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「どんな人でも役に立てる」と「役に立たなくても生きていける」の違い

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イギリスで主に障がい者向けの福祉予算が削られているというこの記事を読んで。

財政赤字を本気で削減するとこうなる、弱者切り捨ての凄まじさ

英国福祉改革センターのサイモン・ダフィー博士によると、世界金融危機後の2010年に保守党が政権を握って以降の6年間、障害者は健常者と比べて9倍、重度の障害を抱える人々にいたっては19倍も厳しい生活を強いられてきたという。こうした状態に陥ったのは、福祉と住宅手当、社会保障の削減が重なった結果だ。

ある国が生みだす富は有限で、それは現在で言えばGDPと呼ばれている。そして、そのGDPから国や地方自治体が徴収する税ももちろん有限で、その有限な資金をもとに、政府は国民の権利を保障するための歳出を行う。問題は、その歳出が歳入に見合わないほど大きくなったときどうすればよいのか、だ。

選択肢は二つしかない。歳入を増やすか、歳出を減らすか。歳入を増やすには、GDPを増やすか、税率を上げるか、あるいは借金をするという方法がある。歳出を減らすには、権利を保障する対象の範囲を狭めるか、一つ一つの保障の度合いを縮小するといった方法がある。そして、問題は、それらのあいだの選択を、つまるところどんな理念と現実的な戦略をもって行うか、というところにある。

さて、先の記事で取り上げられている障がい者雇用の問題に限らず、「誰でも適切な場や環境を用意すれば活躍することができるはずだ」という一見ポジティブな考え方については、それを誰がどんな文脈で言っているのであれ、一定以上の警戒を払うべきだと私は思っている。

理由。

それは「誰でも活躍できるはずだ」が、意図せざる結果として「みんなが活躍できなければならない」を導き出してしまう可能性を常に孕んでいると思うからだ。財政状況が逼迫しているなかで、「誰でも活躍できる、役に立てる」という言葉は一体誰にとってメリットのある言葉なのか、今一度冷静になって考えてみたほうがいいように思う。

一億総活躍的な言葉遣いについて

近年の経済学には、格差の是正、特に人的資本への投資という意味での教育そのものの充実や、教育一般を支えるファイナンスの整備をすることが、経済成長に対して正の効果をもたらすという考え方もあるそうだ。

一般的な市場経済のイメージと異なり、市場経済を単に放任するだけでなく、それに対して政府が一定程度の介入を行うことによって、結果として経済成長が促進されるのではないかという考え方である。こうした考え方の存在は、財政赤字が膨らみ緊縮財政に走りがちな日本やイギリスのような先進諸国に対して一定の示唆を与えるだろうし、与えるべきだと思う。

富める国の不平等。稲葉振一郎『不平等との闘い』を読んで。

しかし、同時に重要なことは、権利の言葉と利益の言葉はそれぞれ全く異なる、そのことを決して忘れないことだとも思う。再分配を権利だけでなく利益の言葉も用いて正当化できる可能性が出てきたということは、経済成長に効くから再分配をしようという考え方への短絡であってはならないはずだ。

権利の言葉は、権利を持つ者が役に立つことやいい人であることを求めてはならない。権利の承認とアドホックな救済は異なる。実現される権利は、その実現の過程が始まる前から常にすでに承認されていなければならない。同時に、そうした権利を有限なリソースでまかなうためには、統治技術の粋を極める必要があることも常に忘れてはならない。

これら二つの要請は常にコインの表裏である。健全な理想主義は、常に健全な現実主義を伴うだろう。その逆もまた然りである。

繰り返す。

障がい者でも役に立つ、普通の人とは異なる価値を発揮できる。結構。ただし、それは権利の言葉ではなく、利益の言葉である。権利の言葉を研ぎすまさなければ、財布事情が変わっただけで新たな線引きの犠牲になる人びとがきっと増えてしまうだろう。

考えておくべきは、もし越えてはならない一線があるとして、さて、その線は一体どこにあるだろうか、ということである。障がい者だけの話をしているわけではない。その線は誰か一人だけのものではなく、同じ社会に生きる人びとが共に在るということそのものであるような線であるはずだ。

誰もが弱者であることが、私たちが社会を必要とする最大の理由であって、こちら側とあちら側はいつだって一本の細い線でつながっている。役に立てるとは別の論理を、私たちは常にすでに必要としているのだ。

(2016年5月26日「HIROKIM BLOG」より転載)