原爆投下への「感謝」について

数日前にウォールストリートジャーナルがこんなコラムを載せていた。時節柄ということだろう。原爆投下70周年という節目でもある。

数日前にウォールストリートジャーナルがこんなコラムを載せていた。時節柄ということだろう。原爆投下70周年という節目でもある。

【オピニオン】原爆投下を神に感謝」(WSJ日本版2015 年8月7日)

原文はこちら。以下ことわりのない限り日本語訳記事をもとにひとことだけ書く。

読んでない人向けにこのコラムの内容を今北産業的に(それで十分だ)説明すると「広島と長崎への原爆投下は本土決戦に突入すれば失われたであろう米兵と日本人の命を救い、日本を平和国家として復興させた、ありがたいことだ、神に感謝しよう、といったところだ。

何を言ってやがる、と思う人も多いと思う。そもそも「神に感謝」とはいったい何だ、その「神」とやらは日本のキリスト教徒にとっても「神」だろう、その「神」が日本人を殺せと命じたとでもいうのか、自分たちの蛮行を神のせいにするのか。日本のキリスト教関係者は怒っていいのではないかと思うが、それはさておき。

原爆投下の客観的な意味での必要性に関しては、原爆を使わなくても日本は早晩降伏しただろうから「本土決戦」での膨大な死者へのおそれは意味がなかった、むしろソ連の参戦で戦後の共産主義勢力圏の拡大を恐れた、原子爆弾そのものの実験という要素があったなど、いろいろな指摘がなされている。それぞれの検証は専門家に任せるが、それなりに根拠がありそうに思われる。

WSJはもとから保守的な論調で知られているが、実際のところ、こういうロジックは少なくともアメリカ人の間では珍しいものでも過激なものでもない。つい最近ピュー・リサーチが行った世論調査でも、56%のアメリカ人は「原爆投下は正当化される」と答えている。「正当化される」という意見は以前より大幅に減ってはいるが、ここ10年ほどはほぼ同水準となっている。

とはいえ、ここで注目したいのは、このコラムに垣間見える「いいにくそうな感じ」だ。このコラムの筆者ブレット・スティーブンスはWSJ論説室の副委員長で、2013年にピューリッツァー賞報道部門の論説賞を受賞した。ごりっぱな経歴の方だが、少なくともこのコラムに関していうなら、切れ味は正直あまり鋭くはない。特にこのあたり。

広島と長崎への原爆投下は実際に起きた出来事なので、その惨状は否定できない。その一方で、本土上陸作戦は中止になったので、実行されていた場合の惨状を否定する声も多い。日本沖で原爆実験をしていれば、日本国民はそれに驚いて降伏していただろうか。日本を降伏に追い込んだのは、長崎への原爆投下よりも、その日に始まったソ連軍による満州侵攻だったのか。本土上陸作戦が実行されていた場合の犠牲者数は、本当に2つの原爆の犠牲者数(25万人近いという説もある)を上回っていたのだろうか。

われわれには知る由もない。

本当に意味があったかどうかはよくわかんないけど今それほど悪い状態とは思えないしいいんじゃないの、というロジックで、むしろやや「苦しまぎれ」といった印象すら受ける。上掲のピュー・リサーチの調査で「原爆投下は正当化できる」と答えた全体の半数にあたるアメリカ人の多くは、スティーブンスよりもっと直截に、「原爆投下は必要だった」と主張するだろう。軍関係者ならなおさらだ。

このコラムもアメリカ人の過半数を占めるそうした意見を念頭に置いてのものとは思うが、それにしてはあまり威勢がよくないようにみえる。スティーブンスは、第二次世界大戦で戦った文化評論家、ポール・ファッセルが1981年に書いたエッセイをふまえてこう書く。

原爆投下70周年を迎えた今週、米国は原爆の被爆者に謝罪しなければならない、核兵器は廃絶されるべきである、広島は非人道的な残虐行為の記念碑だ、日本はもう少しましな形で敗戦を迎えられたはずだ、といったうわべだけの言葉が多く聞かれるだろう。しかし、ファッセル氏が指摘した基本的なポイントが広く理解されるかは疑問だ。広島と長崎への原爆投下は単に戦争を終わらせた恐ろしい出来事ではなかったということだ。多くの人々の命も救ったのである。原爆は大日本帝国を平和主義者の国に変えたのだ。

現在のオバマ政権の姿勢を批判する意図もあるのだろうが、実態はともかく、原爆投下をよしとしない世論が一般的になりつつあることを苦々しく思う、といった論調だ。

私見だが、こう書かざるを得ないほど、アメリカ国内においても、原爆投下を正当化する意見は、全体としてはともかく、少なくとも知識階層や影響力ある人々の間では、旗色が悪くなりつつあるのかもしれない。通常兵器が核兵器よりも「人道的」かどうかは別として、少なくとも、核兵器による被害が悲惨で非人道的なものであったことは否定のしようもない。原爆による被害の実態や投下の経緯についても、次第に知られるようになってきた。

だからこそ、彼らはこうして、「自分たちは正しい」と主張せずにはいられないのだ。客観的、大局的なよしあしは別として、彼らが原爆投下によって救われた部分は確かにあっただろう。それに、米国側の事情はさておき、日本側が原爆投下がなかったら終戦の決断をできなかったのではないかという指摘については、確かにそうかもしれないと思う。もちろんソ連参戦の影響もあったにせよ、1つの都市を1発で丸ごと破壊できる爆弾が日本中の都市に、というか東京に落とされたらいったいどうなるかといった考えが、終戦の判断に影響を与えなかったはずがない。

どんな意思決定や行動にもよい面と悪い面がある。どちらかにだけ注目するというロジックなら、イラクに大量破壊兵器があるとしてイラクに大量の劣化ウラン弾を撃ち込んで独裁政権を倒したものの結果として大量破壊兵器はなくかえって地域を不安定化させたイラク戦争にも、ダイオキシンを含む枯葉剤を大量にまき散らして自国兵を含む多くの人に健康被害をもたらしたベトナム戦争にも、何らかの「正しさ」はあったのではないか。日本のアジア侵略にも中国の天安門事件にも、あるいは米国同時多発テロ事件にだって、ある部分だけ取り出すなら、「よい影響もあった」と主張することも不可能ではないだろう。もちろん全体のバランスとしてどうかは別問題だが、そこには立場や意見の差というものもある。その意味では、そもそも「誰にとって」「どういう意味で」を抜きにして「正しかったか」といった問いをたてること自体があまり適切ではないのではないのかもしれない。

いずれにせよ、こうした状況は、長く続くだろう。これからも夏が来るたびに、「原爆投下は正しかったか」をアメリカ人たちは議論するはめになる。彼らが「正しかったか」をイシューにせずにはいられないこと自体が、彼らがかつてやったことによって負った「業」のようなものだ。日本人がアジアでしたことに対して何度も謝罪を迫られ、それに反発する声が起きるのと構図は少し似ている。

日本ではこの時期、自分たちがしたことを振り返り、じっくり考えてみる機会がある。夏はそうした考えをめぐらすのにいい季節ではないか、と前に書いたことがあるが、アメリカ人にとってもそうなりつつあるのだとすれば、それは悪いことではない。スティーブンスが指摘するように、多くの日本人は、アメリカを恨んではいない。しかしそれは、原爆を投下し(てくれ)たからではなく、それ以後に彼らがしてくれたことへの感謝があるからだろう。「原爆投下が正しかったか」と彼らが問い、問われ続けることで、彼らがこれまでより賢明に判断し、よりこれまで慎重に自らの持てる力を使うようになるのだとすれば、その限りにおいて、私たちも原爆投下に「感謝」すべきなのかもしれない。

(2015年8月14日「H-Yamaguchi.net」より転載)

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