、この問題意識自体は、私も長谷川氏と同じです。

それだけに、医療の倫理観やこれまでの議論の蓄積を踏まえない乱暴な問題提起は控えて頂きたい、厚労省や各職能団体、議論に関わる有識者の方々には誠実な態度と見識をもって制度設計に臨んで頂きたい、そのように願っています。

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