アウシュヴィッツ博物館初の外国人ガイド・中谷剛さん「タブーに立ち向かうのは戦争を経験していない世代」

ナチス・ドイツ軍によって約130万人々が殺害されたアウシュヴィッツ強制収容所の解放から70年。アウシュヴィッツ博物館の初の外国人公式ガイド・中谷剛さんに聞いた。

今年、日本は戦後70年を迎える。ヨーロッパでも、第二次世界大戦中にナチス・ドイツ軍によって約130万人ものユダヤ人をはじめとする人々が殺害されたアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の解放から1月27日、70年が経過した。

70年について、強制収容所の跡地で虐殺(ホロコースト)の歴史を伝えているアウシュヴィッツ博物館のピオトル・ツィヴィンスキ館長は、「今年のメモリアルイヤーは、今までの記念年とは全く異なる意味を持つ」と語った

なぜなら今年は、ホロコーストを経験したたくさんの生還者たちと祝うことができる「最後の大きなメモリアルイヤー」だと考えられているからだ。

戦争の歴史を伝える上で欠かせない存在である生還者たちが高齢化する今、歴史を伝える担い手は、戦争を経験していない世代に託されようとしている。実際、アウシュヴィッツ博物館で現在案内をしているガイドの260人全員が、戦争を経験していないという。

それでは、戦争を経験していない世代はどのように歴史と向き合い、伝えていけばいいのか。その困難と意義を、外国人として初めてアウシュヴィッツ博物館の公式ガイドに認定された中谷剛さん(49)に聞いた。

中谷剛さん。1991年に医療器具メーカーの仕事を辞めてポーランドに移住、1997年にアウシュヴィッツ博物館公式ガイド資格を取得した。奥に見えるのは、虐殺に使われたガス室の煙突

■「戦争の歴史を伝える意義」を学ぶためガイドに

――アウシュヴィッツ=ビルケナウ博物館のガイドになろうと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

1991年にポーランドに移住してからテレビや新聞でポーランド語を勉強しはじめたら、よく戦争のことが出てきたんです。アウシュヴィッツのこともよく出てきた。それまで僕は、戦争の歴史を伝えることからは疎遠だったんですよね。戦争の話なんかしたら就職するときに厄介者だと思われるからやめたほうがいいとか、そういうのが常識で。

だから、なんでポーランド人たちはこんなに一生懸命戦争の歴史を伝えようとしているのか、当時はその意味がわからなかったんです。それでアウシュヴィッツ博物館に来てみたらガイドさんたちがいて、「あ、ここのガイドになったら、戦争の歴史を伝える意義を中から教えてくれるかな」と思ったのがきっかけでした。

でも、僕がガイドになるための試験を受けたとき、アウシュヴィッツ博物館には外国人ガイドが一人もいなかったんです。だから、博物館側には「ポーランド以外のヨーロッパの国の人もいないのに、いきなりアジア人を雇うのはどうなんだ」って言った人もいたそうです。僕自身、初めて試験を受けたときはほとんど答えられなくて。だから、1回目は落ちました。当たり前ですよね。

それで2回目に受けに行ったときに、「歴史の伝え方や、どうしてそれを伝えなければならないのかがわからないので、ここで教えてもらえないですか?」と正直に言ったんですよ。そしたら、「じゃあ無理だと思うけど、やってみたら?」と情けで通してくれた。そして、「あなたは日本人にわかりやすいような案内をするように心がけなさい」と背中を押されました。だから、今でも日本人しか案内していませんし、今でもアジア人ガイドは僕1人です。

アウシュヴッツ博物館の入口。ドイツ語で「働けば自由を得られる(Arbeit macht frei)」と書かれた門が立っている

■生還者が語るとき、「何のために伝えるのか」という究極の場面に出会う

――アウシュビッツ博物館のガイドにはマニュアルはあるのでしょうか?

昔はなかったんですよ。本当、何が悪いのかわからないけど職人みたいな怖い先輩から直されて、少しずつやり方を覚えていくような感じ(笑)。僕がガイドを始めた頃は、ホロコーストの生還者が案内していたので、それをこそこそ盗み見ながら学ぶんですよね。だから、今の僕はそれを真似しているところがあります。

――生還者の方々が案内するのを見て学んだことの中には、どんなことがありましたか?

うーん......。その、淡々と話すんです。涙を流すどころか、淡々と話す。ここにまず感動して。

僕の想像だと、あの時代を思い出してすごい思いをしながら話してるのかと思ったら、淡々と話しながら、時々笑うわけですよ。にこっとしながら、冗談を言ったりもして。こんなにひどいことがあったのに、その場所に戻ってきてですよ? それにすごい惹かれてしまって。

「なんなんだ、こういうことができる人は」とか、「あー、こういう世界もあるんだ」とか思って。なんかこう、人間というものの不思議さというか、「何のために伝えるのか」という究極の場面に出会うわけですよ。だから、そういう人とは個人的に付き合って、仕事終わりに毎日駐車場でべらべら話したりしました。その経験は、今でも結構支えになっています。

――生還者が少なくなっていく中で、歴史を伝える活動にはどんな困難が出てくると思いますか?

生還者の皆さんは体験談も書いてるし、証言もなさってるし、資料はあるわけです。でも一つ問題は、戦争を経験していない僕たちの世代が資料を読んだからとか、証言を聞いたからとかで勘違いして、「わかったふり」をして伝えちゃうこと。つまり、自分がいかにも経験したように話しちゃうことです。これは危険ですよ。

なぜ危険かというと、僕も経験があるんですけど、嘘をつき始めるんですよ。訪問者の方々が聞いてくれるので、不思議と話を作っちゃうんです。僕は伝える側なので、もっと話を聞いて欲しいものなんですよね。するとどんどんエスカレートしてきて、話を誇張したりしてしまう。でも、ある部分が誇張されてしまうと、次に訴えようとする部分も完全にぶれてしまって。もう、しどろもどろになっちゃいますよね。

だから、「今ここで話してることは、誰々さんが言ったことですよ」と、必ず誰の証言に基づく話であるかを強調して説明するようにしています。

アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ

■タブーに立ち向かうのは、生還者ではなく戦争を経験していない次世代

――資料はあると言っても、やはり経験者ではないと伝えられないことはあると思いますか?

それはありますよ。やっぱり生還者の方の講演会とかで通訳をすると、全然違う。ダイレクトに話を聞くことだけでも違うし、生還者の本を読んでいても、ぎこちなさを感じさせる文章が、真実性を訴えたりする。そんなことは真似できないわけですよね。生身の人間じゃないとできない。

だから僕はもう、そこまで追いつこうという気持ちは全くないわけですよ。むしろ、役割分担だと思っています。

――役割分担とは?

僕たち戦争を経験していない世代には、アウシュヴィッツの歴史から距離があるからこそ、「じゃあこの歴史をどう理解して、どう将来につなげていこうか」というところまで議論することができると思います。直接被害を受けて痛みを受けた人は、あまりにも傷が深すぎてそこまで話を発展できないこともある。

だからこそ、今の問題にどうアウシュヴィッツの歴史をつなげて議論していくかが、戦争を経験していない僕たちの役割なんだと思います。

例えば、広島や長崎でも、体験者ではない人が史実を伝えていくプロジェクトが近々スタートするそうですが、プロジェクトに関わっている方々と話をしていて感じるのは、当時の出来事をいかに正確に伝えるかということに一生懸命になっていることなんです。これも大事なことなんですよ? ただ、一方で、それはもう不可能なんです。自分で経験してないわけですから。

僕が考えるには、これからの世代が広島や長崎の原爆被害を伝えていく目的は、今核爆弾を持っている国とか持とうとしている国についての議論を活発にしていくことであって、その部分が僕たちに求められていることだと思います。

――史実を伝えていく目的は、現代社会が抱える問題について議論するためということですか?

まずは史実というベースがなければ、議論も成り立たないわけですからね。「原爆のせいでこんなひどいことが起きた」という事実がなければ、今何を考えるべきかという議論も起きない。だから伝える必要がある。それもやっぱり被害者の名前もあげて、正確に伝えていく。

ヨーロッパにとっても、人種差別やユダヤ人問題というタブーに近い難しいテーマに立ち向かうのは、被害を受けた本人たちではなくて、次の世代なんです。広島の被曝やアウシュヴィッツの迫害の歴史を理解した上で、そこから今現在社会に山積している問題にどう立ち向かっていくのか。人種差別などといった難しい問題に、次の世代の人たちが立ち向かっていけるかどうか。ここの部分が僕たちに求められていることなんです。

だから、最近僕が案内中によく話をするのはISIL(ダーイシュ=イスラム国)の話だったり、(ダーイシュに殺害されたジャーナリストの)後藤健二さんの話だったり。ホロコーストが起きた当時、後藤さんのような人がアウシュヴィッツで繰り広げられていた出来事を世界に伝えていたら、歴史はどう変わっていただろうかとか、問題提起をするわけです。

他にも、今世界で起きてる色んなテロの問題とか、ホロコーストとイスラエルの建国、パレスチナ問題がどのように繋がっているかも重要なテーマです。

ビルケナウに展示されているハンガリーからユダヤ人を連行する際に使われた貨車

■切磋琢磨で「常識」を作っていく

とは言っても、史実を伝えて議論していく作業は「常識作り」であって、みんなでやっていかなければならないことだと思います。

――常識作り?

だって、僕は立派な人間でもないし、物事を全て正しく理解できているわけでもない。僕はみなさんにアウシュヴィッツ博物館を案内して、ここに来てくれる人たちからいい答えを聞きたいのです。それでいい答えをもらったら、次訪問する人にまたその答えを投げかけて。そうやって切磋琢磨しながら、みんなで常識を作っていくのが一番理想的だと思ってるんですよね。

だから、僕の意見を聞いて欲しいとか、僕が物事を知っていてみなさんに教えてあげるとか、そんな気は毛頭ないんですよ。僕がここでガイドとして学んだことはみなさんに提供するけど、それをもとにもっといい答えをくださいというのが僕の正直な気持ちです。

だから、ガイドをしていて一日の終わりに一番失敗したなと思うのは、「中谷さん、本当にご苦労様でした、これからも頑張ってくださいね」と言われたときなんですよ。まだ、「中谷さん、何を言ってるんだ」とか「君の発言は偏りすぎてる」とか「お礼を言いたいと思ったけど、まだもやもやしてる」とか言ってくれた方が全然よくて。

一番失敗したケースは「これからも頑張ってね」と励ますばかりで、訪問者自身が頑張ろうという気持ちが感じられないとき。そうなったときに一番疲れるし、僕の案内の出来が悪かった日です。

収容棟の中をのぞく訪問者の方々。この日訪れた方は、全員中谷さんに個人的に連絡をとって案内を依頼した

■「平和神話」にしがみつく日本

――ポーランドへの移住を決めたきっかけは、学生時代のヨーロッパ旅行中に出会ったポーランド人の若者だったそうですが、何が印象的だったのでしょうか?

1989年に民主化するまでポーランドは社会主義の国で、僕が旅行した当時もまだ言論の自由がなかったんです。なので、出会ったポーランド人学生たちは、僕に「お前の国はいいな」「俺たちもそういう風になりたいよ」とか言ってきたんです。

しかも、誰に聞かれてるかわからないから、こそこそ話すわけですよ。それが印象的で。そりゃあテレビでは見てましたよ。ポーランドはまだ自由のない国。言論のない国。冷戦の国。社会主義の国。イメージはあったけど、目の前にいる自分と同じ年代の学生が、こそこそと話をしなければならない立場にいるということがすごく新鮮だったんですよね。

だから、僕たちがこうやってコーヒーを飲みながら、自由に話をしてるのだって、それ自体とても価値があることなんですよね。

共産党時代のポーランドじゃなくったって、それこそ第二次世界大戦前のドイツには自由も民主主義もあったのに、ヒトラーに任せてそれを放棄していくわけです。1933年にナチス・ドイツが政権を獲得した時、彼らの得票率は約3割だったと言われています。でも、3割で十分だった。この歴史を見てると、自由や民主主義を保っているバランスが急にがくーんと崩れることがあることを知るわけですよ。

最近、ガイド中によく使うようになったのが「平和神話」という言葉です。日本にあるのは平和ボケじゃなくて、平和神話的なものなんじゃないかと思って。「今ある平和はずっと続いていくんだ」とか「平和が当たり前、崩れることはないんだ」っていう神話にしがみつこうとしている。

それで、領土問題も歴史問題もないふりをして、色んなバランスがぐらぐらしてるのに、神話的に平和だと思い込もうとする。問題があるのに、ないふりをする。その意識が日本に蔓延しているような気がして、心配なんです。

だから、政治家や外交官に任せきりにしないで、僕たちが何かこうちょっとずつ動けないか、と思っています。みんなで史実を学び、議論をして、少しずつ僕たちの世代の常識を作っていけないか、と。

博物館内を案内する中谷さん

………

中谷剛さん 神戸市県出身。1991年に医療器具メーカーの営業の仕事を辞め、ポーランドに移住。1997年に外国人として初めてアウシュヴィッツ博物館の公認ガイド資格を取得した。以来、日本人訪問者にアウシュヴィッツの歴史を伝え続けている。著書に『新訂増補版 アウシュヴィッツ博物館案内』など。博物館案内の依頼は、中谷さんの個人サイトから可能。

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