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誰かに「死ねばいい」と思われること

2013年08月16日 01時03分 JST | 更新 2013年10月14日 18時12分 JST

最近、アマゾンの電子書籍を買うことがめっきり増えてきた。もともとKindleDXとiPadで英語版のKindle本を買っていたのだが、iPod touchで日本語の本を買うようにした(本当はアカウントを統合したかったのだがなぜかうまくいかないので業を煮やしてiPod touchを使うことにした、というのが正しい)。

画面が小さいせいもあって、今のところ、買っているのはマンガが中心だ。というか、かつてないペースでマンガを買うようになってしまって正直大丈夫なのかと思うくらいだが、置き場所に困らないというのがこんなに本を買うハードルを下げるのかとびっくりしている。

ともあれ、そういうわけで、どんどこ買ってるわけだが、最近買ったのがこれ。

こうの史代『この世界の片隅に』(上)

こうの史代『この世界の片隅に』(中)

こうの史代『この世界の片隅に』(下)

以下、感想文。

この作者の作品では、前に『夕凪の街 桜の国』を買ったことがある。そのとき書いた感想はこちら。独特の絵柄も、ていねいに描写された「あのころ」の日常風景も、穏やかなのにところどころにどす黒い闇がぽっかり口を開けててるような作風も、どれも好み。

戦後しばらくの時期と現代を描いた『夕凪の街 桜の国』とちがって、「この世界の片隅に」は、戦争前の平和な時代から戦争を経て戦後に至るまでが描かれている。世相や暮らしぶりがじりじりの変化していくさまがなんともリアルで恐ろしい。登場人物のいい人っぷりがせめてもの救いだが、それだけにやりきれないという描写もある。

「戦前」に興味が向いたのは、ある意味時節柄、でもある。そもそも日本人にとって8月というのは特別な時期だ。無条件降伏で戦争が終わった月、広島と長崎に原爆が落とされた月、そしてお盆。否が応でも毎年、戦争についていろいろ考えたりする。テレビや新聞も、この時期は戦争に関する特集を組んだりする。

特に今年は、自衛隊を国防軍に変える憲法改正を旗印に掲げた政党が、数ある政策課題の中でも特に憲法改正に強いこだわりを持った党首を担いで数年ぶりに政権を奪還してから最初の8月であり、また(これは現政権のせいばかりではないが)周辺諸国との緊張関係が高まりゆく中での8月だ。副総理が憲法改正に際して「ナチスに学ぶべき」と発言して物議を醸した件も、こういう風潮の中だからこそ洒落じゃすまないものを人々が感じ取ったということだろう。

そういえば、ちょっと前に見た宮崎駿監督作品『風立ちぬ』も、戦前を描いていた。その後見た『終戦のエンペラー』も、どうやって戦争が始まったのかを探ろうとした人が主人公だった。それぞれの作品はそれぞれ別の人たちが別の動機で作ったものだろうし、何年も前から作業してきてたまたま公開が今年になったものだろうし、そもそもこの手の作品は定期的に作られているというだけのことのかもしれない。しかし、時を同じくして戦前を描いた作品がいくつも出てきてそれぞれ関心を集めるのは、作る側も、私たち見る側も、なんらか世相を感じ取っているからではないかと考えたとしても、それほどずれていないように思う。

私が『この世界の片隅に』を手にとったのも、概ね同じような理由だ。本作の主人公であるすずは、政治などにはまったく興味のない、いたって「ふつうの人」であるわけだが、その目を通してみると、あの戦争はまさに「ある日気づいたら」始まっていた、という始まり方をしている。もちろん、何も気づいていなかったわけではないが、無関心でいる間に少しずつ、否応なしに巻き込まれていったことがわかる。麻生発言とは文脈がちがうが、「ある日気づいたら変わっていた」のこわさをひしひしと感じる。

きっかけは「いつの間にか」でも、結果はきっちりとつきつけられる。すずは身近な人、大切なものを失う。そのあたりについては、ここではしょって説明するよりも、この作品を読んでいただくのがいいと思う。ここで紹介したいのは、終戦の玉音放送を聞いて敗戦を知ったすずが、政治にまったく関心のなかったすずが、納得できない、と激昂するくだりだ。

いまここへまだ五人も居るのに!

まだ左手も両足も残っとるのに!!

なぜ戦争をやめるのかまだ戦えるじゃないか、というわけだが、もちろん、本当にまだ戦いたいというのではない。こんな簡単にやめてしまえる戦争で何でたくさんの人たちが死ななければならなかったのか、こんなことなら自分も死んでしまえばよかった、というやりきれない思いだ。大切な人や大切なものを失ったのになぜ自分は生き残ってしまったのかという問い。同じようなことばが、『夕凪の街 桜の国』にも出てくる。

いまだにわけがわからないのだ

わかっているのは「死ねばいい」と

誰かに思われたということ

思われたのに生き延びているということ

戦争のことを考えるとき、自分を殺される対象として意識する人はどのくらいいるだろう。見ず知らずの、何の関わりもない人たちに「殺してやる」と思われ、爆弾を落とされ、銃を向けられ、目の前で仲間が吹き飛ばされ、銃弾が鼻先をかすめて飛んでいく中で、肉片が飛び散った地面に這いつくばる状況に身を置くことを、どのくらいのリアリティをもって想像できるだろうか。自らが兵士であれば、さらにその中で、自分も銃を持ち、見ず知らずの、何の関わりもない人たちを殺さなければならない。誰だかも知らない「敵」を「殺してやる」と思えるだろうか。当たったら相手の頭が砕け散ると知りつつ、躊躇なく照準を合わせて引き金を引けるだろうか。

こうやって書いてくると、何だかガチガチの反戦平和運動家とか護憲ロマンチストの昭和左翼とかっぽいんだが、そういうのではない。憲法改正だって必ずしも反対じゃないし(ただし現政権の下で行うのは反対。公開されてるあの草案は国防軍云々以外のところで言語道断だし、彼らにはやろうとしてることへの「おそれ」がなさすぎるように思う。詳細はどこかで別途書きたい)、「武力」の行使が必要な場面だってあるだろう。九条原理主義みたいな考えは時代錯誤だ。

しかし、この問題に関しては最低限、それぞれの人が、自分だったらどうするだろう、どう思うだろう、と想像してみるべきではなかろうか。少なくとも私には、誰かに本気で「死ねばいい」「殺してやる」という殺意を向けられたら、冷静でいられる自信はまったくない。想像するだけで手が震えてくる。少々訓練を受けたとしても、とても正気ではいられないだろう。それは遠い昔の話ではない。日本でのうのうと暮らしている私たちには想像もつかない状況だが、実際にPKOに行かれた自衛隊員の方々は、一触即発の現場に日々直面しておられたはずだ。「あの時代」の人たちは、戦場から遠く離れていても、否応なしにそういう状況に巻き込まれた。『この世界の片隅に』は、そういう話だ。

ネットでもリアルでもよく、「死ねばいいのに」とか「殺してやる」とか、そういうことばを使う人がいる。もちろん本気ではないだろうが、子どもならいざ知らず、いい大人でそういうことばを軽々しく使う人は、それが文字通りの意味で自分に向けられる状況を想像したことがないんじゃないかと思う。ハフィントンポストの以下の記事によると、「チキンホーク」という言い方があるらしいが、誰かに「死ねばいい」とか「殺してやる」とか思われることに対してリアリティを感じることなく「武力行使も辞さず」なんてことばを使う人がいるなら、ひょっとしたら「チキンホーク」の一派にあたるのかもしれない。

イラクやアフガン戦争で話題になった「チキンホーク(Chicken Hawk)」という言葉がある。自分は戦争から逃げ続けてきたのに、戦争や軍事介入を積極的に支援する人たちのことだ。ブッシュやチェイニーが典型だろう。彼らは自分たちが避け続けた戦場へ若者たちを送り出し、危険にさらしている。

「戦場に行ったこともない奴が語る愛国主義には吐き気がするよ」 オリバー・ストーン監督に聞く戦争と歴史」(ハフィントンポスト日本版2013年8月14日)

2013年8月9日のテレビ朝日「朝まで生テレビ!」はテーマが「日本の戦争」だった。見ていたら、やたらに声が大きくていつまでも1人で叫び続ける人(ジャーナリストらしいが名前は忘れた)がいて、「日本はなめられてるんだ!」とか「断固たる態度を!」とか、とても威勢のいいことを主張しておられた。この人はきっと「チキンホーク」ではないだろうから、いざというときにはきっと喜んで自ら銃をとり(カメラではなく。ここ重要ね)、戦場に飛び込んでくれるのだろう。

そういえば以前、こんな文章を書いたことを思い出した。この部分は半分ネタなんだけど。

老年よ大志を抱け

誰もができるというものでもないだろうが、防衛なんかの分野でも、高齢者の役割を考え直してみてはどうか。近年の政策は、この面において日本がこれまでより大きな役割を志向しているものであろう。これに反対する人はよく、「若者を戦場に送るな」という。まあいきなり戦場ということもないだろうが、PKOみたいな機会が増えていくのかもしれない。ならば、この分野での日本の役割の増大を期待しておられるシニアの皆様に、ぜひ自ら先頭に立っていただければと思う。

今のシニアの人たちはかつてよりずっとお元気だし、技術の発達もあるから体力差が昔よりは影響しにくくなっているだろう。今の予備役自衛官は階級によってちがうが40歳~60歳まで勤められるらしい。せっかくだからもう少し緩和してもいいんじゃなかろうか。別に高齢者に限らない。国を断固守るべきという「意欲」のある人は、どんどん応募したらいいし、「意欲」があるんだろうからどんどん前線に派遣したらいい。技量が多少低くたって塹壕にこもって銃を撃ちまくるぐらいのことはできるだろうし、「裂けて散る身を花と成し」の精神をもって最前線で離島防衛にあたっていただくといい。

(※麻生発言の「真意」とやらを理解できる知性をお持ちの方なら何の問題もなくわかるだろうが、これはもちろんジョークだ。念のため)

閑話休題。

この話は「ふつうの人たち」の物語であるわけだが、じゃあそのとき、日本の中枢部では何が起きてたんだろうっていう疑問をお持ちの方は、たとえばこのあたりを読んでみるといいかも。紙の本しかないみたい。最初の本については前に感想文を書いた。「戦争が普通選挙運動を生んだ」という指摘は、上に書いた「リアリティ」の話と通底しているように思う。

加藤陽子「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」

猪瀬 直樹「昭和16年夏の敗戦」

戸部良一他「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」

あとは、今公開中の映画でいうなら『終戦のエンペラー』もいろいろと参考になる。どちらかというとこれはアメリカ人に見てほしい映画ではあるけど。

こういう、ややめんどくさい話をおいとくにしても、『この世界の片隅に』は、当時の田舎(呉あたりらしい)の暮らしがよく描かれていて面白い。特に面白かったのは結婚にまうわるさまざまなエピソードで、お見合いのようすとか、結婚式とか、その後夫婦が交わす「傘」に関する問答(いわゆる「柿の木問答」のバリエーションかと思うが傘の方がストレートだな)とか、貸し妻っぽいくだりとか、離縁とか。それ以外にも「へええ」な習慣がたくさん出てきて、私たちのものの考え方が実はそういう日常の所作の積み重ねにけっこう影響されているんじゃないか、と思ったりする。

今は遠くなってしまった「あの頃」。知らないのに懐かしく、ちょっとうらやましいけど絶対経験したくない、不思議な思いを追体験できる。「あの頃」を知ってる人にも、知らない人にもお勧め。もちろん紙の本もあるのでキンドル持ってない方はそちらで。

(※2013年8月14日の「H-Yamaguchi.net」より転載しました)