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天皇と国民とメディア

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天皇については、日本国憲法の第1条にこう書かれている。

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

この内容に関連して、今上天皇が昨日のビデオ映像で以下のように語られていた。

天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。

憲法には、天皇が日本国の象徴、そして日本国民統合の象徴「である」ことが書かれている。

しかし、この言葉で語られていることは、今上天皇が、天皇として、憲法に書かれている通りの日本国及び日本国民統合の象徴「になる」ために、これまでの約28年間心血を注いでこられたということだろうと思う。

そして、今上天皇が、天皇として、「になる」の契機が常にすでに必要だと考えられているとすれば、その理由、それは天皇が日本国及び日本国民統合の象徴「である」こと自体が、「主権の存する日本国民の総意に基く」ため、常にすでに日本国民の総意を更新し続ける必要があると考えられているからではないだろうか。

では、そもそも天皇自体の必要性、皇室自体の必要性を私たちはどのように理解してきたのだろうか。

日本国憲法の成立とともに民主主義国家として新たなスタートを切った日本、政教分離を掲げたその戦後日本の中心に、「国民のために祈る存在」としての天皇が国家及び国民統合の象徴として存在するということ。

よく言われる通り、天皇という制度には人権という観点から見た場合に大きな問題があり、今回の今上天皇からのメッセージもまさにそのことを問題として考えざるを得ない状況について改めて直視を迫るものであった。

こうした「象徴天皇制と民主主義の合成」というある種の矛盾を孕んだ構成を戦後日本が選択した理由は、敗戦後の日本人が安定した秩序を構築するために、国民統合のために必要だったからということに尽きるだろう。

国民のために、国民統合のために、天皇制を象徴という形で存続させることを私たちは選択したのである。

そして、そのことを、今上天皇は実際に28年間やってこられたのだと思う。先の言葉に先立つ部分で、今上天皇は以下のように述べられている。

私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。

日本の戦争を集結させ、戦後日本の準備を告げた言葉が8/15の玉音放送であったように、天皇が国民統合の象徴として振る舞う際には、常にメディアの存在があった。

そして、天皇が国民統合の象徴たる所以、それは、メディアを通じて天皇と国民一人一人が結びつくということにあるだけでなく、天皇を媒介とすることで、国民一人一人が会ったこともない他者、場合によっては遠く離れた場所に住んでいる他者のことを想像し、異なる小さな共同体の一員同士であったとしてもなお自分たちが「同じ日本国民」である、そのことを実感することにあったのだと思う。

こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

その意味で天皇が天皇であるためには常にメディアという機能が必要であったし、天皇が天皇であるということは天皇自身の存在そのものがメディアであるということと切り離せないだろうと思う。

私にとって昨日のビデオ映像はそのことを改めて再確認させるものだったが、だからこそ昨日のビデオ映像をどれだけの人が見たのだろうかということがとても気になっている。

NHKやその他民放などテレビで見た人もいるだろうし、YouTubeで見た人もいるだろう。書き起こしのオンライン記事を読んだ人もいるだろうし、Facebook LiveやAbema TVで見た人もいるだろう。

マスメディアに情報が集中していた時代からネット上の大小さまざまのメディアが林立する時代に変わったなかで、天皇にまつわる一つの映像、一つのコンテンツがここまで多くのメディアで同時に放映され、そしてその映像や書き起こしが瞬く間に拡散されたということは驚くべきことではある。

語弊を恐れずに言えば、戦後70年以上がたち、天皇の存在が国民統合のために果たし得る力は少しずつ弱まってきていると考える見方もありえるように思う。

そのなかで、特に若い世代において戦前、戦中、そして戦後初期のような形で天皇という存在を身近に感じることはないだろうし、昨日「初めて天皇という存在について考えた」という声を実際に耳にすることもあった。

そうした意味において、昨日あのような形で今上天皇のビデオメッセージが多種多様なメディアを通じて拡散されたことは、日本全国への一つ一つの旅を蓄積するだけでは決して到達できないほど多くの数、多様な人々に対して、天皇の言葉を到達させることに寄与したとは言えるように思う。

皇室が国民統合の象徴としてあり続けることの必要性を語る、そのメディア的行為を通じて、国民統合の象徴たる天皇という存在自体が現代の日本で更新されるような、そんな行為だったように思うのだ。

「国民の理解を得られることを、切に願っています」という締めくくりの言葉も、そのことを表しているように思えた。(ただしその「理解」の規模、その深度がどの程度であったか、どの程度でありうるかはいまだに推し量ることが難しいとは思っている。)

最後に。国民統合とは何か。「国民」とは、近代が生み出した「他者に対する共感の基盤」となる概念である。

血縁・地縁関係のない他者に対して、自らと同じ者であると実感する/させるということ、北海道と沖縄に住む人々が、たとえ一度もお互いに交流し合った事がなかったとしても同じ国民であると実感するということ、それが国民を生み出し刷新し続けるということの意味である。英語ではnation-buildingと言う。

国民統合は税を中心とした国民的再分配のために必要不可欠なものである。

一人一人の努力によって勝ち得たと感じている財の一部を国民の名の下に一時共同で保有し、社会のなかに存在する様々な問題に対応するために活用する。

そのことを通じて、今上天皇が「地域」そして「共同体」と呼ばれたような、各地に伝統的に存在してきた規模の小さな集団では成し遂げにくい繁栄を手に入れる。

国民国家と強く結びついた近代とはそういう時代であったように思うし、繰り返しになるが、日本という国はその国民統合の象徴として天皇を置く、そのことを日本国憲法の第1条に書いている国だということを改めて考えさせられた。

現代社会に起きる様々な問題を見渡せば、それぞれの問題が、この「国民統合」というもの自体が様々な方向性からの危機に晒されている、そのことと強く結びついていることがわかる。

イギリスのEU離脱、中東・アフリカ諸国の不安定化とそこから発生する大量の難民、トランプや欧州諸国での極右政党の伸長、そしてパナマ文書が象徴する先進国内での経済格差の拡大。これらの最後尾に先日の相模原の事件を付け加えることもできるだろうか。

誰と誰が同じで、誰と誰が異なるのか。誰に対して共感を感じ、誰を排除したいと考えるのか。

「国民」の間の共感はどのように維持可能なのか、そして「国民」それ自体が内を守ると同時に外を排除する力学から自由でないとしたら、それとは異なる別の共感の形はどのように構築することができるのか。

個人だけが並び立つ殺伐とした世界を望まないのであれば、新しい時代の要請に沿った新しい共感の形をつくっていく必要がある。そのときメディア的な作用の必要性、そしてメディアそのもののあり方の変化について同時に考えずに済ますわけにはいかない。

新しい共感の基盤、そしてできるだけ開かれた共感の基盤を可能にするメディアのあり方を想像することができるだろうか。今上天皇が語った「国民統合」という言葉を通じて、そのことを考えた。

(2016年8月9日 「HIROKIM BLOG」より転載)