空白の1日事件を取材していた逸見さん

2007年秋、黄桜という酒造メーカーのCMで、江川卓さんと小林繁さんは初めて顔を合わせた。
時事通信社

■空白の1日事件

2007年10月20・21日(土・日曜日)放送の『SPORTSうるぐす』で、江川卓さんと小林繁さんが"世紀の顔合わせ"をした黄桜のCMの舞台裏を取材したのを御存知だろうか。

江川さんは2度ドラフト1位指名されたが、巨人のユニホームでプレーしたいという一心で入団せず、大学卒業後はアメリカにわたり、浪人生活を送る。ドラフト会議の数日前、江川投手の父親が突然帰国命令を出し、後日、あわただしく巨人入団を発表した。当時の野球規約では、ドラフト会議の前々日で前年度に指名された選手の交渉権が切れるため、その翌日に巨人と電撃契約をかわしたのである。

ウラを見つけ、他球団のスキをついた巨人のやり方は、けっしてルールに反していないが、日本中が騒然として大混乱を招き、日本プロ野球機構は江川投手の巨人契約を無効とした。巨人側はこの決定を不服として、ドラフト会議を欠席する"抗議"に出た(同年の巨人入団選手は、すべてドラフト外で獲得。現在はドラフト外獲得ができないため、欠席すると新人が1人も入団できない)。

巨人欠席のドラフト会議は、4球団が江川投手をドラフト1位で指名し、抽選の末、阪神タイガースが交渉権を獲得した。江川投手は一旦阪神タイガースへ入団したのち、新人選手では異例のトレードで、ようやくあこがれの巨人に移ることが決まった。江川投手は金銭トレードによる巨人移籍を希望したが、それが通らず、1979年1月31日(水曜日)、プロ野球キャンプイン前日に小林繁投手との交換トレードが成立したのである。

この交換トレードで騒ぎはヒートアップし、江川投手は同年6月以降でないと1軍登録できないペナルティーが下された。それがキッカケで、江川投手と小林投手に亀裂が生じる展開になってしまい、共に真正面から接することができなくなってしまった。

小林投手は「仕事で判断していただきたい」と言って、気丈にふるまい、同年は22勝9敗という好成績で最多勝と2度目の沢村賞を獲得。江川投手は6月デビューも9勝10敗と健闘していた。実は江川投手のひとケタ白星はルーキーイヤーの1979年だけで、翌年以降、現役を引退するまで8年連続2ケタ勝利をあげ、巨人のエースに君臨した。

1980年8月に小林投手との直接対決が実現。江川投手は小林投手からヒットを打ち、完投勝利をあげた。著書やCMの収録でも"絶対に勝たなければならない試合"と気合を入れていた。

1983年、小林投手は31歳の若さで引退。その4年後、江川投手も32歳の若さで現役を退いた。ともに、現役最後の年は13勝をあげている。2人はプロ野球解説者という道を歩む。現在も日本テレビのエース解説者である江川さんは、実はTBSの誘いを断っている。当時、小林さんはTBSのプロ野球解説者だったからである。江川さんはプロ野球中継での同席を拒んだ。

2人は引退後も同じ日に同じ球場にいても、顔を合わせることはなかった。一時期、小林さんは日本テレビの『どんまい!! SPORTS AND WIDE』に出演していたが、プロ野球中継で江川さんとダブル解説を組むことはなかった。小林さんも日本テレビの野球中継で解説をすることもなかった。

2007年秋、黄桜という酒造メーカーのCMで、2人はついに顔を合わせる。同社からのオファーに2人とも出演を決め、打ち合わせはなく、"心ゆくまで話していただく"という、ドキュメンタリーCMであった。

江川さんが小林さんの登場を待つところから撮影が始まる。小林さんはリラックスした表情の笑顔で、緊張で顔が引きつっている江川さんと握手をする。そこで1時間ほど、2人は会話をするわけで、江川さんは初めて謝罪をした。28年間、謝りたくてもできなかったことを口にしたのだ。小林さんは「風化しているよ」といって、すでに許しているかのようだった。2人とも、つらい日々を過ごしていたことに変わりない。

このCMによって、「空白の1日事件」は完結したことだろう。のちに『SPORTSうるぐす』で、江川さんは"50代の今にやってよかった"と話している。もし、あの収録がなかったら、一生、責任を背負い続けていたままだったかもしれない。いや、あの収録で謝罪しても、変わらないのかもしれない。

CMは好評で、今までのわだかまりが消え去ったように思える。小林さんのさわやかな表情で、江川さんに握手を求める姿は印象的だった。

■報道アナウンサーとして、空白の1日事件を取材していた逸見さん

『SPORTSうるぐす』では、空白の1日事件を織り交ぜながら放送し、当時のVTRで、金子鋭コミッショナーにマイクを向けようとする逸見政孝さんを発見した。

逸見さんは当時33歳。フジテレビのアナウンサーで、1978年10月より、『ニュースレポート6:30』を担当していた。以前はスポーツアナウンサーで、プロ野球は担当しなかったようだ。ボクシングでは輪島幸一選手が世界チャンピオンになる試合を実況している。

その後、報道部門へまわり、昭和60年代に入るとアナウンサー初のブロマイド発売など、たちまち売れっ子になり、1988年4月1日(金曜日)から三木プロダクション所属のフリーアナウンサーとなる。

フリー後、テレビ番組の共演を機に江川さんと交友関係を持つようになり、七三分けの髪型を変えたといわれる、IKKOさんが専属のヘアメイクを務めるようになる(IKKOさんは当時から自分の会社を持っていた)。

1993年1月1日(金曜日・元旦)に日本テレビで生放送された正月番組では、突然の電話に思わず、「江川君?」と地を出していた。逸見さんは年下のタレントを「君」づけで呼ばないので、その言葉が2015年の今も耳に残る。

■IKKOさんとの出会い

1993年1月、逸見さんは定期健診でガンが見つかり、手術。病名を「十二指腸潰瘍」にして、一部の番組を休んだが、山城新伍さんには本当の病名を伝えていた。

8月に2度目の手術後、別の病院で診てもらったところ、命の期限を言い渡されるほどの状態が悪化しており、9月6日(月曜日)15時に記者会見を開く。夕方以降、NHK以外の民放各局はトップニュースで視聴者にお伝えし、新聞でも社会面に掲載されるなど、日本中が衝撃を受けた。

誰もが「生還する」と信じていた。「必ずブラウン管に戻ってくる」と信じていた。逸見さんがいない番組ではほかの芸能人が盛り上げ、高視聴率をキープしていた。

しかし、その願いはかなわず、1993年12月25日(土曜日)12時47分、どこかへ旅立ってしまったのである。

私にとって、「12月25日」は1番つらい日で、それ以来クリスマスを封印した。毎年、この季節になると、私はあの悪夢がよみがえるのである。あの悪夢から22年たつ今も、まだ現実が受け入れられない。

2007年、『いつみても波瀾万丈』でIKKOさんが出演した。実は逸見さん関連の本で「豊田一幸」という名を目にしたことがあり、まさかピーターを思わせるような"本当の女性に見える男"だとは思わなかった。

戸惑いながら番組を見ていると、一流のヘアメイクアーティストで、逸見さんの死化粧を引き受け、いろいろな思いが交錯するのは実際にお目にかかったことのない私も同じだ。私は逸見さんの『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』をきっかけに、バラエティー番組を見るようになったのだから。

■「圧勝」の残像

1992年12月放送の『クイズ年末はSHOW by ショーバイ!!』で、逸見チームが負ければ山城新伍さんが店長(司会)の座に就く可能性があった。激戦の末、逸見チームが勝利して逸見さんが店長の座を防衛した。

"「薄氷の勝利」という名の僅差"にもかかわらず、逸見さんは高らかに「圧勝」と叫び、満面の笑みをみせた。バラエティー番組で魅せる"いちびり精神"だ。

「どこが」

すぐさま山城新伍さんが苦笑いを浮かべながら、逸見さんにツッコミを入れた映像を見た瞬間、私の心に深く突き刺さった。

15年以上たち、使える場をようやく見つけた。Twitterだ。点差に関係なく「巨人、今日も圧勝!!」などとツイートしているのは、あのときの映像が私の想像以上に強烈過ぎたからなのかもしれない。

(Railway Blog.「空白の1日事件を取材していた逸見さん」「現職コーチ、突然の別れ」より転載。一部、加筆・修正しています)

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