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「努力」できないあなたへ

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「努力」というものについて、私見を述べてみたい。

前回の私のブログの才能の話は、「継続的努力は先天的才能を凌駕する」だった。
特に先天的な才能にはピークがあり、必ず時間の経過と共に衰弱していく性質がある。後天的な努力によって目覚める才能は、ピークアウトせずに生涯成長する可能性がある。
だから、時間をかけて継続的な努力をすれば、多くは生まれつきの才能の弱さなど克服できるのだ。
という話を書いた。

こういう書き方をすると、必ず「努力するのも才能がいるでしょ!」という意見がある。
世の中には"ああ言えば、こう言う"タイプの人が多いが、結論から言うとこうだ。

努力に才能が必要と考えている人は、生涯、浮かばれない。

人間は呼吸が苦しくなれば、自然に呼吸数を増やす。
空腹になれば、これまた本気で食料を捜し求める。
人を好きになれば、その人の気を引くために必死になり、いつも意識を向けている。

自分さえその気になれば、いつでも努力は発露される。

そのための才能はほとんど全ての人に与えられている。
だから才能など、ほとんど関係ない。

努力をするために人間に必要なのは、体力、知力、そして感情のコントロール。

これらの才能は多かれ少なかれ全ての人に与えられている。
知力・体力が自分は少ないというならば、幼児は努力はできないことになる。
しかし、立派に努力する幼児たちを私たちはすぐに目撃できる。

その目的にあった体力や知力を少しづつ付けていけばいいのだ。

私は手術を24時間でもやることがある。
一方、いくら体力があるプロのアスリート、たとえば野球の選手が手術を24時間やれば疲れてぐったりするだろう。それ専門の体力を持っていないからだ。その逆も真なり。知力・体力は、積み重ねの延長線上に増強されてくる。

外科医として出来上がった私を見て、多くの人は、私には才能があった。医者という職業に私がいつも魅了され、外科医の手術にいつも情熱をもって向き合っていた。だから続けることができた。と、考えるだろう。
その結果、今があるのだと。

しかし、それは誤解である。
私は始めの頃、外科の手術に興味はなかったし、毎日深夜まで付き合わされる手術現場にウンザリしていた。早く手術が終わらないだろうかといつも思っていた。内科の研修をしているときも、その終了の日を指折り数えて待っていた。

そんな人間でも、いつも何とか自分の感情に折り合いをつけ、現状に妥協しながら、来る日も来る日も医療現場に立ち続けた。
そして、今がある。

日々を振り返ると一生懸命にやった時期もある。
そんな時は、努力しているなどとは少しも思わなかった。子どもの様に、ただ「医療している」ことが楽しかった。そしておそらくそんな時期が一番、医療者としても能力が伸びた時期だった。
大きくスランプに陥り、あるいは、やる気が全く失せ、とても人様に見せることができないような時期もあった。
こんな時は、努力というに相応しい努力などできるはずもなく、惨めなものだった。

私の医者としての能力を認め、外科医としての才能に恵まれたのだと評価してくれる人々がたくさんいる。
絶え間ない努力を積み重ね、今の次元に立てたのだと思ってくれている。

しかし、正直な答えは"ノー"なのだ。

私はいつも、怠け者で手を抜きたがり、すぐに休みたがる。
自分に甘く、すぐに現状に妥協する。
そんな自分に何とか折り合いをつけながら、励ましながら、前に進み、継続してきたに過ぎない。

これを努力というのか?
こんなに妥協だらけの私に天は努力という才能を人より与えてくれているか?

私は、そんな怠け者の自分を能動的に動かせないから、他人に動かしてもらおうと、いつもそういう環境に自分を移してやってきた。

やる気がおきない。
すぐに飽きる。
長く続かない。
挙句に、才能がないからできない、続かない。

「では、そこで一生、停滞していて下さい。」としか私には言えない。

 
 
自分で理屈をつけて、今いる場所から一向に動かないから、知らぬ間に、目に見えない糸が自分を取り巻く空間にも時間軸にも張り付いて、人生が時空に固定されていく。そして、その動けなくなった自分が評論家のような顔をしてこう呟くのだ。「努力するのにも才能が必要だ。」

飢餓になれば、人は必死に食べ物を求める。朝から晩まで探し続ける。
クタクタになり一日を終わることだろう。
そして次の日も、その次の日も、食べ物を探す。飽きもせず、生きている限りはずっと探すことだろう。
それを努力しているというか?
才能がないから、探せないといって動かずにそこで死ねるのか?
本気の努力とは本来そんなものだ。理屈でするものではないのだ。

だから理屈で、才能だの、やる気だのと自分の安全圏から言っている間は永遠に努力は発露しない。こんなぬるい社会にいて、安全な場所に存在しているからそういう思考になる。

今後この社会がもっと殺伐とし、やがて自分が安全な場所にはいないと悟ったとき、その人たちの努力は自然に始まるだろう。
自分の存在が、何らかの形で脅かされたときに、「努力を!」などと意識せずともアタリマエにそう行動しているだろう。
それまで、今いる場所で糸に絡まれながらじっとしていればいい。

でも、もし、あなたが少しでもその糸を緩めたいと思うならば、あなたが取るべき行動は明確だ。
外敵がいる場所に移動すればいい。
あなたにとって、居心地が少し悪い場所に移ればいい。
経験したこともない場所に移動すればいい。
 
少なくとも私はそうして、いやでも他人に私の中の生きる気力を刺激してもらってやってきた。

やる気がなれば、文句を言われる。
長続きしなければ、怒られる。
それでもなかなか逃げられない場所に、自分を自らの手で持っていくしかない。

あとは、のらりくらりと何とか自分と折り合いを付けながら、時間をかけて継続した先に、
きっとあなたの陽のあたる場所がある。

 
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