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吉田大樹 Headshot

【シリーズ】地方に移住したパパたちを追って~広島編〈4〉

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グリーンパパプロジェクト企画>「シリーズ 地方に移住したパパたちを追って」第4弾は、広島市佐伯区で「一級建築士事務所アトリエ平田」を営んでいる同事務所代表取締役で一級建築士の平田欽也さん(54)を取り上げる。

広島の大学を卒業後、東京の設計事務所で経験を積み、30代半ばでU広島に帰ってきた平田さん。趣味のヨットや子どもとの関係づくりなどを伺った。

(取材日:2015年10月17日)
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東京でのキャリアを通じて地方を知る
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吉田:今日はよろしくお願い致します。平田さんは、広島市のご出身ですね。

平田:そうです。いまは広島市佐伯区ですが、1985年3月に合併するまでは佐伯郡五日市町で、日本一人口の多い「町」※でした。
※広島市に合併時点の五日市町の人口は96,441人とされる。

吉田:そこで幼少の頃は過ごされていたということですね。

平田:いま住んでるところが実家で、両親はもう亡くなってるんですけど、そこで生まれて大学までそこで育ちました。大学はこの事務所のそばにある広島工業大学です。卒業して東京の設計事務所に就職し、34歳まで東京にいました。2~3年修行して広島に帰ろうかと思っていたのですが、世の中がバブルを迎えまして景気がすごい状況になってしまって・・・

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平田欽也さん

吉田:自分はその頃は小学生だったので、どんな状況なのか体感してないんですけど、やっぱりすごかったですか?

平田:若かったのでそこまではわかりませんが、仕事のプロジェクトの規模が大きくて何百億というようなものもありました。横浜八景島の設計にも携わったんですよ。そのぐらいビッグな案件がいっぱいあって、2、3年どころの騒ぎじゃないわけですよね。辞めさせてもらえないんです。プロジェクトも2、3年かかりますからね。ただ、こちらもスキルアップするし、仕事も楽しくなるし、最後は何とか34歳で広島に帰ってきました。

吉田:東京にいる間に結婚もされたんですね。

平田:はい、同じ高校の同級生でした。本当はここに座って一緒に仕事してるんですけど、今日は子どもの学校の文化祭に行っているようです。

吉田:一緒にお仕事されてるんですね。

平田:そうなんですよ。27歳の時に結婚して彼女も上京した感じです。

吉田:交際期間が長かったんですね。

平田:まぁ確認したわけじゃないですけど、一応そういうことになってますね(笑)

吉田:お子さんはいつ生まれたんですか?

平田:広島に帰ってきてからですね。いま高校2年生(息子)と中学3年生(娘)です。東京にいるときは、やっぱり仕事が忙しいし、うちの家内も東京の別の設計事務所に勤めていたので、仮住まい的な意識がずっとあって、子どもを作るならもっと落ち着いた環境でという気持ちがありました。なので2人とも30半ばのいい年齢になってしまいましたね。

吉田:最終的に東京での仕事を辞めて広島に帰る決断をするきっかけみたいなのはあったんですか?

平田:きっかけは、やはりバブルがはじけて仕事と落ち着いたっていうのが大きいですね。ちなみに各地のプリンスホテルをたくさん手がけたんですけど、パタっとなくなったんですね。

吉田:プリンスホテルも全国にいっぱいできましたが、あの頃のものが多いですよね。

平田:私は最後に鎌倉プリンスホテル、小説「失楽園」の舞台になった場所ですが、チーフで担当させてもらいました。94、5年くらいですね。で、そういう大きいプロジェクトはなくなったんですが、地方のプロジェクトがあって、博物館とか、駅だとか。私は地方行くの好きだったんで、手を挙げて担当させてもらいましたね。月に1回ペースで行って2、3日で帰ってくるみたいな感じです。宮崎、島根、岐阜、北海道などにも行きましたね。

だから東京にいながら東京の仕事じゃないことばかりをやってました。そうすると、元々大都会の人間じゃないんで、地方に行って喜ばれる建物を作ると、まちおこし的な建物はやっぱり多いので、ものすごくその地域の方から歓迎されますし、こっちもそれに応えようとしますしね。大都会の商業主義的な建物よりもやっぱりやってて「気持ちがいいな」と感じました。

吉田:実際にその地域の人と触れ合ったりできるのは大きいですよね。

平田:そうですね。岐阜では、お祭りの会館を作りましたね。島根では、木造の駅を作りましたね。日原(にちはら)駅というところです。JRが一度は駅は廃止すると決めたのを、地元の自治体が公民館として作り直して、駅舎としても利用できるようにしたいと。地元の人たちは駅を残したい一心だから必死でしたね。

吉田:ある意味そういう必死さも感じながら、どういう設計、造りにしてったらいいのかを考えるわけですよね。

平田:公民館だけじゃなくて、消防団の車庫を一緒にくっつけたりとかして、何とか工夫をして駅にするわけです。知恵を出して。だから割と、いま思えば、帰ってきたいと思うのはそういう地方の仕事をやり始めたことが、元々帰りたいという気持ちに拍車をかけたところもありますね。

吉田:いろんな地方の現状も目の当たりにしながら、そういう力になりたいみたいな気持も湧いてきたわけですね。

平田:親もその頃は健在でしたので、島根の仕事や山口の仕事をする際に時々は広島経由で行ったりして、親の顔を見たりするんですが、どこの地方に行っても自分の親ぐらいの年齢の人間がいるわけですが、「はよ帰ったれ」と言われるわけです。
広島の近くで仕事をする際は、金曜日に仕事を入れて帰ってきて、週末は趣味のヨットをやってました。

吉田:ヨットはいつから始めたんですか?

平田:ヨットは小学5年生くらいからですね。

吉田:そんな小さい時からですか。何か影響があって始めたんですか?

平田:私はいまも住んでいますが、五日市の漁港のすぐそばで生まれ育っているんです。いまマリーナになっています。

吉田:本当に海の目の前、近いところで育ったんですね。

平田:ポンポン船が聞こえるような港だったんですけど、その当時はまだヨットを持っている人はほとんどいなかったんです。たまたま隣に越してきた人がヨットを持っていて、漁港に係留していたんですね。当時は広島にマリーナはありませんでしたので。小学5年生ですから乗りたいですよね(笑)

吉田:そうですよね。

平田:指を咥えて見てたらですね、その方が乗せてくださったんです。それが縁ですね。

吉田:それどれぐらいの大きさのヨットだったんですか?

平田:7m50cm、25フィートっていうんですけど、4人ぐらい大人がゆったり乗れるぐらいです。当時としては大きい船ですが今では小さいほうですね。

吉田:それからちょくちょく乗らせてもらうような感じだったんですか?

平田:そうですね。大学までそこに住んでいたので、かなり乗せてもらいました。ヨットは徐々に大きくなったり、メンバーも増えたりしたんですが、オーナーの方々は大体20歳くらい上の方でした。

吉田:そうですか。じゃあちょっとお兄ちゃん的な存在ですね。

平田:そうですね。その仲間の人達がまた集まって、いまもあるんですが「佐伯帆走協会」というクラブを立ち上げたんです。それが高校3年生のときでした。私が18歳のときですから、そのオーナーの人達は40歳手前ぐらいですよね。子育て真っ盛りです。

吉田:そうですよね。

平田:小学校の子どもがいたりするわけです。

吉田:そういう子ども達の面倒をみたりされていたんですか?

平田:自分が大学生になってからも、ディンギーっていう小さなヨットで子どもたちを教えたりとか、そういうこともやってましたね。

吉田:そういうヨットに関係することで、いろんな大人の方々に関わったりだとか、そういう経験ができたっていうのはすごく大きいですよね。

平田:大きいですね。うちの子どもたちにもそれを味あわせてあげたいと思ってるし、実際味わってるんですけども、私のヨットの師匠をうちの息子は「海のおじいちゃん」と呼んでますから(笑)

吉田:そういう存在が身近にいるというのはいいですね。

平田:当然そのメンバーも、サラリーマンもいれば転勤族の方もいらっしゃるんで、つかず離れずで行ったり来たりするんですけどね。その人たちがまたUターンで帰ってきたりとか、私みたいに外に出たけどまた帰ってきたりとか。ということで、ものすごい付き合いが長いんですよ。子供や孫も知ってたり。

吉田:そういう人間関係の中でいろんなことを学べますよね、子どもたちは。

平田:そうですね。ある種のコミュニティですよね。

吉田:そういう地域のコミュニティ自体弱くなってる中で、ヨットを通じたりしながらそういう関係性を作れるのはいいことですね。

平田:なかなかいまはそういう関係性が作れませんよね。

吉田:あとで具体的にお伺いしますが、それがいまのヨットを通じた自然活動にも原体験としては通ずるものがあるんじゃないでしょうか?

平田:そうですね。いまも20歳上の先輩達がやってたことを実践していますね。

吉田:子どもたちはそういう大人たちに憧れたり、そういう姿に惚れたりするじゃないですか。

平田:ヨットのオーナーの一人に建築家がいたんです。独立して設計をしてる人ですね。先ほどの「海のおじいちゃん」と子どもたちが呼んでいる方です。
うちの父は県庁に勤めていたんですが、紺色のスーツで黒い靴はいて、朝7時過ぎに出てって、判をついたように帰ってくる人でした。一方で、その憧れのおじさんはちょっと格好いいスポーツカーに乗って、ネクタイはしてないし、何か自由な感じなんです。

吉田:カジュアルな感じですね。

平田:どっちに憧れるかわかりますよね。父は「お前公務員になれ」と言ってたんですけど、言うこと聞きませんよね。「誰がなるか!」って感じで。いま後悔してますけどね(笑)
その方の事務所に学生時代は入り浸りでした。学校の課題もその事務所で教えてもらったりしてました。卒業と同時にその人の事務所に私は入れるもんだと勝手に思っていました(笑) 公私ともにいつも一緒なわけですよ。休みもヨットで一緒だし、日々も一緒だし家に帰ることなんかないわけです。

吉田:親よりも長い時間過ごしたわけですね。

平田:親よりも飯食わせてもらっているかも(笑)  それで卒業するときに私が彼の事務所に入れると思ってたら、「いやいやお前と一緒に仕事をやりたいと思う。けど、俺しか知らないことになるから、2、3年ちょっと修行してこい」と。

吉田:それが2、3年だったんですね(笑)

平田:そうです。結局それが12、3年になっちゃったんですね(笑)

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広島で設計事務所を設立
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吉田:では、広島に戻るときもそこで勤めるつもりだったんですか?

平田:それがですね、やっぱり人間っていうのはエゴが出るというか。東京で務めた事務所が著名な建築家の事務所だったんです。「清家清」という日本の住宅建築の礎を作ったと言われるような人でした。住宅建築ではすごく有名な方だったんです。その方の事務所に10年以上いましたので、やっぱ天狗になってるわけですよね。
帰ってきたら、すぐにでも事務所を自分でやりたいと思うわけですね。でもまあ仕事なんか来ないですよね。いきなり10何年も空けておいて、付き合いもないところにポンと帰ってきたわけですから。

吉田:けど、その方に相談したりはしなかったんですか。

平田:もちろんしましたよ。ときどき仕事を手伝ったりはしてましたが、あくまでは違う事務所っていう感じでやっていました。一緒にやろうと言ってくれたんだけど、「僕は僕でやるから大丈夫」という感じ。生意気盛りだったわけです。

吉田:30代半ばで、ある程度キャリアを積む中で、そういう考えになってしまうのは致し方ないですよね。

平田:そうですね。自信はあったんですが、ところが仕事がない。人のつながりがないですからね。でもきっかけは、大学時代の同級生が広島へ帰ってデザイン事務所に勤めていて、大学卒業以来12年間会ってかったんですけど、突然電話があったんです。

吉田:それは平田さんが帰ったという情報を聞きつけて?

平田:やっぱり同級生同士の情報ネットワークですね。その彼は優秀な人だったんですよ。島根の公園の設計を彼が引き受けていて、その彼から「建物の設計をする人が足りないからお前やってくれ」と。12年間会わなかったのにですよ。

吉田:いや、それちょっと泣きそうになりますね。

平田:そのときはもう嬉しいばっかりでしたけど、何でそんなに頼んでくれたかというと、東京でやっていたときの仕事を東京にいる別の同級生が彼に伝えてくれてたんですよ。「あいつが広島に戻って仕事を探してるんだ」ってネットワークで話てしたんでしょうね。割と大きな島根県の温泉施設でしたが、その後もいくつか仕事をもらいまして、そうやって仕事をやっていくと顔が売れてきますよね。いくつかの事務所からオファーがかかるようになって、次第に直接お客さんから仕事が来るようになった感じですね。

吉田:軌道に乗るまでどれくらいかりましたか?

平田:5年くらいですね。

吉田:そんなにかかりましたか。

平田:自分の力で着実に仕事が入るようになるまではそれくらいですね。

吉田:けど、当然その間にお子さん生まれたりして、ある意味大変な状況の中で何とかっていう気持ちもあったんじゃないですか。子どもがいるから育てていかないといけないという責任感もあるでしょうし、たぶん相当なプレッシャーだったじゃないかと。

平田:下の子が生まれてまもなく、母が病気になりました。母が病気になったのをきっかけに、それまでは別々の家で住んでたわけですが、母がそういうことになったということで、緊急的に実家に帰って同居が始まったんです。本当は同居するつもりはなかったんですが。

吉田:同居するだけの家のスペース的にはあったんですね?

平田:広さはまぁまぁあって、事務所もその横でやってたんですけど、その1年後に今度は父親も病気になって。

吉田:そういうことも重なってたら、なおさら大変でしたね。

平田:いま思えば地獄のような日々でしたね。子どもがいたことで気持ち的な安らぎもあったので、子どもがいなかったらもっと地獄のような状況だったかもしれませんね。

吉田:肉体的には、子育てもしなきゃいけないし、親の介護もしなきゃいけないし、大変だったんじゃないですか。
そういう状況はどのくらい続いたんですか?

平田:そうですね同居して2年の間に両親を亡くした感じですね。うちの母はもう余命3カ月と言われて同居したんです。これまた涙が出る話なんですけど、父が母をどうしても家に連れて帰りたいと。で、父から「お前設計するのプロなんだろリフォームしろ」と言われ、母が帰れるように改築したんです。
私が小学5年生のときに建てた家だったので築30年ぐらいたってたのかな。バリアフリーじゃないわけですよね、当然。畳の部屋がありました。それを1カ月でリフォームしろって言うんですよ。普通だと2、3カ月かかるんですけども、それを1カ月で。これまた有難いことに大学の先輩の工務店さんに事情を言って、最低限必要なところを教えてもらってリフォームして、どうにかうちの母は2カ月ぐらい家で過ごすことができたんです。

吉田:戻ってきた段階で、もうやっぱり自分で身体動かすことはもうできないような状態だったんですか?

平田:最後のあたりはですね。ベッドは電動ベッドを入れないといけなかったので、その幅を取ったりですね。

吉田:構造的にスムーズにいくようなかたちでリフォームしたんですね。

平田:介護保険が始まって2、3年だったので、これが幸いしました。少しリフォームの勉強もしていたのもあって、そういうネットワークに助けられましたね。だから、それがきっかけで住宅の設計には影響が出てると思います。子育てしやすい家だとか、介護をしやすい家とかいうのはやはり体験が大きいですね。

吉田:ある意味迫られた状況の中で自分としての新たな一手を生み出していうことですよね。

平田:別に計画したわけではないんですが、結果的に(笑) 2年間の間に両親がバタバタっと亡くなったのは驚きでした。なので、実家が私の家になったわけです。当然残された私と家内と2人の子どもたちがそこで生活するわけですが、これが生活しやすいんですよ、バリアフリーだから。

例えば母のために広く作った風呂と、普通の倍ぐらいの脱衣スペースで、子供を拭いたりするのがバッチリなわけですよ。2人の子どもを私が風呂に入れるわけですね。まだ当時は保育園の子ども。扉は全部引き戸なんでとっても入れやすい。家内が台所から立ってるところからも脱衣スペースが見えるんです。

吉田:使いやすい動線なんですね。

平田:そうなんですよ。介護動線と家事動線がとれるようにしてるから、

吉田:それはある意味重なる部分があるんですね。

平田:もうほとんど重なりますね。意外に言われてないんですけどね。だから介護しやすい家は、子育てしやすい家なんですよ。

吉田:子どもだって走り回ってたらやっぱり躓いちゃったりもしますよね。ちょっとした段差とかいろいろ考えるとリスクはありますよね。

平田:子どもであれば、段差もだんだん乗り越えていくんですけど、高齢者の場合は逆にできなくなるのがちょっと悲しいですよね。
その両方体感できたっていうのは大きいかなと思います。介護がないとリフォームなかっただろうけども、リフォームして子育てできたっていうのがすごい仕事にプラスになったかなと思います。

吉田:その間は、お仕事も実家でやられてた感じなんですか?

平田:親がいた少しの間は実家でやってましたが、その後いまのこの事務所を建てました。14年くらい建ちますね。

吉田:ここも14年経ってるとは全然思えないくらい綺麗ですね。ここから自宅までどれくらいなんですか?

平田:そうですね2.5km、歩いて30分、車で6分半くらいでしょうか。

吉田:近いのはいいですよね。けど、自分で事務所を構えるというのは、当然いろいろ仕事抱えたりだとかという状況の中で、かなり忙しく働いてた時期もあったんじゃないですか?

平田:そうですね、最初の頃は非常にヘビーでしたね。

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ヨットを通じた子どもとの関係
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吉田:そういう中で子どもとの関係、時間の掛け方は工夫してたところはありますか?

平田:幸いに自営業なんで、スタッフも来てもらえるようになったんで、保育園の送り迎えは両方とも私がやっていました。

吉田:では、帰りもその時間に合わせて帰るわけですよね。

平田:近いので、夕食を食べてからまた仕事に戻ることもありましたね。妻は、一緒の仕事をしていますが、夕食を作ったりしないといけないので先に帰ります。割とそういうのは時間の融通が効きますし、スケジュールはこっちで立てることができるので、ご飯を一緒に食べないっていうことはあんまりなかったですね。

吉田:そういった意味ではお子さんとの時間は、確保できていたんですね。土日などの休みはどうされているんですか?

平田:クライアントが個人の方は土日に打ち合わせになりますが、そうでなければ積極的に休んで、ヨットの活動が主ですね。これが年間行事なんですがこんなにあるんですよ。

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平田さんが所属するヨットクラブの年間スケジュール

吉田:えっ、こんなにやってるんですか?

平田:当然土日に仕事が入ったりするので全部には出られないんですが、この青い字がクラブの行事で、緑色の行事がうちのヨットのものです。クラブには合計で10艇ほどのヨットがあります。

吉田:4泊5日クルージングとかやっているんですね。

平田:そうです。ゴールデンウィークは約2週間ですね。

吉田:ホントだ。11泊12日ってすごいですね。

平田:さすがにこの航海にずっと出られるようになったのはごく最近です。さすがに、子育てしていたときは半分の行程だけの参加でしたね。

吉田:広島に帰郷して、すぐにヨット活動も本格的に戻られたんですね。

平田:そうですね。土曜日は仕事の人もいるので行事は大体日曜日が多いんですが、出られるときは出るっていう感じです。地域の子どもたちを乗せたりする、ボランティアみたいな行事があるんですが、そういうのはもう年間行事で決まっています。

吉田:それは法人を別に作られてというかたちで?

平田:実は2年前にNPO法人は解散して、現在は任意団体で活動しているんですけど、10年間NPO法人として運営をしてたんです。私の乗ってる船は割と大きめの船で、12mあるんですが。

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(平田さん提供)

吉田:本当だ大きい。

平田:ただこの船を1人で所有しているわけじゃなくって10人くらいでシェアをしているんです。関東の方だと大体1人で所有している場合が多いんですけど、こっちだとシェアして所有している人も多いですね。

関東の人達はレースの活動が中心で、オーナーがいて、あとはクルーという感じですね。上下関係があります。でも、我々のヨットクラブのメンバーは大概みなイーブンな感じです。

吉田:シェアをして所有できると、ハードルが少しは下がりますね。和気あいあいと乗る感じがあって楽しそうですね。

平田:よく喧嘩しないなってみんなに言われるんですけど、まぁ小さい頃から皆一緒ですからね。上は70代の海のおじいちゃんから下は30歳くらいまでいます。ちょっとした喧嘩はありますが、あまり気にもしていませんよ。

吉田:本当の海でクルーみんなで育ってきた感じですね。

平田:そうですね。いろんな世代の人達と一緒に1週間とか生活するわけですよ。例えばトカラ列島とか、秘境の地に連れていくわけですよ。トカラ列島は奄美大島と屋久島の間にありますが、ひとつの島に大体100人くらいしか住んでいないんです。島が10個あるのですが、この10個の島で鹿児島県鹿児島郡十島村(じっとうそん)を構成しています。一番南にある宝島という島に連れていくのですが、そうしたら地元のおばあちゃんと交流したり、島に1個しかないお店に行ったり。しかもその店は1時間しか開かないんですよ。1時間しかやってないので、その間にみんながそこに集まってくるわけですよ。

地元のおばあちゃんが乳母車を引いてやってきます。そこに我々が行くと異質ですよね。観光客もいませんから。でも、ものすごくフレンドリーに話してくれる。うちの息子なんか見たら、ものすごく話しかけてきてくれるんです。「あんたどっから来たんか」って。もちろん広島弁では言いませんが(笑)

で、面白いのが「名前は?」と聞いたら、同じ「平田」姓を名乗るんです。実は、島の人のほとんどが平田なんですよ。その昔の平家の落人なんです。こんなところにまで平家は、落ち延びてきたんですね。さらに南の奄美まで「平田」さんはいるそうですよ。

で、うちの息子にジュースおごってくれるわけですね。島に唯一の自動販売機で。有難くいただいて、うちの息子は持っていた宮島の花火大会の団扇をおばあちゃんにあげて、再会を約束しました。

吉田:それは子どもとしてはいい体験ですよね。

平田:「『平田』いうのはこの島からお前の祖先は来たんじゃろう」って言うわけですよ、お婆ちゃんが。まぁ逆なんですけどね(笑)
そういういろんな体験をするうちに、うちの息子が「船乗りになりたい」と言って。で、いま大崎上島にある広島商船高等専門学校に行ってるんですよ。

吉田:すごく影響を受けているんですね。では、いま実家を離れて?

平田:そうですね。寮生活です。息子はどうも中学校のときから船乗りになりたいと考えていたようです。
船は小さいときから好きで、船の模型を一緒に造ったりとかしてましたが、本当に職業として船乗りになりたいって知ったのは中学生のときですね。

吉田:それ聞いたときの父の思いはいかがでしたか?

平田:それは嬉しかったですね。実は、私は海のおじいちゃんという人に出会って建築家になったんですが、本当は息子の行ってる商船学校に行きたかったんですよ。中学校のとき。

吉田:そうですか。平田さん自身もそういう思いがあったんですね。

平田:ところが当時は、裸眼で視力が1.0ないとダメで。パイロットでもいまは関係ないんですが、当時は商船学校も入れなかったんです。機関科は0.6以上、航海科は1.0以上ないと行けなかったんですよ。それで諦めたというのもあって。

吉田:もしや建築家よりもそっちのほうがよかった?

平田:そっちがよかったですね(笑) いま息子は商船学校で勉強をしてますが、それとは別に、観音マリーナという広島のヨットの中心地があるんですが、毎週練習のために帰ってきてるんですよ。実は、学校のヨット部が休部になってしまって・・・

吉田:商船高校なのに、そんな状況なんですね。

平田:彼が1年生のときに指導者がいないという理由で休部になってしまったんです。そんなわけで、いまは観音マリーナに来ています。ここはここでね、コミュニティがあって、素晴らしいんですよ。時々手伝いに行ったりするんですけど、ホント素晴らしい。で、なんとなんと・・・

吉田:えっ、どうしたんですか?

平田:先月9月に広島県代表で国体に出てくれたんです。

吉田:すごい!

平田:そうです。少年男子、少年女子ってあるんですけど、それの420級っていうので出てくれて、堂々の26位で(笑) すいません県の費用使って。

吉田:いやいや出場するだけですごいですよ。

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自分がやりたいことを通じて生き抜く力を醸成
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吉田:ヨットに乗って、ほかにどのようなところに行くんですか?

平田:大黒神島(広島・江田島市)という瀬戸内海にある無人島に行くんです。そこにプライベートな入江があって、メンバー10人で別荘を作りました。子どもたちも連れて行って、海水浴をしたり、流しそうめんをしたり。自分が東京にいるときから開催しているので、今年で25年目を迎えます。

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大黒新島の海岸で遊ぶ子どもたち

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BBQでのひととき

吉田:本当にのんびりと過ごせていいですね。海や景色もすごくきれいですし。

平田:こういうときにすごくありがたいのは、家族だけで行くと目が離せないのですが、大人や年上の子どもたちが面倒を見合うんですよね。

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吉田:そうですね。やっぱりそういう関係性が大事ですよね。特に、少子化でひとりっ子も増えている中で、いろんな人たちと関わっていくことが子どもの成長にとってプラスなことだと思います。自分が代表を務めるグリーンパパプロジェクトでも父子や家族など集団で地方に行くということをやっていて、多くのパパたちが関わることの大切さをまさに実感しているところです。

平田:こういう経験が活きたのか、うちの娘はボランティア団体やNPOが企画する、自然体験のキャンプに参加するようになりました。小学生から中学生が対象のキャンプで、期間は2泊から長いときは2週間くらい。広島中心部から車で1時間くらいの自然豊かな場所で開催されています。

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キャンプの様子(平田さん提供)

キャンプでは7、8人のグループを作って行動するのですが、全員違う学年でメンバーを構成するそうです。同い年の子とか同じ学校の子は絶対グループにしない。そのグループ全員で1つの目標を掲げて、それを達成できるようみんなで取り組む。グループには教育学を学んでいる大学生のリーダーがついて見守ってくれるそうです。最初は泣いたり喧嘩したりでグループ内が大変な状況なんですが、終わる頃には別れに涙する大切な仲間に変わるようです。そういう活動に参加しはじめて、すごくたくましくなりましたね。

あと、キャンプと言えば、やっぱりギターができないといけないんですね(笑) なので、ギターを一生懸命練習していて、高校になったらスタッフとして参加するんだと張り切っています。

吉田:中3(当時)でギターはかっこいいですね。娘さんも自分の道というか、それは仕事じゃないかもしれないけど、「自分はこういうことやりたい」という気持ちをしっかりと持っていますね。

平田:はっきりしてますね。息子よりもはっきりしてます。

吉田:では、お父さんにもズバズバと言ってくる感じですか?

平田:そうですね。タジタジですね(笑) これまた的を射てるというか。女の子は精神的に早くに大人になるし、よく物事を見てますね。

吉田:反抗期はなかったんですか?

平田:まったくないですね。まぁ、まったくないというのは嘘だと思いますが、普通の子みたいな反抗期はないですね。

吉田:けど、そうやって普段会話する中である意味言いたいことを言えてるし、そうであれば反抗する必要もないですよね。そういう関係性が構築できているというのは、ヨットや自然体験などの経験があるからこそじゃないかと思います。

平田:あとは、家もバリアフリー化して、扉が全部閉まらないようにしてあるんです。もちろん本当に閉めようと思えば閉まるんですが、普段閉めることはありません。
一度、彼女が好きなバンドのライブに行きたいというので、最初は帰宅が遅くなるので反対していたんですが、そうしたら企画書を作ってきて説得されたことがありました(笑) 結局、抽選で落ちてしまったのでそのライブに行けなかったのですが、そのときはひどく落ち込んで、さすがに部屋を閉め切って、ギターを思いっきり弾いてましたね。

吉田:子どもが悩んだり落ち込んだりしたときに、親としてどう関わっていくのかというのは常に考えますよね。
子どもの生き抜く力をいかに育てていくかは親の役目として一番大切なことではないかと思っています。教育する機会を与えることはもちろん大事ですが、人間としてどう育てていくかのほうがもっと大事だと思っています。そういう意味で言えば、平田さんとお子さんとの関わり方は、すごく手をかけているというわけでもなく、しかし子どもにとって大切なものを経験しているような気がします。

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平田:子どものチャンスを絶対につぶさないようにすることだけは心掛けています。人に出会える機会とか、キャンプに行きたいというのもそうですね。息子のほうはいまバンドをやっていて、ドラムを習っているんです。

吉田:自分のやりたいことに本当に熱中しているんですね。

平田:そういうことは応援するようにして、絶対に遮らないようにしています。もちろんお金が許せばですけどね。
あと、うちの子どもたちは音楽好きというのもあるのですが、僕たち家族が両親と同居したときに住んでいた離れのスペースがあって、いまそこに広島県内の研究所に勤めていたアメリカ人の夫と日本人の妻の夫婦が住んでいるんです。家賃の一部はうちの子どもたちに音楽を教えること(笑) ギターやバイオリンを教えてもらったり、息子はたまに英語も習っていますね。
息子は船乗りを目指しているので英語ができないといけないんです。ただすごく苦手だったので、「お前も英語を教えてもらえ!」って感じで本当に助かってますし、彼らはリタイヤした後、一旦アメリカに帰っていましたが、なんとヨットで太平洋を渡って日本に戻って来たんです。そんな世界観も感じてもらいたい。


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子どもたちに影響を与える環境づくり
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吉田:そのご夫妻は2人で生活しているんですね。

平田:そうです。私たちが実家に戻ってきたときに、離れの壁をぶち抜いてワンルームにして仕事場にしていたんですが、それがかえって暮らしやすかったようです。母屋とは渡り廊下でつながっています。

家の前には芝生の庭があるのですが、毎日仕事に追われて、僕としては草を抜いたり植木の手入れをするのが苦痛なわけです(笑) しかし、この夫婦は時々二人で庭の手入れをしてくれます。彼が「平田さんはどうして庭を楽しまないのか」と言うんです。よく「バーベキューしよう」と言って、セッティングして招待してくれるんです。

吉田:自分の家なのに「招待」って面白いですね(笑)

平田:とにかく庭によく出ていますね。天気のよい日は特に。

吉田:外に遊びに行くとかじゃなくって、庭に出かけるんですね。

平田:気候がいいときにはちょっとした作業は庭でしたり、お茶を飲んだり、読書をしたり、と外を楽しんでいます。こうした生活ぶりも子どもたちに影響を与えられたらと思ったので来てもらったんです。そうしたら、案の定、影響を受けてますね。
子どもたちを育てる上で意識したことは、自分とは異なる国・地域の人、年が離れている人、考え方が違う人、こういう人とくっつけちゃうことですね。

例えば、設計をしているクライアントにお子さんがいると、休日の打合せにはうちの子どもたちも連れて行くんです。うちの子どもには、打合せの間クライアントのお子さんの面倒を見てねと言ってますが、子ども同士ですからすぐに打ち解けて一緒に遊んでますね。でも、その家によって生活スタイルがまったく違っているわけです。会社員のお家、開業医のお家、会社を経営しているお家、わが家とはかけ離れた生活もあったりして、そういう方が大切にしているものとか考え方とか、そういうものも知ってほしいわけです。自分の父親がどんな仕事をしているのかというのも見てもらいたいですしね。

吉田:どんな関係性や環境を作るかで、子どもの育ち方って変わっていきますよね。親が「ああしようこうしよう」と考えるよりも、周囲の人間関係や環境いかんで、子どもたちが自分で育つ力を自分の中で養っていくことができると思うんです。平田さんはまさにそれを実践していると思います。

自分もいまひとり親で3人の子どもたちを育てていますが、正直1人で3人の面倒を事細かく見るのはできません。基本的には放牧状態です(笑) けど、それによって自分たち自身で考えないといけないので、3人とも自分なりに考えて行動してくれます。幸いにして3人の子どもたちに恵まれたことで、きょうだいという3人の関係性の中で学ぶことが多い。きょうだいという最少のコミュニティをフルに活用しています。

平田さんの育て方を聞いていると、方向性に共感するところが多く非常に感銘を受けます。人間としてもしっかり育っていく環境につながるんじゃないかなと感じました。


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家族や地域が交流できる家づくり
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吉田:ところで、本業の設計でもNPOの活動をしているとのことですが、具体的にどのような活動なんですか?

平田:「NPO法人住環境研究会ひろしま」に理事として参画しています。安全で健康的な住環境を求める人たちに、広島の気候風土に根ざした広島型の住まいの提案などを行いながら、住環境やまちづくりを一緒に考えています。2005年に立ち上げたので10年が経ちました。
以前、幼児のいる母親に今後どのような住まいに興味があるかを調査したことがありました(下記資料参考)。その結果、「子どもがのびのび育つ家」と回答した方が最も多かったんです。こうしたアンケート結果を基にして、「家族のコミュニケーションがとれる住まい」を1つのコンセプトにしています。
加えて、僕の元々の発想は建築設計の師匠である清家清が提唱した「私の家」という実験住宅にあります。「私の家」は1954年に建築学会賞を受賞しているのですが、扉がない家なんですね。
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出典 NPO法人住環境研究会ひろしま

吉田:まさに、いまの平田さんのコンセプトにつながるんですね。

平田:清家はハウスとホームは違うと指摘しました。「ゴーイングホーム」と言ったらアメリカ人は涙を流すけど、「ゴーイングハウス」とは言いませんよね。だから、「火事で家が燃えたとしても、家族の絆があれば問題ない」。どこにいても「家は心の中にできるもの」と清家は言ってました。
あと、設計をする際、よく「間取りをどうしますか?」という話になり、間仕切りとドアで部屋を作っていますが、清家は「間を仕切るなんてとんでもない。間は仕切るものではなくつなぐべき。日本には伝統的な設(しつら)えるという考え方があるじゃないか」と言うんです。

吉田:設える?

平田:ちゃぶ台を置けば食堂になる、ちゃぶ台を片付ければみんなの娯楽室になる、居間になる、そこに布団を敷けば寝室になる。年配の方は「戸を立てる」と言いますが、襖や障子を開け閉めして、生活のシーンに合わせて空間を設えるということです。
「食寝分離(しょくしんぶんり)」という戦後もてはやされた建築用語がありますが、昭和30年代に公団住宅を造るとき、寝るところと食べるところを別々にしたんです。当時の衛生上の問題解決や、西洋のモダンな生活にあこがれて作られたんですが、反面個室化が先行しすぎて、子ども室を作らないといけない、夫婦の寝室を作らないといけない、となって、日本の家はどんどん個人のプライバシーが優先されてきました。一方で、家族のコミュニケーションが取りづらい家になってしまったんじゃないかと。それは清家清も言ってるし、私も60年経った現在もその影響が残っていると思っています。だから、日本の原点に戻れば、家族に間仕切りはいらないということです。
うちの家も両親の介護用にリフォームしたため全部引き戸にしちゃったわけですけど、子どもたちが小学校高学年くらいまでトイレの扉を閉めたことがないですよ。空けっぱなしですよ、家族全員(笑)
もちろん、トイレがみんなのいるところからは見えないように設計してあるので、わざわざ閉める必要はないということです。お風呂に入る際も、僕や息子は脱衣所の扉を未だに閉めないです。閉めることを前提に作ってないわけですね。
これを実現するためには、建物の断熱性能の工夫や、床暖房などの空調設備が調っていることが必要なんですけど、基本的な考え方は精神的なもので、家族の中に余計な仕切りはいらないという作り方を清家が半世紀以上前に提唱していたんです。
清家が建てた「私の家」という実験住宅は、東京では広い300坪もある敷地に離れとして建てられたものでした。彼が自分の両親のために作ったバリアフリーの住宅でしたが、両親は、「こんな扉のない家には住めない」と言って、結局、清家の家族が住むことになりました。
ちなみに、清家清には4人の子どもがいて、わずか20坪のこの住宅に夫婦と子ども4人の計6人で暮らしました。とてもきょうだい仲が良かったようです。ちなみに、その子どもの1人がいまの慶応義塾大学塾長の清家篤さんです。

吉田:お~そうですか。もともと労働関係の雑誌の記者だったので、労働経済学の大家の清家先生を知らないわけがありません。
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本棚には師匠である清家清さんの本が並ぶ

平田:その後、清家夫妻は、「続私の家」という家を隣に建てて、「私の家」には長女の家族が住み始めます。次に篤さんが結婚をしたら、「倅(せがれ)の家」として発表しています。ちょうど僕が清家の事務所にいる頃で、篤さんは「普通の家にしてください」って言ってましたが(笑)
なので、家族の中でいつも入れ替わり立ち替わりで住んでいる感じですね。これに自分自身がすごく影響を受けて、広島でも取り組んでいます。さすがに東京だと、ものすごく贅沢な話になってしまいますが、広島の田舎だと土地が広いので案外可能だったりします。いま事務所に依頼が来る住宅の3件に1件は2世帯住宅なんです。
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出典 デザインシステム
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出典 デザインシステム

吉田:へぇ~、そうなんですか。

平田:だから広島はそれだけ環境がいい、ということですね。

吉田:子どもが一度実家を離れてもそのうち戻ってくるということですね。その中で、長く同じ家に住んで、世代も交代する中で、どのようにそこの環境の中で住み続けるかという考え方が必要ですね。

平田:住まいは、たいがい子どもの成長期に合わせて建てる方が多いので、子どものことばかりに目が行って、将来のことはあまり考えない傾向にあります。将来、夫婦2人になることを考えたり、両親の老後を考えたり、もうちょっと次につなぐことまで考えられたらいいねということです。それが広島だと割とできるんです。この事務所の向かいにも自分が設計した家があります(下記写真参考)が、この家の反対側には実家もあるんです。昔からあるお宅だったんですが、その隣の土地がたまたま売りに出たので、息子さんの家にどうですかと勧めて。で、これが若夫婦の家になりました。実家のお庭を共有しながら、3人の男の子が元気に遊んでいます。
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出典 NPO法人住環境研究会ひろしま

吉田:母屋が丸々見える設計なわけですね。

平田:ええ、そうなんです。この住宅は、ひろしま住まいづくりコンクールで「県知事賞」をいただきました。県の建築賞は創設から5年連続で入賞していて、最近では、廿日市市に8戸の住宅群を作ったんですけど、そこでは「住まいのまちなみ賞」をいただきました。一貫しているテーマは、次の世代へ地域をつなげる住まいづくりです。街中ばかりじゃなくて広島の中山間地域では、母屋があって隣に納屋や蔵などがよくありますが、隣の使われていない部分をリフォームしたり、建て替えたり、母屋とつなげたりして、若夫婦の家にしています。このような住まい方を、近接居住とか、隣居型住まいという言い方をしてます。

吉田:隣居ですか。

平田:まぁ二世帯住宅ですよね、言うなれば。つまり三世代が住んでいるわけです。農業も若い人に手伝ってもらって、ということができるのがいいですよね。子ども(孫)たちの成長を共に喜び、互いに支え合う暮らしです。地域に住み継ぐことは、将来に渡って家族全員にとっても大きな支えとなると思います。

吉田:こういうつくりの家はなかなか見ないですよね。

平田:だからなるべく勧めるんです。そのルーツは師匠である清家清から来ています。

吉田:それは平田さんにとってある意味運命ですよね。東京で2、3年だけ勤めて広島に帰ろうと思っていたのが、清家先生のところで経験を積んで、それが糧になってまた広島へ戻ってきて、自分のキャリアを作っていくための重要な素材になっているわけですからね。

平田:実は清家の事務所に勤めていたときは、僕は1件も住宅の設計をやっていないんです。バブル時代でしたから、大きな建築物ばっかり。だから住宅設計をやってみたかったんです。

吉田:いま仕事の大部分はやっぱりこういう住居関係ですか?

平田:仕事の半分が戸建て住宅で、半分が集合住宅とか病院とかお店とか介護系施設とか様々ですね。最近デイサービスセンターを設計しましたが、住宅以外の施設でも、その地域の人々とのつながりはすごく意識していますね。

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若い人たちがもっと広島で活躍できるように
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吉田:いまどういう人たちに広島に来てほしいですか?

平田:いま広島工業大学で講師もしていて、この事務所にも卒業生が勤めてくれていますので、まずいま広島にいる若い人たちにはもっと広島に残ってもらいたいという気持ちはありますね。それは仕事の世界だけではなく、ヨットとか趣味の世界もそうです。若い人で何か頑張りたいと思っている人や、これまで広島の地域を支えてきた先輩たちと一緒に何かやりたいと思っている人はもう大歓迎です。

吉田:実際に平田さんがきっかけでこっちに移住してきた人はいらっしゃったりするんですか?

平田:私がきっかけで帰ってきた人かぁ。それは、直接的にはまだいないかもしれないですけど。まぁ間接的に影響を受けて帰ってきた人もいるかもしれませんね。

吉田:広島工大の学生でも、建築系だと就職するときはまず東京などの大都市部が多いのでしょうか?

平田:それがですね。私が広島工大で学生だった30年前は建築学科という1つの学科しかなかったんですが、20年くらい前に2つの学科に分かれました。1つはエンジニア系の建築工学科で、もう1つはデザイン系の環境デザイン学科です。2016年度から環境デザイン学科は、新たに建築デザイン学科に生まれ変わります。大学も時流に対応してるんですね。
エンジニア系の建築工学科は、卒業後、ほとんどが東京や大阪のゼネコンに就職して、施工管理の仕事、すなわち現場監督になる人が多いようです。とにかく大きい会社に入ってしまうので、約7割の学生が県外に出ちゃう状況ですね。
ところが、もう1つの環境デザイン学科の卒業生は約8割が、中国地方から来た子は中国地方に帰り、そのうち約6割が広島県内に残るといった感じですね。地元志向なんです。いまはとにかく出生数も1人2人と少なくなってきたので、地元に残したいという親御さんの意向も強くなってきたのではないかと思います。
いま大学の同窓会役員もやっていて、先日オープンキャンパスにお手伝いに行ったら、入学を希望している親御さんが質問してくるんですね、「うちの子どもは卒業後、広島に残れますか?」って。僕からは、「残れますよ、ただ地場の企業の給料は安いですよ」と言うんです。大手に行ったら倍くらいもらえるかもしれませんが、でも僕は「顔の見える仕事がここではできますよ」と勧めています。
「広島での生活は豊かだし、楽しいし、子育てしやすい」と言うと、お父さんとお母さんは「ううん?」と怪訝な顔をするんです。けど、おばあちゃんまで一家揃って来られることがあるんですが、そのおばあちゃんは「いまどきそんな大きい会社でもすぐ潰れるけぇ、わからんよ。地元がええけぇ」って言うんです。

吉田:おばあちゃんが地元に残ることを勧めるんですね。

平田:お父さんとお母さんはいま子どもの学費を払うことで精一杯です。授業料などで年間150万円くらいかかりますからね。そうすると、私立大学に子ども2人が行ったりしたら、もうちょっと家計は大変なことになります。子どもには同じ苦労をさせたくないって感じでしょうか。優秀だから東京に出せみたいな大学の先生もいますけど。でも、やっぱり優秀な人こそ地域に残ってもらいたいですね。

吉田:平田さん自身の経歴を考えると、東京で多少揉まれて、人材育成してもらってから帰ってくるのがいいなぁと思ったりするんですが。

平田:もちろん、それはいいと思うんですよ。僕も学生に、若いうちに外に出て修行してこい。地元のことは外からみないとわからないと言ってるんですが、でもいまの学生はあんまり出たがらないんです。

吉田:ちょっと内向き志向になっているのかもしれませんね。少子化の影響もありますが、日本人の海外留学生が減っていることと要因は似ているかもしれませんね。ただ、それはそれでうまく地域に残っていくことでその地域にとって貴重な存在になると思います。留まるなら留まったなりの人間関係を持ってもらって、自分の力としてどんどんつなげていってほしいですね。まぁ、それもその人の動き方いかんに因るのでしょうが。

また、そういう若い人たちが平田さんの影響を受けたりして広島で活躍してもらえればもっとこの地域が面白いことになるんじゃないかと思います。

今日はありがとうございました。

平田:ありがとうございました。