折り鶴を迷惑にしない3つの方法

不足してるのは生活に必要な物資だし忙しいのに使えないものを送られても処理に困るしというわけで、要は送られると迷惑という話だ。

熊本地震に関連して、被災地に折り鶴を送るなという話がある。不足してるのは生活に必要な物資だし忙しいのに使えないものを送られても処理に困るしというわけで、要は送られると迷惑という話だ。他にも古着や生鮮食品などは対処に困るらしい。気持ちはありがたいが、ということだろう。

『千羽鶴・古着・生鮮食品は要りません』 被災地が困る「ありがた迷惑」な物とは」(J-CASTニュース2016年4月18日)

千羽鶴や応援メッセージ、汚れた古着や使用済みの毛布など、被災地に届いても「処分」するしかない品々もある。95年の阪神淡路大震災の際には、こうした「使用できない救援物資」の処分で、被災した自治体が2800万円の費用を投じたケースもある。

この種の話は東日本大震災以降、ひんぱんに聞くようになったように思う。なかなか言いづらい話ではあるが、大きな災害を機に、実際に役立つ支援とは何かを真剣に考える人が増えてきたのだろう。それ自体は悪いことではない。

とはいえ、せめてもの気持ちをと鶴を折ってきた人にとっては、つらい話ではあろうと思う。被災地の方にとっても、非常時でなければありがたいと思う部分もあるのではないか。というわけで、せっかくの折り鶴が相手の迷惑にならない方法はないものか、3分ほど考えてみたので手短に書く。

本題に入る前に、例によってちょい脱線。そもそもなぜ折り鶴を送りたいと思うのだろうか。我らがWikipedia先生によると、折り鶴が初めて文献に登場したのは江戸時代であるらしい。起源はよくわからないが、「鶴は千年亀は万年」ともいわれることから、いつしか長寿の願いを込めて折られるようになったようだ。

さらに例によって、大学が契約している朝日新聞のデータベースを調べてみると、1900年(明治33年) 5月 8日の「浅草区の奉祝準備かずかず」という記事に、5月10日に行われる皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の結婚祝賀のための飾りつけとして「折鶴を吊し」たと書かれている。これも「長寿を願い」の類だろうが、最近だとどうも折り鶴は病気とか災害とかのようなあまりよろしくない状況にある方への祈りといったニュアンスがあるように感じるのに対して、昔はそういうニュアンスは感じられない。

おそらくその微妙な変化は、戦争と関係があるのだろう。原爆の子の像のモデルとなった佐々木禎子の話がきっかけとなっている、という説明をいくつかの場所で見かけた。広島で被爆し、1955年に白血病のため12歳で亡くなった禎子は、入院中に病気快癒を願い1000羽以上の鶴を折ったとされる。このことは本や映画になり、海外にも伝えられた。一方、戦時中にさかんに作られた、出征兵士の無事を祈る千人針との関係を指摘する論文もある。数で思いの強さを表現する発想は千羽鶴と共通している。

ともあれ、かくして祈りのメディアとなった折り鶴だが、その「本場」である広島では以前から問題になっていたらしい。もともと広島では年間10トンにも及ぶ、世界から送られてくる折り鶴を年4回焼却処分していたが、2002年に当時の市長が永久的保存の方針を打ち出した。最近は再び方針を改め、「寄贈者が込めた思いを「昇華」させ平和の願いを広げる」ことにした由。平時ですらこういう問題があるわけで、被災直後の混乱したところに送り付けられても困るというのはまあ道理ではある。

秋葉前市長の長期保存構想から一転 折り鶴活用アイデア公募」(中国新聞2011年5月30日)

送られる側に負担の大きい「折り鶴」の処分方法、広島の取り組みが注目を集める」(Internet Watch2016/4/20)

年間10トンもの折り鶴を送られる広島の取り組みが、ネットで多数のブックマークを集めていた。これは、従来、年1億円をかけて焼却処分していた折り鶴を再生紙としてリサイクルしたというもので、費用面のメリットはもちろんのこと、障がい者雇用にも役立つほか、さらに売上の一部を原爆ドーム保存事業基金に寄付するという形で還元されるのだとか。

とはいえ、「被災地の都合も考えずに折り鶴を送り付けるなど言語道断」みたいに厳しく批判する声がネット上で少なからずみられるのは、少々違和感がある。鶴を折った人が被災地のことを思い、一刻も早い復興を願ったであろうことは否定できないだろう。想像だが、そもそも折り鶴は、たとえばボランティアに行くとかまとまった額を寄付するとか、そういった目に見えるかたちの支援を自らはできないような立場の人たち、たとえば高齢者や子供たちがその典型的な送り手ではないのだろうか。

総じてネット言論はまちがいに対して手厳しいものが多いが、もう少し言い方があるのではないか。「鶴を折るなら日本銀行の名が入った福沢諭吉模様の紙で折るとよい」みたいな冗談をしばしば見かけるが、それができるならそうした人はとうにやっているだろう。

気持ちはわかるが迷惑だからやめろというのも確かにその通りだ。しかし、大きな災害が発生して心が揺れるのは、被災地の人たちだけではない。遠く離れていても、無縁の土地であっても、被災地のことが心配で夜も眠れない人は少なからずいるだろう。メディアが発達し、大量の情報が被災地から発信される現代では、いわゆる「共感疲労」は、世界のどこにいても発生しうる。

メディアから離れろ、他人事と考えろなど、専門家はいろいろなアドバイスをしてくれるが、そうできない人もいる。鶴を折って送るという行為は、被災者への励ましという部分以外に、折る人自身の癒しにもなっているだろう。つまり、それを無下に否定することにもデメリットはあるのではないか。

鶴を折ること自体が問題なのではない。問題は、折り鶴が被災地に送られることで、被災地の負担を増してしまうことだ。ならば問題を切り分ければよい。ということで、3つほど考えてみた。

(1)折って自分の家などに飾っておき、被災地の復興が進んだら送る。

最も簡単なのがこれ。鶴を折るのはかまわないが、送るのは落ち着いてからにする。大きな災害であっても、数年たてば多くの人は忘れてしまう。そうした危惧が出てきたころに送れば、「忘れていないぞ」というメッセージにもなろう。喜んでもらえる度合いは高くなるのではないか。どうしても不満なら、折った鶴の写真など撮って、ネットで公開するという手もある。そうした写真を集めるサイトを作れば、被災地のことを心配している人がたくさんいることを可視化することができるだろう。

(2)被災地の外に折り鶴を集める場所を作って保管しておき、復興後に被災地に送る。

次の案。家に置いとくだけだと他人の目には触れにくくなる。被災地に送るから問題になるわけで、送る先が被災地でなければよいのではないか。たとえば東京。首相官邸でも国会議事堂前でも、東京駅前でも皇居前でもよい。人が集まる場所にそのための場所を作り、そこに集めておけば、メディアが伝えることも簡単だ。被災地の人には励みになる(少なくとも邪魔にはならない)し、被災地支援のムードも盛り上げられるだろう。よく皇居前で記帳とかしてるではないか。あれの折り鶴版をやったらどうかということ。募金箱とかも設置するとよかろう。

(3)首から提げてボランティアに行き、持ち帰る。

今回の熊本・大分の地震でもボランティアの受付が始まったようだが、もし自分でボランティアに行けるなら、自分で持っていけばいい。で、現地の適当な場所に飾るなり自分で身に着けるなりしたうえで、帰るときには自分で持ち帰ればよい。被災地の人の手を煩わせないようにするなら、文句をいわれる筋合いもなかろう。

自分で書いといて何だが、そこまでして折り鶴を、という気もしなくもない。とはいえ、そうしたものを大事だと考える人がいること自体を否定しようとは思わない。さほど古い伝統というわけでもないが、少なくとも過去数十年にわたって親しまれてきた社会慣習ではある。広島の折り鶴は世界から送られてくるというから、もはや日本だけのものでもない。

もちろん、大変な思いをしている被災地の人たちに折り鶴よりもっと実質的な支援をというのも道理だとは思うが、思いのミスマッチを一方的な否定や人を馬鹿にする言論で解決しようとするのはあまりよくないような気がする。上に書いたのはほんの思いつきだが、他にも案はいろいろ考えられよう。より建設的な方向でミスマッチが解消できたらいいと思う。

(2016年4月20日「H-Yamaguchi.net」より転載)

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