「この子のために、お金をください。」海外の道端で施しを求められた。何が正解?

私の経験上、一般の人たちはお金を与えてその子どもを助けようとする人たちが多い。

ある日、ある貧しい国で目の前に病気の子どもを小脇に抱え女性が現れる。

日本人の自分を見つけ、あなたの国は豊かな国なので、この子のために治療費を出してくれとせがむ。

あなたはその国の生活環境改善の任務を得て赴任している。

その国の劣悪な生活環境は、小手先のテクニックだけではとても改善されるわけもなく、何かしら抜本的な取り組みを始めなければ同じことが繰り返される。

そのとき、あなたはその女性にお金を与えその子を助けようとするだろうか?

それとも、お金を与えずにその場を立ち去るだろうか?

もちろんそんな試みでその子が助かったとしても、この国の現状には全く影響などない。

私の経験上、一般の人たちはお金を与えてその子どもを助けようとする人たちが多い。

逆に、いわゆる政府機関などで公衆衛生の大きなプロジェクトに関わる人間は、与えないことが多いような気がする。

絶対はないにしても、より好ましい回答というのはないのだろうか?

私ならばどっちの行動を取るのだろうか?

国際協力に関わってから22年目になるが、昔も今も私の答えは変わっていない。

私ならば、迷わず、お金を与える。

22年前、本当に劣悪な状況のミャンマーで医者として働き始めた頃、国際機関で働く多くの日本人から言われたのは、「ちまちま一人ひとりを助けていても仕方ないから、多くの人を一度に助けませんか?」という話ばかりだった。

私のような患者一人ひとりと取り組む作業は、かなりの批判的な意見を受けたものだった。

しかし、当時も今も、日本でも医療を行う医者というのは、それこそちまちまと、患者たちの病と日本全土で格闘している。なぜ、日本でも行われている行為を、途上国で行おうとすると批判されるのか?

私は理解に苦しんだ。そして彼らの考えに一種の違和感を感じたのだ。だから自分が正しいと思う医療活動を行い続けてきて今に至る。

最近思い返してみてわかることは、彼らは各論と総論を混同していたのではないのか、ということだ。

同じコンセプトでも各論と総論は全く、見える景色が違ってくるということだ。

いくつか例を挙げると、ポリオという病気の予防接種が日本で毎年行われている。これは生ワクチンを使うので、その予防接種によってポリオにかかってしまう子どもが必ずわずかなパーセンテージ存在する。

その子どもは、おそらく予防接種などしなければ生涯、ポリオにかからなかった可能性は十分ある子どもかもしれない。

その子どもの人生にフォーカスしてみると、予防接種がなければよかったということになる。各論的には。

ところが、もし予防接種を行わなければ、多くの子どもたちが毎年ポリオに罹患し苦しむことになる。だから総論的にはポリオの予防接種は行われるべきものとして扱われている。

車や飛行機の実用化も、事故で死んだ人間や家族にとっては各論的にはなかったほうが良かったものだ。

ルーズベルトやトルーマンが原爆を日本に投下したが、大きな航空写真や風景だけでなく、一人ひとり焼けただれて死んでいった人たちをリアルタイムで見せ付けられたとしたら、もう既に数人で彼らはその計画をギブアップしたと信じたい。

各論と総論は風景が違う。

全く逆の局面が見えることもしばしばある。そのことを理解しなければならない。

大切なのは、総論の思考で各論を扱わないことだ。

政治家が、国全体を良くすると信じる政策を行うとき必ず犠牲になる人々が存在する。

それに振り回されてその政策をやめてしまうと、多くの人々が苦しむことになる。

しかし、その犠牲になっている人々を無視したときに政治家としては死んでいく。

必ずその人々の声に耳を傾け、個別に救う試みをしなければならない。

その個別の試みは決して全体に影響など与えないだろうが。

人は総論的な事柄を推し進めようとする時、必ず各論的な視点を強く意識なければ、道を間違うことになる。

その視点さえあれば、原爆投下などという人類の愚考など行われることなどなかったのだ。

日本社会でマイノリティーの声に耳を傾ける大切さもここにある。

各論に目を向ける意識は、大きな過ちを防ぐセーフティーボックスになるのだ。

だから私はその女性にお金を与え、その病気の子どもを助けようとするだろう。

一人の母親の声に耳を傾けて取り組めない人間が、大きな事柄をなそうとすると既に危険領域に踏み込んでいることになる。

ましてや、その病気の子どもの運命とその国の生活環境は、時間スパンが違うので、全く結果に影響しないのに。

そして、自分の医療を振り返ると、医者になった動機は、やはり各論的に一人ひとりの患者に関わり助けることができればということだった。

その国の医療を良くしようとか、日本の医療レベルを上げようとかそんな気持ちは微塵もなかった。

はじめからあったのは、ひたすら患者のために働く自分の姿だけだった。

それを今も、ひたすら繰り返しているだけなのだ。

私の医療活動。

ジャパンハートの医療活動は、各論をひたすら愚直に繰り返す医療活動であろうと。

患者一人ひとりの人生を考える医療であろうと思う。

現地の医療者を育てることが一番、患者のためになるのならばそうしよう。

そうでなければ、それはしない。

それは総論的に理屈で良いからではなく、それが各論的に患者のためになるのならばそうするというだけだ。

だから政治を変えろという提言もしない。それはそれでやる人たちがいる。

その人たちに任せればいい。

私たちはどんな時代になっても、どんな状況でもひたすら患者個人の人生に関わり続けよう。

それがこの活動に関わる多くの人々の動機であったし、今も私たちの唯一の共通した志となる。

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