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望月優大 Headshot

トルコというダムは決壊するのか

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いまトルコについて考えることは本質的なことである。

トルコについて考える経験を通じて、自由民主主義を奉じる先進諸国に生きる人々は、自分たちの暮らしがどんな基盤に拠って立っているのかを理解する。それはひどく脆弱な基盤であり、少しの変化で動揺してしまうほどのものだ。

そして、いままさにその基盤が危機にさらされようとしている。

直接的に言えば、今年の3月に結ばれたEU-トルコ間での合意によってトルコ経由でのEU諸国への難民流入が大きく抑制されていたのだが、その合意自体が現在危機に瀕している。

この記事ではその危機について書いていく。

  1. 「EU-トルコ間合意」の成立と動揺
  2. 難民の「ダム」としてのトルコ
  3. 世界はトルコに何を求めるのか

具体的にはこういうことが起きている。

1. 「EU-トルコ間合意」の成立と動揺


時系列順に経緯を追っていく。

  • 2015年、シリア→トルコ→ギリシャを経てドイツにまで至る「バルカンルート」を通って中東から大量の難民がヨーロッパに押し寄せた
  • その結果、EU諸国はドイツを中心とした受入肯定派とハンガリーなど東欧諸国を中心とした反対派に分断された
  • しかし、大量の難民受入後にEU諸国で発生したいくつかのテロ事件やそれに伴う極右勢力の伸張に伴い、ドイツにおいても、政権側から何らかの手を打たなければ国内的にもたない状況が現出した
  • 関連する重要なスケジュールについて確認する。2015年9月6日にハンガリーとオーストリアで足止めを受けていた大量の難民がドイツ南部のミュンヘンに到着し、同月11日にメルケルが「難民に対する上限はない」と発言。その後、同年11月13日にパリ同時テロ事件が発生し、12月31日にケルンでの暴行略奪事件が発生した。それぞれの事件の容疑者に難民申請者が含まれていたことが世論の硬化を招いた
  • こういった情勢を受けて、EUはドイツ主導でトルコとの外交的合意を成立させる。2016年3月18日のことだ。そこではこういった取引がなされた
  • まずはトルコからEUへのオファー。トルコからギリシャ(EU及び域内移動の自由を認めるシェンゲン協定加盟国)に入って滞留している難民のトルコへの送還を認め、加えてトルコ・ギリシャ間の国境警備の強化を行う
  • 次にEUからトルコへのオファー。トルコ国内の難民支援にかかる費用を支援する、トルコからEUにシリア難民を一定数再定住させる、トルコ国民がEU渡航する際のビザを免除する、トルコのEU加盟交渉を加速させる
  • この合意の結果、トルコ・ギリシャ間の国境警備が強化され、バルカンルート経由でのEUへの難民流入はかなり抑制された。トルコ側からも、EUに対して合意内容の履行が要求された。特にビザなし渡航やEU加盟交渉の加速についてその履行を要求された
  • 2016年7月15日、トルコ国内でクーデタが発生する。クーデタそのものはすぐに押さえられたが、非常事態宣言下のトルコでは、エルドアン政権による様々な人権侵害が横行する。反体制派の人々が数多く逮捕され、何万人もの公務員が解雇され、数百のNGOやメディアが解散させられ、大学の学長指名にまで政治介入が行なわれた
  • EUはクーデタ後のトルコにおけるこうした状況を強く非難した。EU加盟交渉との関係においては、人権や法の支配が尊重されていない状況は論外であり、EU加盟のために2002年に廃止された死刑制度の復活についてエルドアンが好意的に語り始めるという状況にいたっては、EU側からのトルコに対する態度を硬化させるに十分であったように思われる
  • こうした経緯を経て、去る11月24日の木曜日、EU議会はトルコのEU加盟交渉凍結を求める採択を決議した。この決議はその性格上拘束力をもつものではなかったが、エルドアン大統領はこれに対して強く反発し、EU(具体的にはギリシャ)との国境警備を緩和し、中東からの難民流入を放置する姿勢に転換する可能性を示唆した
  • これは難民受入が国内の正統性危機に直結しかねないEU諸国(特にドイツ)にとって、バーゲニング手段として強く機能してしまう可能性がある。
  • 時系列を少しだけ遡ると、その数日前、11月20日の日曜日にエルドアンは中国とロシアを中心とする「上海協力機構」への加盟を示唆した。これは、EU加盟がトルコにとっての絶対的な希望であるわけではないと示すことを意図したものであり、11月24日の欧州議会での決議を見越して、EU-トルコ間合意履行についての賭け金を高めるための発言だったと考えられる

ここまでが現在の危機に至る経緯の簡単なまとめである。

2. 難民の「ダム」としてのトルコ


問題の在り処を整理する。

まずシェンゲン協定について確認する。シェンゲン協定とは、協定の加盟国間での国境検査を不要にする仕組みであり、それは一つの加盟国の国境さえ通過できてしまえばその他の加盟国には国境検査なしに移動することができるということを含意する。

現在の加盟国数は26であり、そのほとんどがEU加盟国である。しかし、ノルウェーやスイスなどEUには加盟していない国も少数含まれる。また、その反対に、イギリスのようにEUには加盟しているがシェンゲンには入っていない国もいくつか存在する。

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(水色と青色の国がシェンゲン協定加盟国 / European Commission - Migration and Home Affairs

上記の図を見ると明らかな通り、このシェンゲン圏の東端を成すのがギリシャであり、そのギリシャと国境を接し、かつその先にシリアやイラク、イランと国境を接しているのがトルコ、ということになる。

したがって、ある難民がトルコからギリシャに入国するということは、彼がシェンゲン圏の中に入るということ、それによってシェンゲン圏内を自由に移動できるようになるということを意味する。

ドイツが主導してEU-トルコ間合意を推し進めたのはまさにこのシェンゲン協定の仕組みを前提としてのことであり、それは言葉そのものの意味で、トルコに難民流入の防波堤としての役割を期待するということであった。

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(UNHCRによる地中海周辺での日別の難民・移民の流入数推計 / UNHCR - Refugees/Migrants Emergency Response - Mediterranean

実際のところ、この合意が成立する以前からトルコは世界最大の難民受入国であった。

トルコが受け入れる難民の数は膨大で、2015年末時点で254万人にのぼる。トルコの人口が7900万人弱であるから、人口の3%を超える数の難民を受け入れているということになり、その規模はドイツなど積極的に難民を受け入れていると言われている国と比較しても桁違いと言ってよいレベルのものだ。

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(難民の受入数国別ランキング / UNHCR - Global Trends : Forced Displacesment in 2015

理由の一つは地理的なものである。すなわち、トルコはその他の国々よりも難民発生国からの距離が圧倒的に近い。

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(難民の発生数国別ランキング / UNHCR - Global Trends : Forced Displacesment in 2015

近年における世界最大の難民発生国はシリアであり、トルコはその南部にシリアとの長い国境を有している。逆の視点で見れば、シリアが国境を接している国はトルコ、レバノン、ヨルダン、イラク、イスラエルの5カ国しかなく、シリアから陸路で国境を越えようとする場合の選択肢は非常に限られている。

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難民受入国のランキング上位の多くはこうした難民発生国の近隣国が占めており、トルコを始めとするこうした国々はそれらより地理的に遠くに存在する国との関係ではある種の緩衝地帯、言い換えれば巨大な「ダム」のような役割を果たしている。

2015年に起きたことは、このダムからの放流の量が増加し、下流であるヨーロッパに流れ込む難民の量が増加したと理解することができる。逆に言えば、2016年3月のEU-トルコ間合意においてEU側が企図したことは、このダムの放流の量を改めて抑制しようということであった。

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(UNHCR - Refugees/Migrants Emergency Response - Mediterranean

今回のエルドアンの「脅し」は、まさにこのEU側の意図に逆らう形で、そちらが合意内容を履行しないのであればこちらもそうしますよ、すなわちこれまで抑制していた放流の量を増やしますよ、ということを言っているわけである。

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(UNHCR - Refugees/Migrants Emergency Response - Mediterranean

2016年3月以降の合意以降、一気に難民流入の数が減少しているという現実を背景にした、非常に強い脅しであると言えるだろう。

3. 世界はトルコに何を求めるのか


問題を改めて振り返ってみる。EU-トルコ間合意という名の取引における最も重要な矛盾はどこにあるか。

それは、人権規範の守護者たるEUが、人権侵害を主な理由としてEU加盟を認めていないトルコに対して難民を送り返し、しかもそのことと引き換えにトルコのEU加盟交渉を加速させるという約束をしたという点にある。

どういうことか。

EU諸国における難民受入の困難は、難民を受け入れたからには自らが奉じる人権規範を彼らにも適用し、人間らしい暮らしができるように最大限の努力をしなければならない、というところにある。

なぜなら、それを実現することが実際に存在するリソースの観点から本当に難しいかどうかということとは別にして、特にEU諸国内で相対的に貧しい暮らしをしている人々の想像力においては、日々増加する難民の利益と自らの利益が背反しているというストーリーを思い描くのを止めることがとても難しいからだ。

近年ヨーロッパの各国で極右勢力が同時に大きく伸長しているのは決して偶然ではなく、彼らやその支持者たちの存在は政権運営上、そして政治的正統性の調達という観点でもはや無視しえないレベルまで大きくなっているのである。

そこで、受け入れたからにはきちんと保護しなければならない、しかしそれが難しいからそもそも受け入れる量を抑制する、そういう論理が根底の部分でどうしても必要になってしまう。難民受入に積極的なドイツこそが合意の推進者であったのはそうした意味においてであろう。

では、なぜトルコはEU諸国よりはるかに多くの難民を国内に抱え続けることができるのか。それは何よりも、人権規範を遵守しなければならないという制約からのフリーハンドがEU諸国に比べて相対的に大きいからである。

例えば、トルコにいるシリア難民の子どもたちが、ZARAやマークス&スペンサーなどグローバルなアパレル企業関連の工場で不法に長時間労働させられていたことがわかっているが、これはEU圏内では「できない」し「やってはならない」ことだ。

さらに重要な論点として、日本も加入している難民条約における「追放及び送還の禁止」について触れておきたい。これは、「ノン・ルフールマン原則(non-refoulement)」と呼ばれる原則に基づくもので、難民条約の締約国は、祖国であれ第三国であれ、安全でない国へと難民を追放・送還してはならないという大原則があるのだ。

第33条【追放及び送還の禁止】

1. 締約国は、難民を、いかなる方法によっても、人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見のためにその生命または自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放しまたは送還してはならない。

さて、ではトルコは難民にとって「安全」な国なのだろうか。EU-トルコ間合意が結ばれたということは、EUはトルコが安全であると判断したということを意味する。しかし、その判断に対しては様々な形で疑義が呈されている。

詳細は2016年6月のヒューマン・ライツ・ウォッチによるレポート「EU:シリア難民のトルコ送還を停止すべき」をご覧いただきたいが、トルコ国内で難民の権利がきちんと保障されておらず、公共サービスが整備されていない難民キャンプでの生活を余儀なくされる可能性も高いこと、またシリアとの国境でシリア難民の追い返しを行っていることなどが指摘されている。

しかし、私たちは一体誰を非難すれば良いのだろうか。

根本原因はシリアが壊れていることである。シリアでは2011年ごろから始まった「アラブの春」を端緒として、シリアはいまに続く終わりの見えない内戦に陥ってしまった。

いまではシリア政府軍、反政府武装勢力、イスラム国、クルド人系武装勢力という四つ巴の内戦に、欧米やロシア、トルコ、その他の中東諸国が複雑に交差するという泥沼の状況を呈している。

アラブの春は、アラブ諸国の独裁体制を自由民主主義的なそれへと体制転換していくことを切望する同時多発的な運動だった。しかし、その体制転換はどの国でもあまりうまくいかず、特にシリアでは大きな無秩序状態の出現を促す形になってしまった。

そうして、シリアが壊れたことで発生した大量の難民の存在が、自由民主主義を奉じる先進諸国に対して、大きな問いを投げかけている。

それは「人権」や「法の規範」といった自らの体制を根本的に規定する価値が現実的に適用される人々の「範囲」とその限定についての問いであり、さらに、その範囲の限定を実行化していくために自らの外側に必要な国家の体制についての問いである。

重要なことに、この問いは、歴史的に常に存在しながら長きにわたって見えにくい状態にあった、あるいはこれまでは見ないでいることができた、そうした種類の問いだったのである。

"中東における政治的自由の不在、人権の侵害や民主化の遅れを、西欧諸国は批判し、導く立場であり続けてきた。しかし独裁政権は、言語や宗教・宗派といったエスニシティ構成もまちまちな中東の諸国を強権的な手法で統治することで、国境を維持し、武装集団の大規模な出現を阻止してきた。西欧にとって、アラブ諸国やトルコは、地中海の東岸や南岸で、アラブ世界やその背後のサブサハラ・アフリカ、あるいは南アジアから流れ着く移民・難民を、人権や自由の理念・原則からは疑わしい手法を用いながら、食い止めてきた「ダム」か「壁」のような存在だった。この「壁」があったからこそ、西欧諸国は第二次世界対戦後、かつての植民地からの大量難民の波に襲われることもなく、紛争の影響が及ぶこともなく、経済発展に必要な移民のみを、ある程度選択して受け入れることが可能だった。

このダムあるいは壁の存在は、綻びがない間は意識されにくいものだった。しかし「アラブの春」によって中東の諸国家が次々に揺らぎ、領域の管理が弛緩することで、西欧の安定と繁栄を可能としていた条件を、あからさまに示すことになったのである。"

(池内恵『サイクス=ピコ協定 100年の呪縛』122-3頁)※太字強調は引用者

トルコが最初にEU加盟の申請を行ったのは1987年のことだ。それからすでに30年近くの年月が経過している(当時はEUではなくEC)。

これまでEUは一貫してトルコがEU的な価値観に適応すること、人権や法の支配を尊重することを求めてきた。トルコもそれに呼応して、2002年の死刑制度廃止など、少しずつ国内の人権問題を片付けてきた。

しかし、いま起きていることはそれとは真逆の動きであるように見える。

トルコはEUだけが選択肢ではないということをあからさまに発言するようになり、EU側もそれに応じてトルコを仲間に加えることを諦める兆しを見せ始めている。未来のことを予測することは難しいが、世界で起きている変化の流れを理解しようとすることはできる。

トルコのダムが決壊しないという保証はどこにもない。私たちの暮らしや価値観が拠って立つ基盤は想像以上に脆く、日々動揺している。だから、常に見て、考え続ける必要がある。

参考文献


ユーロ危機、難民危機、安全保障危機、イギリスEU離脱という4つの複合危機としてヨーロッパの危機を捉え説明する稀有な一冊。非常に勉強になる本。

欧州複合危機 - 苦悶するEU、揺れる世界 (中公新書)


やや保守的な論調にときたま違和を感じることもあるが、現在発生している難民問題にまつわる様々な事実や論点を一気に勉強にするには最適の一冊。

難民問題 - イスラム圏の動揺、EUの苦悩、日本の課題 (中公新書)


民族や難民という視点でトルコの歴史を振り返るのに最適な一冊。池内先生の著書はどれもおすすめ。

【中東大混迷を解く】 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛 (新潮選書)

(2016年11月26日「HIROKIM BLOG / 望月優大の日記」より転載)