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表現の自由は戦争を始めることができるのか

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CHARLIE HEBDO
Carl Court via Getty Images
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フランスの風刺画テロ事件について書こうと思う。イスラム教についても多文化主義についても専門ではないが、表現の自由を巻き込んだ議論も展開されているし、やはり気になる事件でもある。今後の欧州の映画作りもこの事件の影響を少なからず受けるかもしれない。アメリカ映画における9.11のように。

テロ=イスラムではないとする意見を支持する

この事件単体に関して言うと、僕がまず支持するのは、卑劣なテロ行為とイスラム教を分断するための言説だ。例えば以下のような。

我々イスラム教徒は「シャルリー・エブド」を支持する | Asif Arif

彼らは、不正を前にしても常に忍耐強かったという開祖の名の下に行動した。イスラム教の開祖が道を歩いているところを女性から毎日ゴミを投げられていたという逸話がある。正義を訴えることもできたが、彼は何もしなかった。彼が忍耐強かった証拠である。その女性がゴミを投げつけてこなかったある日、開祖は彼女の具合が悪いのだと考えた。汚物で襲われなかったがゆえに、彼女の調子を気遣った。この忍耐と己の内なる憤怒との戦いこそが、真のイスラム教ではなかろうか? これこそが寛大な開祖からのメッセージなのではないか? イスラム教が強制、兵器、そして暴力でしかないと考える人々は、この上なく美しいメッセージを見逃している。

シャルリー・エプドの風刺画がイスラムに対する偏見を助長するとの意見も散見されるが、テロ行為の方が風刺画よりはるかにイスラムに対する風当たりを強くするだろう。 テロを容認できないのは当たり前のことだが、複雑な問題を考える上で当たり前のことを確認しておくも重要だ。

新聞記者は戦争を始めることができる

「新聞記者は戦争を始めることができる。ユーゴの戦争もそうやって始まったところがある」 と言ったのは元ジェフ千葉監督のイビチャ・オシム氏。ユーゴの戦争とは90年代のユーゴスラビア分裂のきっかけとなった内戦のことだが、この戦争は特に欧米のマスメディアやPR会社による印象操作によって帰趨が決したとも言われる。 ユーゴ内戦でのPR会社の暗躍については『銃弾より「キャッチコピー」を、ミサイルより「衝撃の映像」を!!』のコピーが鮮烈だった「戦争広告代理店 - 情報操作とボスニア紛争」に詳しい。 この本やオシム氏の言葉が示唆するものは、広範な範囲に訴える情報の力を持つ者は、戦争を起こし得るほどのパワーを有し、情報とは武器そのものだ、ということだろう。

表現の自由とはそもそも何か

では、表現の自由とは何なのか。戦争を起こし得るほどのパワーを自由に誰でもふるえる権利のことなのか。 ジョン・スチュワート・ミルは自由論で、

「多数者の専制」 は 「支配的な意見や感情の専制」、 すなわち 「社会に広がる意見や実践に同調しない人に対して [...]、これらの意見や実践を行動規範として社会自体が強制する傾向」 として生じる。この 「多数者の専制」 に対して個人が保護されるべきなのである。
ジョン・ステュアート・ミルの『自由論』における「寛容の限界」についての一考察 - 神戸市外国語大学学術情報リポジトリ

と説いた。抑圧は個性の発達を阻害する。個性は個人の幸福の拠り所となるものなので、これを妨げるべきではない。また個々人が自由に思想や表現、生活の実践を行えばそれだけ多くの改善や進歩も見られ、それが社会全体を発展させると考えた。そしてミルは、その自由を保証する概念として「危害原則」を提唱した。 他者に直接的危害を加えない限り、それが嫌悪や不快感を与えるものであっても個人の自由は保証されるべき、と説いた。その結果、軽蔑されたり嘲笑されたりすることはあっても、当人の行動や表現活動に禁止すべきでないとする概念だ。
ブロガーのfinalvent氏のこのツイートは表現の自由の的確な解釈だろう。これでも回る社会が個人的には理想だ。 ※現代社会は複雑なので、ミルの危害原則に觝触していなくとも、様々な理由で表現には規制がかけられているが、長くなるのでここでは紹介しない。
では、表現の自由は誰にでも同様の範囲で認められるべきものかどうか。ミルは自由論の中で「多数者の専制」からの自由を保証すべきとした。今日この多数派を創り出す装置は何か。マスメディアは、その多数派の世論を作るうえで大きく関わっているのは間違いない。その力は「戦争をはじめることができる」ほどに強い可能性もある。
国際政治学者の六辻彰二氏は、表現の自由は弱者を強者から解放するための作用と、その反対に強者の支配をより強固にする側面もあると指摘している。

フランスの新聞社襲撃事件から「表現の自由」の二面性を考える-サイード『イスラム報道』を読み返す

「表現の自由」を振り返ると、それによって誰もが情報発信の権利を保障される一方で、情報発信能力に長けた者の「ものの見方」が影響力を拡大させることを促すことにも結びつくといえるでしょう。

六辻氏は、表現の自由の二面性を指摘した上で、「慎みある表現の自由は可能か」という問いを投げかけている。ここでの慎みとは何を指すのか。クソのイデーを投げつけることは少なくとも自重しないといけない気がする。おそらく多用な価値観に最大限配慮した上で、表現せよということになるか。ポリティカル・コレクトネス(以下PC)と一語で言えるかもしれない。

しかし、価値観の多様化し続けるこの社会で、何をどこまで配慮すればいいのか。多数者の専制からの自由は必要だが、多文化主義の行き着く先はどこなのか。多数者のないマイノリティの乱立のような社会になった場合、それぞれの自由を尊重する結果、何も言えなくなるということはないか。このNew York Timesの皮肉のような。

表現の自由は普遍的な価値観なのか

表現の自由は欧州の市民革命の歴史の中から生まれた概念だ。これは多文化主義の時代において、はたしてどこまで普遍的なものなのか。 仏週刊紙襲撃事件 -欧州の価値観の普遍性を問う(小林恭子) - 個人 - Yahoo!ニュース

一連の風刺画事件で、例えばデンマークやドイツの新聞の論者たちは「すべてを批判・風刺の対象とする」「表現の自由はなんとしても守るべきもの」というスタンスであった。表現の自由は「欧州社会の」かつ「私たち」の基本であり、歴史から育まれたものであり・・・と。これに対し、「おや?」と思ったのである。

「欧州社会」って、誰を含むのだろう?「私たち」とは誰か?と疑問がわくようになった。「自分たちの宗教を過度に茶化すのはいやだ」という人がもし社会の中にいたら、その人たちはすでにある規範にどうしても従わないとダメなのだろうか?

追悼集会では以下のような主張もあったらしい。個人的には同意だが、同意しない文化圏の人間もたくさんいるだろう。(イスラム文化圏の人の中にこれに同意する人も当然いる)

自由論を説いたミルも、後進的な民族には危害原則は適用されないと主張していたりする。

第一にミルは、 「後進的な」 諸民族を 「危害原則」 の適用対象から除外していた。 すなわちミルによれば危害原則は 「自由で対等な議論によって改善する」 段階に到達した民族に対してのみ適用される。 「人種それ自体が未成年にあると考えられる後進的な社会状態」 には適用されない。 むしろ 「後進的な」 「野蛮人」に対しては、 その改善を目標とするのであれば、 賢明な 「専制」 こそが 「正当な統治方法」 である。
ジョン・ステュアート・ミルの『自由論』における「寛容の限界」についての一考察 - 神戸市外国語大学学術情報リポジトリ



もしかすると、表現の自由は西欧中心主義の産物かもしれない。今のところは。
もしそうなら、表現の自由は多文化社会の中では絶対的なものではない、ということになる。

僕自身は、最大限表現の自由が認められる世の中が好きだ。しかし、多様な価値観を内包した社会でそれを保護するための正当なロジックが見つからない。
この事件単体に関しては、表現の自由VSイスラムという単純な図式から脱却して、考えることにはとりあえず支持する。それでこの件が解決しても、根本的な表現の自由のあり方を考えないことには同じ悲劇が繰り返されるかもしれない。

仏首相「テロとの戦争に入った」 1.5万人警戒態勢:朝日新聞デジタル


拙ブログより転載。