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「ボーカロイド™ オペラ 葵上 with 文楽人形」人ならざるものの魂の躍動

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あまり自分の映画館でかける作品をここで取り上げてこないようにしていたのだが(随分前にレビューを書いて、大分後になって上映ブッキングしたことはあったけど)、通常の配給網に乗っていないし、スクリーンで観る機会の限られる作品なので、敢えて紹介することにする。日本の文化を語る上でも参考になる点が多々ある作品だとも思うので。

伝統芸能が現代的な要素を取り入れたり、または和ロックように西洋と日本の古き美を融合させようという試みはこれまでにもしばしばあった。それが物珍しさだけのパフォーマンスになるのか、新しい表現として定着するかはアーティストの実力にもよるだろうが、その他にも伝統と新しいものとを繋ぐ共通項も必要なのではないかと思う。今作にはしっかりそれがある。

「ボーカロイド™ オペラ 葵上 with 文楽人形」は浄瑠璃文楽をボーカロイドの語りで進行させる短編映画である。物語は源氏物語の一節「葵」を現代風にアレンジしたもの。「葵上」として、世阿弥が能楽にもしている古典的な物語だ。今作では、光源氏を作曲家のヒカルに、葵上を歌い手アオイに、六条御息所の生霊をボーカロイドのミドリに改変し、舞台を現代に設定している。小道具としてMacbookやiPhoneが出てくる文楽というのもかなり珍しいのではないか。

あらすじは以下の通り。
ヒカルはかつてボーカロイドミドリを用いて、不動明王のマントラを元にした「慈救咒(じくしゅ)」という曲で一世風靡する。アオイは、ミドリに憧れを抱き慈救咒を歌い手としてカバーしていたが、それをきっかけにヒカルの目に止まり、2人は共に活動するようになる。年月が経過してヒカルとアオイはスターとなり、その頃にはミドリというボーカロイドは顧みられない存在となっていた。
ある日、交通事故にあい昏睡状態となったアオイに、全く異なる人格ミドリが現れ、現代の生霊となりヒカルの前に現れる。

原典の葵では、人間である六条御息所の生霊が物語のポイントとなる。現代版の今作ではその生霊は元々人ではないボーカロイドの魂という点がユニークだ。電子データであるボーカロイドにも魂はあるとここでは認めているかのようだ。少なくとも、ミドリに憧れ歌い手となるアオイにとってはただの楽器ではない何かなのだ。ボーカロイドの魂を問うという点では初音ミクの消失とも共通するテーマと言えるかもしれない。初音ミクの消失は、ボーカロイドが人になりきれない悲しみを歌うが、今作は、反対に人がボーカロイドに憧れを抱いている。

文楽は人ならざるもの(人形)を用いて人間世界の不条理を描くものだが、ここでは人ならざるものの怨念を描く。しかし、人ならざるもの(人形)の演じる物語に昔から共感してきた日本人には、この感覚は特段不可思議なものでなないかもしれない。
この人ならざるものへの共感覚が、伝統の浄瑠璃と最新テクノロジーを用いたポップカルチャーであるボーカロイドを繋ぐものとなる。伝統芸能と最新テクノロジーのミックスという難題に、このストーリーを選択したのは素晴らしい選球眼だと思う。むしろこの物語を描くために、選んだ手法が文楽とボーカロイドだったのは必然だったと言うべきかもしれない。
実際、作品を見ると(意外な取り合わせなのに)奇妙なほどに「しっくり」感じる。

ボーカロイドの楽曲には物語性の強い作品が多い。初音ミクに代表される二次元のキャラクターを背負っているので、物語をつけて自分なりに命を吹き込みたくなるのだろう。その衝動は人を模した人ではない人形を前にしておままごとをする感覚とも共通しているだろうし、人形劇が誕生した理由でもあるのだろう。(日本で漫画やアニメが盛んな理由にも繋がるだろう。Animateとは命を吹き込むという意味でもあるし)

今作はわずか30分の短編作品だが、日本の文化の積み重ねを確かに感じさせる。偉大な古典にも、最新カルチャーにも同じ血が流れているのだと強く実感できる作品となっている。

ボーカロイド™ オペラ 葵上 with 文楽人形 公式サイト

アミューあつぎ映画.comシネマにて3/28~410まで上映。
上映時間はこちら。http://atsugi.eiga.com/