男性保育士外しという差別

グレーの領域で、それが社会的に許されるかどうかは、さまざまな要因によって変化する。

千葉市の熊谷俊人市長の発言がきっかけで今話題になってるこの件。

関連でいくつかツイートしたらそれなりに反響があったので、少し補足しつつまとめてみる。

この件は、千葉市が2017年1月18日に策定した「男性保育士活躍推進プラン」について、熊谷市長が、「女性活躍を推進する一方、本来のダイバーシティー(多様性)を考えると男性活躍を推進する必要があります」とし、女児の保護者の『うちの子を着替えさせないで』といった要望を「女性(保育士に対しての発言)なら社会問題になる事案」と問題視したことに端を発している。これに対して、「その通り」という賛成意見や、「それは違う」といった反対意見が寄せられている、という状況だ。

ちなみにその後、熊谷市長は、それらの反応に対して、フェイスブックでコメントをしている。

私は市長の意見に賛成だったのでそのようにツイートしたわけだが、私のところにもいくつか意見が寄せられた。こちらも賛否両論だった。

男性保育士に扱わせるべきではないとする反対意見をざっとみると、こんなところだろうか。

(1)女性の裸は男性の裸より重大な性的プライバシーであるから

(2)保護されるべき女性が我慢を強いられるのはおかしいから

(3)男性保育士による幼児への性的虐待が多いから

(1)はまあ社会的には常識的な意見といえる。女性水着の方が男性水着より隠すべき部分(面積はいざ知らず)が一般的に多いのはそのためだろうし、オフィスビルなどのトイレ掃除の仕事は、個人的に見聞する範囲では圧倒的に女性が担当されるケースが多いように見受けるが、それもおそらくはこの理由によるのだろう。

しかし、そうではない場合はある。たとえば医師。好みは別として、男性医師が女性を診察したり手術したりといったことはふつうにある。以下のサイトはソースが示されていないのでデータがどの程度信頼できるのか知らないが、とりあえず信用すると、特に女性が気にする領域であろう産婦人科医における女性医師比率は31.5%だ。全体の女性医師比率である19.6%より高いが、それでも男性医師の方が多い(勤務の厳しさやリスクなどの点で産婦人科医が敬遠されやすいと聞く)。女性医師を希望する女性は少なくないと思うが、この人数比からみれば、それでも男性医師を選ぶ人の方が多いとみてよいだろう。

こういう例を出すと「医師の場合は話が別。極端な例を出すな」という批判がくるわけだが、これが「極端な例」なのかどうかがこの問題の1つのポイントだ。つまり、これを「極端」と思う人は、「医師は特別な職業だが保育士はちがう」と考えているということだろう。つまり、保育士という仕事は、上の例でいえば、医師よりもトイレ掃除に近いということになる。

しかしそれはどうだろうか。保育士は国家資格を必要とする職業だ。児童福祉法第18条の4に「保育士とは、第18条の18第1項の登録を受け、保育士の名称を用いて、専門的知識及び技術をもって、児童の保育及び児童の保護者に対する保育に関する指導を行うことを業とする者」と定められていて、保育士になるためには、厚生労働大臣の指定する「指定保育士養成施設」を卒業するか保育士試験に合格する必要がある。このサイトによれば、「保育士試験の合格率(通常試験)は、10%〜20%の間を推移」「平成27年度の合格率は22.8%」とある。一方、トイレ掃除を軽くみるつもりはないが、少なくとも国家資格が必要という話は聞いたことがない。

もちろん、医師は同じく国家資格であるがその難易度はだいぶちがうだろう。とはいえ、保育士は明らかに、一定の資質や能力を問われる専門職として扱われているという意味で、トイレ掃除よりは医師の方に近い存在であるはずだ。医師とはちがう、という意見は、私には保育士の専門性を否定する発言のように思われる。性差別であると同時に、保育士という専門職に対する差別でもあるといっていいのではないか。

この話は、男女を裏返した場合もなりたつはずだ。国際的に事業展開している人材サービス会社randstadが2016年に行った調査があって、「直属の上司に男性を求める日本人女性は67.8%」なのだそうだ。「グローバル平均」(同社が展開する39か国だろうか)では58.2%なので、それより高い。しかし、「男性上司の方がよい」という部下の意見があるために女性社員が管理職に昇進できないとしたら、問題視されるだろう。千葉市長が「女性(保育士に対しての発言)なら社会問題になる事案」と指摘しているのはそういう意味だと思う。

これに対して「いや男性差別を問題にする前に解決すべき女性差別があるだろ」というのが(2)の意見なのかもしれない。「男女平等」は差別されている女性を引き上げること、ないし優遇されている男性に制約を課すことなのであって、その逆は当面捨て置いてよい」という発想だろうか。確かに「総じていえば」、男性は女性より多くの面で恵まれた状況にある。だが、全体としてそうだからといって、個別の事例に同じ考え方をあてはめていいものだろうか。少なくとも保育士の世界で、男性保育士が一部の保護者などから嫌がられ、場合によっては働く機会の減少になってしまうかもしれない状況は、世の中一般で男性の方が概ね給料や社会的地位が高い、家事分担が少ないなどの理由で正当化されうるものなのだろうか。

もちろんそういう考え方もありうる。だが、それは行政など公的機関が受け入れられるものではないだろう。PISA(OECD生徒の学習到達度調査)というのがある。15歳時点の学力を測るものなので、大人にそのままあてはめるのは本来おかしいが、とりあえずあてはめてみる。PISAにおいて、数学の成績は女子の方が男子より悪いそうだが、では女性は数学教師になるべきではない、という主張を正当化できるだろうか(逆に、他の科目も合わせれば総合的には男子の方が女子より全般的に得点が低いので、男性は教師になるべきではない、としても同じことがいえる)。

男女共同参画社会基本法は第1条で「男女共同参画社会の形成を総合的かつ計画的に推進すること」を目的として掲げ、第2条で、その「男女共同参画社会の形成」を、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会を形成すること」と定義している。少なくともこの立場からは、男女裏返しておかしいと思われるものは正当化されないはずだ。

それに、男女共同参画社会は文字通り男女双方が力を合わせて実現に取り組むべきものであって、そのためには男性の協力も欠かせないだろう。「男は恵まれてるのだから権利主張などせず黙っていうことを聞け」といわんばかりの態度でこられたら、協力する動機を殺がれるのはいうまでもない。男性の中でも相対的に恵まれていない人であれば、なおさらだろう。そうしたやり方がかつてはある程度奏功したのかもしれないが、今の状況には合わないと思う。

そう考えてくると、(3)のような考え方は、属性で人を判断し、偏見を抱くことに他ならない、といえる。確かに、報道された事例で、保育士による幼児の性被害の加害者は見聞する限りほとんど男性であったように記憶している。だが、日本に保育士はおよそ40万人いる。その中で、加害者となったのはほんの一部にすぎない。その事例をもって、男性保育士全体を忌避する理由とするのは、イスラム過激派がテロを起こすからイスラム教徒の入国を認めないとか、一部の生活保護受給者が不正受給をしているから生活保護を削減せよとか、そういった主張と同類といわざるを得ない。

せっかく「極論」と批判されたので、こちらも「極論」で返しておこう。平成25年版警察白書に「平成24年中の児童虐待事件の検挙件数は472件、検挙人員は486人」とある。このうち死亡事件の加害者は28人だが、この中で最も多いのは実母21人、次いで実父3人である。身体的虐待で検挙された加害者353人の中では実父が143人と最も多く、次いで実母が83人であった。児童虐待事件で最も警戒すべき加害者予備軍は両親であり、したがって被害を減らす最も効果的な方法は子どもを両親から引き離すべきである、ということになりはしないか。「ペドフィリアがいるから男性保育士はだめ」という意見はこれと同類の暴論だと思う。

とはいえ、上記(1)~(3)のような意見があること自体を否定すべきではない。それは人間の自然な感情であり、誰しもがつい抱いてしまうものだからだ。

ここが最も本稿で言いたいことで、別に誰かを糾弾して留飲を下げたいとかそういうことではないし、女性への性差別の問題を矮小化したりしようということでもない。

つまり、こうした差別は、どこかにいる誰か知らない悪い奴がやる極悪非道なふるまいで、今すぐ根絶すべきであって、そんなことをしている奴はどんなに罵倒されても文句はいえない、自分たちはそうしたものとは無縁だ、といったシロかクロか的二分法思考こそが、最も危険で、かつ問題の改善から事態を遠ざける、といいたいのだ。

個人として男性保育士が嫌だというのは好みの問題だから、それが内心にとどまっている限り、個人の自由だ。そこでも、男女は平等であり、保育士のプロフェッショナリズムに対する敬意はあってしかるべきだし、もしそうであれば、嫌だと思うこと自体に倫理的な葛藤を抱くのが自然だと思うが、それを他人に押し付けようとは思わない。個人的にはそういう性差別はちょっと引いてしまうが、その人が内心で、自身の好みを優先しても文句をいう筋合いはない。

何か行動に移すとしても、個人の選択の自由として社会的に許容される部分はある。保護者が自分の判断で男性保育士がいない園を選ぶのは誰も批判できまい。実際そういう人もいるだろう。だが、たとえば地元の園に男性保育士がいるからといって、行政に「男性保育士を雇うな」と要求したりすれば、これは差別をせよと公的に言っているのに等しい行為だ。そうした要望に対処している自治体も中にはあるのかもしれないが、もしあるなら重大な人権問題だ。

問題のない「シロ」と問題である「クロ」の間に、広大なグレーの領域がある。「男性保育士に女児の着替えをさせるな」などと園に声高に要求したりするのはクロに近いグレーだろうが、事情を話してていねいに頼んでみるのであれば、よりシロに近くなるだろう。園の側も、要望があるなら、余裕のある限り対処してあげるべきだろうし実際多くの場合はしてくれるのではないか。ただそうもいかないときはあるだろうから、そういうときは彼らのプロフェッショナリズムに任せるしかない。それが嫌なら違う園を選ぶしかない。

産婦人科医については、近年、女性医師を求める声が患者側から多くあるらしい。まあ患者側の気持ちとしては自然だろうが、女性医師の人数がまだ足りないから、あるいは最初から特に気にせず、男性医師を選ぶ人もたくさんいるはずだ。程度はちがうだろうが、保育士も足りていない自治体が多い。少なくとも千葉市はそうなのだろう。つまり、保育士全体が足りない中、男性保育士は貴重な戦力なのであって、彼らをよりよく活用することは、女性の社会参加を推進する上でプラスになる面もある。

このように、グレーの領域で、それが社会的に許されるかどうかは、さまざまな要因によって変化する。いちがいにいえる話ではないはずだ。

それが「シロかクロか」になってしまうのは、差別を許せない絶対悪で、自分には縁のない行為としてとらえてしまうからだ。自分は差別なんて絶対にしない、だから自分がやっているのは差別ではなく正しい権利主張。でも相手がやってるのは差別。悪いこと。だから罵倒してもいい。裏返せば同じ問題なのに、善と悪とに切り分けてしまうわけだ。

実際にはちがう。差別はどこからがそうでどこまでがそうでないのかがはっきりしない、境界があいまいなもので、かつ、どこかにいる悪い奴がやるとは限らず、むしろ自分や身近な人たちが日常生活の中で自然に抱く感情であり、つい言ってしまったりやってしまったりすることだ。しかし私たちは通常、そうとわかっていれば、それらを全部そのまま外部に出すことをよしとしない。それはよくない、と自分自身がわかっているからだ。クロい部分は内心に封印し、グレーの部分は少し薄くしてから外に出す。

しかし、自分がまったく悪くないと思ってしまうと、そのタガがはずれる。自分のクロい部分をさらけ出して声高に主張してしまうことになる。自分たちが「正義」だと信じる人々がそれゆえに妄言や蛮行に走るさまを、私たちは今、世界中で目の当たりにしている。お坊さんなら「鬼」と呼ぶかもしれない、こうしたものこそが、私たちが最も警戒すべきことで、この議論が「鬼」に支配されるを見たくない、というのがこの文章を書いている動機だ。私たちは誰でも、差別を行ってしまう可能性がある。してしまったら、謝るなり改めるなりすればよい。そのようにゆるく考えないと、自分を守るために「鬼」が跋扈するのを許してしまうことになる。

念のため再度強調しておくが、女性の意見を踏みにじれといっているのではない。誰かを糾弾するためのものでもない。むしろその逆で、善悪二元論に陥ると、私たちは敵味方に分かれて互いに「鬼」となり、馬糞を投げ合うことになる、それはぜひやめてくれということだ。男女問わず、保育士をめぐる状況は、今のところ、決していいものとはいえない。男性保育士についても、もっと多様な意見があると思う。冷静に、敬意をもって議論することで、よりよい社会の実現をめざす。それこそが「男女共同参画社会」というものだろう。

(2017年1月26日「H-Yamaguchi.net」より転載)

注目記事