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『風立ちぬ』を見てきた

2013年08月12日 23時35分 JST | 更新 2013年10月12日 18時12分 JST

遅ればせながら、『風立ちぬ』を見てきた。以下、感想文。えらそうに評論などするつもりはないので、あくまで感想。あと、連想と妄想をちょっとずつ。手短にしようと思ったがちょっと長めになっちゃった。

最初に書いとくが、この作品、好きか嫌いかといえば、好き。かなーり、好き。ネットでの評価はいろいろあるらしいけど、当然ながら賛否どちらにせよ、話題にしてる時点で、手のひらの上、ということだ。もちろん、この文章も手のひらの上。むしろ嬉々として手のひらの上。

宮崎駿監督の5年ぶりの新作(監督としては『崖の上のポニョ』以来)、だそうだが、ある意味「平常運転」という感じがする。いつも通りの辻褄が合ってるのか合ってないのかよくわからない展開。素っ頓狂なぐらい急激に距離の縮まる男女。今回のは特に夢と現実が激しく入り混じるから、訳の分からない感が強いわけだが、それもこの人の作品には多かれ少なかれ以前からついてまわっていた要素ではある。何というか、もはや何をやっても許されるレベル、とでもいうのだろうか。ある意味、「柿右衛門」とか「北斎」とかの領域に入っちゃってるのかもしれない。

先日、メディアアーティストの八谷和彦さん(あのメーヴェを実際に作っちゃった人)がこんなことを書いてたのが思い出される。

「10年」という期間は、『風立ちぬ』の中で「設計者の寿命は10年」という表現で言及されている。ここでいう「設計者」は、クリエイティブな仕事をする人全般のメタファーだろうから、その意味でいくと、宮崎駿のクリエーターとしての「10年」は、八谷さんの挙げた時期だったということになるのかもしれない。個人的には、『ルパン三世カリオストロの城』(1979)から『魔女の宅急便』(1989)ぐらいまでを挙げると思うが。

で、キャラクターもある意味いつも通り。絵なので顔が似るのはある程度しかたないわけだが、ある種のスターシステムなのではないかとすら思う。二郎は顔が大人になった聖司で声は雫パパの若いころみたいだし、加代は大きくなったメイみたいだし。外見だけでなく、性格も前にどこかで出てきたキャラクターを彷彿とさせるものが多い。大股で前のめりで歩くのも同じ。このあたりはすべてジブリファンならおなじみだろう。安心のジブリクォリティ(別に揶揄でも何でもなく)、というやつだ。

テーマも、いつも通りといえばいつも通り。「狂気」の中で正気を保つこと、矛盾を抱えながら生き抜くことといったあたりは、宮崎作品の中ではかなり初期からの割と一貫したテーマであったように思う。

では、その中で、この作品独特の要素は何だろうか。

「戦争」を挙げる人がいるかもしれないが、考えてみれば戦争は『紅の豚』でも裏テーマになってたし、『風の谷のナウシカ』も『天空の城ラピュタ』も、底流には似たものが流れていたように思う。そもそも『風立ちぬ』は、日本が戦争をしていた時代の、兵器である軍用機の設計者が主人公という作品にしては、戦争の色がきわめて薄い。もちろん、まったくないわけではない。唯一、零戦が出てくるラストのシーンには、『紅の豚』に出てきた「雲の平原」の上に流れていたのと同じような飛行機の葬列が登場する。あのシーンは、これらの作品において戦争がどのようにとらえられているかがよく表れている。その意味で『風立ちぬ』における戦争観は、『紅の豚』における戦争観とつながっている部分がある。

『風立ちぬ』でのあのシーンは、作中でカプローニ伯爵がいうところの「呪われた夢」としての飛行機が本質的に持つ矛盾を体現するものだ。美しい飛行機を作りたいという夢と、それを人殺しの道具として作らなければならないという現実との間の矛盾。それは、自由に大空を飛びたいという夢のために戦場で殺し合いをしなければならなかったというポルコの抱えた矛盾でもあり、また、おそらくは、兵器は大好きだが戦争が大嫌いという宮崎駿自身が抱えている矛盾でもある。

戦争は、美しい「夢」の裏に潜む「呪い」だ。考えてみれば、多くの兵器は、効率よく人を殺し街を破壊するための工夫をこらした結果、機能美を持つようになっているわけで、その「美」はまさしく「呪い」だろう。そうした存在を作り出すこと、使うこと、あるいは美しく描くことはいずれも、その「呪い」を引き受けることといえる。

『紅の豚』では、マルコが自らに呪いをかけて豚の姿になるという設定によって、「呪い」を寓話に昇華した。ある意味これは「逃げ」だろうが、うまいやり方だと思う。これに対して、『風立ちぬ』の二郎は、夢の中のカプローニ伯爵に導かれるかたちで、つまり自らの意志で、正面からその「呪い」を引き受ける、別のいいかたをすれば、「狂気」に身をゆだねるという覚悟をする。

そう、「覚悟」。

この作品から一番強く感じたのは、好戦でも反戦でもなく、「覚悟」だ。訳も知らずに突っ走る無鉄砲でもなく、超人的な力の持ち主に運命を委ねる「祈り」でもなく、もちろん戯画化された殺し合いの馬鹿騒ぎでもない。能力の限界も抗いがたい運命もわかった上で、限りある自分の力を尽くして困難に立ち向かう覚悟。この作品のキャッチコピーは、「生きねば。」だったかと思う。『もののけ姫』のキャッチコピーが「生きろ。」だったわけだが、この微妙な差が「覚悟」ということなのではないかという気がする。

だから本来、二郎が覚悟の上で負った「呪い」がもたらす災厄は、二郎自身が負うべきものだった。彼が設計した美しい飛行機が、その美しさと引き換えに切り捨てた兵器としての欠陥ゆえに「空飛ぶ棺桶」として多くの搭乗員の命を奪っていくさまを見続けなければならないという呪い。しかし『風立ちぬ』では、そこはほとんど描かれていない。『紅の豚』のように、思い出として語られることもなく、わずかにラストの、無残に朽ち果てる飛行機の残骸と、あの世へ向かう飛行機の葬列で表現されるのみだ。

代わりに(かどうかはわからないが、どうもそんなふうに思える)『風立ちぬ』で、「呪い」の災厄を一身に負うのがヒロインの菜穂子だ。今でも結核は怖い病気だが、当時は一種の国民病であり、抗生物質もなかったころだから、その恐ろしさは相当なものだったろう。この映画で流れる血は、戦闘機の銃弾ではなく、結核菌がもたらすものだ。そして菜穂子は、二郎を想うゆえに、その過酷な運命を覚悟をもって引き受ける。

病を治すために高原病院に入ることも、治療の途中で病院を抜け出して二郎のもとへ向かうのももちろん「覚悟」のなせる業だ。だから、結婚式を挙げ、ささやかだが暖かい新婚生活を送る2人の姿は幸せそうだが、同時にこの上なく残酷でもあり、また凄絶でもある。この時代の流行歌の歌詞でいえば、「命短し、恋せよ乙女」っていうことかもしれないが、そこに「呪い」の影を感じ取れる分、さらに重い。

菜穂子の覚悟こそが、「呪われた夢」を追う二郎の「正気」を保たせたものであり、その菜穂子を失う苦しみが二郎の受けた呪いなのだろう。だからこそ「生きねば。」というメッセージが大きな意味を持つ。その意味で『風立ちぬ』は、歴代ジブリ作品の中で最高のラブストーリーだと思う。菜穂子はジブリ屈指の好ヒロインであり、美しい飛行機より何よりこの物語の最大の魅力であるといえる。

おおまかな感想は以上。あと、細かいところでいうと、物語的には九試単戦(の初号機)がメインになるのはいたしかたないとしても、個人的には弐号機以降(初号機とちがって逆ガル翼じゃないタイプ。量産型である九六艦戦に近い。逆ガル翼っていまいち好きじゃなくて)にも出てほしかったなあ。あと、ドイツ語で会話するシーンはぜひ全部原語でやってもらいたかった。ドイツ語は話せないんだが、「大人向け」と謳うんだから字幕でいいじゃん。

大正から昭和にかけての日本の風景は見ていて懐かしかった(当時生まれてないけど懐かしい感じ)。ああいう風景は、戦後もけっこう長く、特に田舎などには残っていたように思う。登場人物は当時の日本ではかなり特殊な立場の人たちだし、もちろん環境が今とはまったくちがう時代だが、それでも「日本人」としてのアイデンティティ、みたいなものを意識させられる。うれしく、かつ気まずい「つながり」の感覚。(とはいえ、今の日本から失われつつある美しいものもたくさん描かれていて、とても惜しいとも思う。それは風景とか自然とかだけではなくて、たとえば登場人物の「しぐさ」。挨拶とか、扉の開け閉めとか、混雑時の譲り合いとか。)

戦争がほとんど描かれていないということで、ご不満の人たちもいるらしいが、それはそれでいいんじゃないかと思う。この映画をきっかけに、堀越二郎って誰だろう?あの人たちは何をやってたんだろう?という関心を持つ人が出てくれば、それで充分ではないか。作中に描かれた1920年代、30年代の日本は、もちろん現実の日本の姿とはだいぶちがったものだろうが、それでも「昔の日本」のあれこれを今の若い人たちにイメージさせる力はある。「あのころ」に思いを馳せるきっかけになればいい。劇場は、ジブリ映画には珍しく年配者が多かったが、ぜひ若い方々にも。

(※2013年8月11日の「H-Yamaguchi.net」より転載しました)