WELQ問題が示唆する「便利な社会」の落とし穴

問題の指摘から議論の提起、世論形成に至るまでの動きが非常に速やかであったという意味では、ネットの美点が発揮されたというべきかもしれません。

DeNAが提供する健康情報メディアWELQが、適切ではない医療情報が多数投稿されていたなど、複数の問題があるとして批判を浴びました。同社はこれを受け、サイトを非公開化するとともに、CEOの守安氏が謝罪のコメントを発表しています。

WELQでは今後、速やかに医師や薬剤師など専門家による監修体制を整え、医学的根拠に基づく監修が必要な記事においては監修を行い、編集部名義で記事を掲載していく方針とのことです。

DeNAがIT企業であったことからネットメディアの信頼性を問う意見もありますが、新聞やTV、雑誌といった旧来メディアにおいても不誠実な医療・健康情報は多数見られます。今回のWELQ騒動に関し、問題の指摘から議論の提起、世論形成に至るまでの動きが非常に速やかであったという意味では、ネットの美点が発揮されたというべきかもしれません。

関連する多くの報道がある中で、日経新聞は記事「DeNA、遠い信頼 暴走するキュレーションメディア」において、WELQの前身であった医療情報サイト「メドエッジ」の挫折について指摘しています。

メドエッジでは、専門誌で活躍した敏腕記者を編集長に、医療情報の監修には大学教授を据え好評を博したものの、広告収入を稼ぐには月100万人の読者は圧倒的に少なかった。収益化のため有料化を模索したものの失敗に終わり、WELQに衣替えするに至った、といった内容でした。

この指摘が、問題の本質を突いているのだろうと思います。

「適切な医療情報」を追い求めたとして、その多くは読者の驚きや興味を引くものではありません。SEO対策にかなう大量の記事や文字数、文中に織り込むべきキーワードといった、ネット企業が追求すべきマネタイズの手法もまた、多くの場合「誠実な医療情報」とは矛盾するものです。

サービスの利用者は安価(もしくは無料)で良質であることを求め、提供側はコストをかけず最大の経済的利益が得られるよう工夫します。ある意味で、市場社会の宿命といえるのかもしれません。

今後、WELQが誠実で倫理的な医療情報メディアに生まれ変わるのか、さらには他のネットメディアや旧来メディアの医療情報の清廉性が高まるのかといえば、そう簡単ではないと指摘せざるを得ません。冒頭で触れたWELQの改善案を一読しただけでも、各々の記事について監修した医師や薬剤師が氏名・所属を明らかにせず、どの程度の質が担保されるのか、そもそも監修が必要な記事であるかどうかを、誰がどのように判断するのかといった疑問が残ります。

厚労省などの公的機関による情報提供には、当然のことながら、税金が投入されています。NHKが提供する「きょうの健康」が、面白おかしくはないものの医療情報として誤りがなく「方向性についても適切」である一方、民放のTV番組や新聞、雑誌等のメディアが提供する医療特集においては、情報に誤りがないにも関わらず、「不適切な方向性」がしばしば提示されるのは、両者の立場や姿勢に決定的な違いがあるからに他なりません。

誠実な企業活動を導くためには、世論やメディアによる監視が欠かせません。その一方で、市場が問題を解決するとは限らない、特に医療のような専門性の高い分野においては、様々な工夫をこらしてもなお、最終的に問題が解決しない可能性もあるということを、頭の片隅に置いておく必要があると思います。

そしてもう一点、たとえ医療情報が誠実で正しいものであったとしても、それは個別の状況や病状に対応しているとは限らず、患者(購入者)と医療者の関係性を代替するものではないことについて、改めて指摘しておきたいと思います。

インターネット上には、医師や薬剤師といった有資格者が安価で相談に応じてくれるサービスも数多く存在します。こういったサービスには「正確性や安全性を保障するものではなく、発生した損害において責任を負わない」といった但し書きが付されています。医療者が、相談者に対し責任を負えるだけの見解やコメントを発するためには、多くの場合、検査や診察が必要であり、例えそういった直接的な行為を必要としない場合であっても、追加の質問や状況・病歴の把握といった双方向のやり取りを要します。

煩雑な手間やそこに伴うコスト、相談者が提示する情報では不十分かもしれないといった懸念、それらを省く代わりに医療者も責任を負わない。それでも、多忙で医療機関を受診できなかったり、受診を要するかどうか自己判断するための参考としたい、かかりつけの医師や薬剤師といった相談先を持たない利用者にとっては役立つはずだ、という訳です。

市販薬の販売においても、業界は大きく変わりました。消費者のニーズに合わせ低価格化を追求し、消費者に直接訴求する魅力的な(必ずしも「医学的に望ましい」と同義ではありません)商品開発を進めた結果、多くのドラッグストアでは薬剤師が常駐することもなくなり、説明書のような一般的な情報の提供と、薬剤師や登録販売者が提供すべき個別の介入の区別についても、意識されることは少なくなりました。

こうした変化の根拠となった「薬剤師は状況を踏まえた助言や判断を提示する義務と責任を負う一方で、購入者はそういった薬剤師の介入を拒否することができる」という元々の法解釈を、購入者だけではなく、もはや厚労省関係者や医療関係者までもがイメージしづらくなっています。

元々、医師や薬剤師は、診療あるいは医薬品の調剤・販売に際して、患者(または購入者)への責任を(道義的に、また法的にも)負っています。個々の事例や状況に応じた、しかも現代の医療水準に見合う治療や助言を行う義務があるということです。

便利で自由な社会を追い求め、その先には必ず解決策があると錯覚しているうちに、「健康という普遍的な価値を守るためには安全性・確実性を担保する必要があり、医療者はそこに責任を負う必要がある」という、本来重視していたはずの基本的な価値観に対する認識が希薄になっている、いつの間にか信頼感に欠ける社会が当たり前になってしまっていたというのは、何とも皮肉なものだと感じます。

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