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放射線被害を告発した「ドキュメンタリーな学習」 映画で脚光を浴びても衰退の危機はなぜ?【映像あり】

2014年06月08日 23時33分 JST | 更新 2014年08月05日 18時12分 JST

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(調査する山下正寿さんと高校生たち、1980年代)

■私が注目する「ドキュメンタリーな学習」

「ドキュメンタリーな学習」というのは、テレビや映画のドキュメンタリーに登場するような"リアルな現場"を実際に取材して"生身の当事者"が経験した痛みなどを追体験し、問題の本質を考える教育のことで私が勝手に名付けたネーミングだ。

人は、実際にその問題について自分の目で見て、自分の耳で聞き、ごつごつした物体に触れて、その場に立って空気を吸って初めて「実感」できることがたくさんある。

百聞は一見にしかず。

テレビの記者やディレクターを長いことやってきた上での実感だ。

「貧困」のように社会の矛盾が噴き出している問題。「原発事故」の収束の遅れなど国家の無責任を痛感させる出来事。「えん罪」など捜査機関の作為で罪人にされて人生の大半を奪われてしまう理不尽。他方で、人が本当に生き生きして輝く瞬間。そんな様々な悲しみや怒り、喜びをリアルに感じられる「現場」。

そこに自分の身を置いて、当時者に話を聞く。現場を肌で感じ、五感を駆使して感じ、考える「学びの場」。

最近、こうしたリアリティを感じられる「学び」が、若い人たちに以前にもまして必要だと感じることが多い。

■どんどん「内向き」になる若者たち 

学生と接するなかで痛感するのが、今の学生たちが恐ろしく社会経験に乏しいことだ。バイトやサークルをしていてもそのパターンは均一化している。SNSの発達もあり、半径10メートルくらいの「仲間たち」とラインやツィッター、フェイスブックなどで四六時中つながって連絡を取り合い、じゃれ合う一方、その狭いサークルの「外の社会」を知ろうとしない。そんな印象が強い。

大震災で肉親を失って悲しみを抱える当事者に切実な体験談を聞かせてもらって、思わず一緒に涙を流してしまうような機会でさえも、学生たちは話が終わったとたん、まるでスイッチが切り替わったように手元に目を落とし、スマートフォンの画面を見つめてニヤリと顔を緩ませる。「半径10メートル」の世界に閉じこもり続ける。

授業で「外の世界」に話を聞きに行こう、調べてみようなどと指示すると、見知らぬ相手とどうやって話をすればいいんですかと尻込みする学生が少なくない。関係者からじかに話を聞くように促してもインターネットのサイトを訪問するだけで、いつまでもリアルな当事者に誰ひとり会おうとしない学生もいる。

そういう学生は就活でもかなり苦労する。まともに大人と話ができないので大人から見てしっかりした学生だというふうには映らない。学生同士の狭い世界での会話では人気があっても社会で起きていることにはさしたる関心がなく大人たちが持つ問題意識を共有できないから「意識の低い学生」としか見られない。大人に対して手紙やメール文を書くことや電話をかけることもうまくできない。自分の興味があることや学生時代に打ち込んだこと、気になっている社会問題など実際にはないから、面接で質問されてもうまく答えることができない。

■大学では「リアルな体験」をする学習が課題

大学ではそれぞれの科目で勉強方法を工夫し、体験型の授業、プロジェクト型の授業、フィールド調査など。学生たちが自分たちで何かを調べたり、企画を実現させたりする学習で総合的なチカラをつけさせる試行錯誤が続いている。

私自身はテレビ局で報道ドキュメンタリーを制作する仕事を長くやった後、2年あまり前に大学教員に転じ、現在はドキュメンタリーを作る授業(演習、ゼミナール=ゼミ)を教えている。ゼミというのは大学や大学院などで行っている少人数で本を一緒に読んだり、調査を行ったりし、議論や発表を通じて互いに啓発し合う双方向性の強い授業のことだ。

実際に始めてみて分かったが、私が教えているドキュメンタリーをつくるゼミは、偶然、大学教育が広げようとしている様々な体験型の授業の一種にもなっていた。

ドキュメンタリー制作のプロセスは、リアルな人間たちを「取材」し、「映像作品」として表現する。出来事が進行している「現場」に行って問題を調べ、考える究極の体験型の授業でもある。

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(法政大学・水島ゼミで「ドキュメンタリー取材」で宮城県名取市の復興仮設店舗「閖上さいかい市場」を取材する大学生。2013年8月)

やってみると問題意識が高いとは言えない学生でも、いろいろな場所に行って当事者に出会い、話を聞く作業を繰り返すうちに、少しずつ慣れていき、様々なテーマに興味を持って自ら取材に出かけるようになっていく。

原発問題、虐待、LGBT、大震災からの復興、ネット右翼、ホームレス、地域の再生、農業、障害者、女性の貧困、沖縄の基地問題・・・といざ始めてみると、探究すべき社会の問題は多い。次第に興味を持つようになって「ミニジャーナリスト」が誕生していく。人間への関心、社会への関心が深まっていく。

リアルな社会問題や生身の人と触れあう体験が若者たちを大人にしていく。だから、社会のリアリティに触れるドキュメンタリー取材のプロセスは、社会を勉強するプロセスとしても有効だ。将来、ジャーナリストになろうという人も、別の仕事に進む人も「現場」に出会って成長していく。

私のなかではそんな確信が深まっている。

そんなおり、同じように若者たちが自ら社会問題を取材して歩く「ドキュメンタリーな教育」を、「ゼミ」(ゼミナール)という名称で30年も前から実践している人たちの存在を知った。通常「ゼミ」といえば大学生や大学院生を対象にするケースが多いが、相手は高校生だという。しかも学校でやっているのではなく、あくまで「自主的な取り組み」として続けられているという。

面白そうだ。話を聞きたくなった。

■映画「X年後」で脚光を浴びた"高校生ゼミ"

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それはドキュメンタリー映画にも登場する「高校生のゼミ」だった。

現在、全国各地で自主上映されているドキュメンタリー映画「放射線を浴びた[X年後]」の評判がすこぶるよい。

「あの日、日本列島は死の灰に覆われていた」。そんなショッキングなキャッチフレーズで宣伝している映画だ。

 

映画「放射線を浴びた~X年後~」の公式ホームページ

映画「放射線を浴びた~X年後~」予告篇

南海放送のディレクター伊東英朗さん(52)が制作したドキュメンタリー番組「放射線を浴びたX年後 ~ビキニ水爆実験、そして・・・」(2012年1月、日本テレビ系「NNNドキュメント」で全国放送)を映画化したこの作品は、優れたテレビ番組に贈られるギャラクシー賞で、報道活動部門の大賞に選ばれたほか、早稲田ジャーナリズム大賞を始めとして10以上の賞を受けて話題を呼んでいる。

映画化についての告知は、http://www.ntv.co.jp/document/news39.html

映画の公式サイトは、http://x311.info  

自主上映の輪もじわじわと広がっている。日本ばかりか米国各地でも上映が行われ、英国BBCで放映も決まるなど海外からの注目が集まっている。放射能の影響という国際的に関心が高い分野でもあり、テレビから映画のドキュメンタリーになったケースとしては異例なことに反響は国際的な広がりを見せる

元々のドキュメンタリー番組を紹介する文章には、こう書いてある。

「1954年。18ヶ所の漁港に鳴り響くガイガーカウンターの音。水揚げされる被ばくマグロ。南太平洋から戻るマグロ漁船の船体や乗組員の衣服、頭髪、そして魚からも、強い放射能が検知された。アメリカが太平洋で行った水爆実験は、広大な範囲で大気と海水と魚などを汚染。「放射性物質」は、日本やアメリカ本土にまで届いていた。しかし事件から7ヶ月後。被ばくマグロが続々と水揚げされる中、日本政府は突如、放射能検査を打ち切った。数日後、両国政府が文書を交わし、事件に幕を引いたのだ。人々の記憶から消え、歴史から消し去られた被ばく事件。なぜ、これまで明るみに出なかったのか。そこには、両政府の思惑と人々の切実な思いがあった。8年にわたる取材から事件の全容を浮かび上がらせる」。

http://www.ntv.co.jp/document/back/201201.html

「X年後」は、1954年にビキニ環礁でアメリカによる水爆実験で被ばくしたマグロ漁船を追跡取材したドキュメンタリーだ。ビキニの核実験といえば、アメリカが設定した危険水域の外の海で操業していた静岡の「第五福竜丸」が有名だ。死の灰を浴びて無線長が多臓器不全で半年後に死亡するなど、23人の乗組員は大半がガンなどの症状で比較的若くして死亡した。しかし、被ばくについての健康調査や補償は日米政府によって早々に政治決着されて幕引きとなった。

このため、第五福竜丸ばかりが被ばく漁船として注目されたものの、核実験の際に同じ海で操業して死の灰を浴びた日本漁船は数多く存在していることはあまり表に出ずに終わった。実際には静岡、高知や神奈川、愛知など全国各地で分かっているだけでも延べ1000隻近い漁船が死の灰を浴びていた。

そうした漁船に乗っていた漁師を訪ねていくと、やはり多くがガンなどの病気で比較的若くして死亡していることが分かった。船員たちは長い間、風評被害や仕事を失うことなどを恐れ、口をつぐんでいた。

「X年後」では、高校生たちが被ばく漁船の放射線量をガイガーカウンターで測定し、元漁船員やその遺族の消息を訪ね歩く姿がモノクロ映像で登場する。

死の灰を浴びた日本漁船のその後について実態調査したのは地元の高校生と教師たちだった。

■マスコミも驚いた高校生の「調査報道」

ビキニの核実験による日本漁船の被害を取材して歩いたのは「幡多(はた)ゼミナール」(通称・幡多ゼミ)と呼ばれる高知県西部の幡多地区の高校に通う生徒たちが参加する自主的な社会勉強サークルだった。

幡多ゼミナールは1983年に誕生し、ちょうど昨年、活動30年の節目を迎えたばかりだ。

中心的にかかわったのは山下正寿さん(69)、高校の元教師だ。

映画「X年後」にも山下さんが高校生を率いてビキニの放射能汚染について調査する姿が登場する。

元漁師やその遺族が重い口を開いたのには、取材したのがマスコミとは違って「地元の高校生」だったから、という要素が強かったという。

 

「放射線を浴びた漁師や遺族はマスコミが取材に行っても口を開かなかった。新聞記者などは仕事で聞くわけだから、なかなか話をしてもらえない。でも高校生には実態を話してくれました。孫のような年齢の地元の高校生が地域で何があったのか真実を知りたいとやって来ればやっぱり違ってくる。まだ誰にも言ってなかったことを初めて話したという人も少なくなかった」と山下さんは振り返る。

「X年後」の映像を見ると、被ばく漁船に関する「調査報道」を高校生たちが実践する様子が伝わってくる。まだ表情にあどけなさが残る少女少年たちが記者やディレクターのように取材していた。

山下さんは自宅を増築し、幡多ゼミの拠点として提供。高校生の会合・練習場として活用してきた。多い時には山下さんを筆頭に「顧問」として指導役を担う高校教師が10数名、その下に5~60人の高校生が集まる大所帯になった。最低でも週一度は集まって話し合い、聞き取り調査を行い、その結果を冊子などで発表する活動をしてきた。

■地元の"歴史"を掘り起こした

生徒が聞き取り調査をした被ばくマグロ漁船の問題は、知られざる地元の過去の歴史を掘り起こしたものだといえる。

幡多ゼミでは「地元」と「現代史」にこだわった。徴用された朝鮮半島の人たちが四万十川上流のダム建設工事に駆り出されて事故などで犠牲になった知られざる歴史も、関係者や遺族を訪ね歩いて実態を掘り起こした。戦争中に赤紙が来て戦地に赴いて命を落とした人たちの無念も遺族の話を聞いて歩いた。

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(高知での空襲の記録)

30年続いている高校生たちの調査は実に多岐にわたっている。地元のいろいろな職業の「現場」に学ぼうという姿勢も強かった。

「農林漁業業に従事する人から話を聞くと、学校の教師が持っていない迫力で、プロならではの知恵を教えてくれる。林業の現業のプロなら、パッと山を見て木を見渡して『先がトンがっている杉の木っていうのは、まだ成長するんだよ』などと話します。

『先が丸くなったら木はもう成長しない。人間と一緒だよと。トンがっている若いうちはまだ伸びる。丸くなったらもう成長が終わった年寄りのあかしだよ』と...」。

本物のプロだけが発する含蓄ある言葉は若い魂を揺さぶる。

「林業だけでも、とても奥が深いんです」。

実際、こういう言葉に触れて、その職業にほれ込んで就職した生徒も一人や二人ではない。

「教師は"心に響く言葉"を生徒に届けるのが仕事です。それには、その地域でいろいろなその道のプロの人たちに会わせるのが早道です。価値観が違う、いろいろな人たちに出会わせて刺激を与えてもらう。学校だとなかなかできないことですが、幡多ゼミでは実現させることができた」。

「現場」から学ぶ。

それが幡多ゼミの「学び」の基本だったと山下さんは言う。

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(「幡多ゼミナール」の顧問・山下正寿さん、69)

■高知県民の「おおらかさ」と「女子力」

こうした活動が活発にできていた背景には、高知県の人たちの県民性が影響している、というのが山下さんの解説だ。

高知県は山が占める割合が多く平野部が少ない県だ。平野部は面積で16%あまりに過ぎない。残りは山林ばかりだ。

そんな狭い地域で農林漁業の一次産業を細々と営んできた人々は、職業の違いを超えて「分け隔てない」「おおらかさ」を身につけたのではないか。山下さんは住民たちとのつながりを通じてそう感じている。

高知県の地元料理である「皿鉢料理」(さわちりょうり)もその象徴だとみる。大きな皿に料理をドンと盛って魚でも肉でも羊羹でも一度に出す。みんなで箸をつけて食べ合う。順繰りに出す料理とは違って、料理と配膳が一度の手間で済むので食べる時には料理した女性たちも同席できるように配慮されている。

食事の時でも会話の輪の中心にいる高知女性の底抜けの明るさ。その存在が高知の文化の原風景にある。幡多ゼミでも女子生徒が中心になって引っ張った。

最近、よく話題になっている「女子力」が高いということだろうか。

山下さんの家に集まった時には生徒たちが料理して食卓を囲んだ。

一緒に遊び、一緒に食べ、一緒に議論する。そんな光景が繰り返された。

■ゼミが私の人生を変えた

幡多ゼミに参加して「人生が変わった」という女性がいる。

小川裕代さん(42)だ。工業高校の1年だった1987年、幡多ゼミに参加した。

経済的に苦しく家庭の事情で工業高校へ進んだ小川さんは、同じ工業高校で教師だった山下さんに出会った。山下さんが顧問を務めていた「地域探究部」に入部して地元のことを調べるうちに楽しくなって、普通高校など他校の生徒も参加する幡多ゼミナールに参加し、その活動にはまっていった。

「とにかく楽しくて...。他の高校の生徒など友だちといつも一緒にいられた。正直に言うと、社会活動に興味があるというよりも友だちと一緒に行動する楽しさで幡多ゼミに入り浸っていました」。

小川さんは、ビキニでの漁船の放射能被害や朝鮮半島の人々のダム建設工事現場での労働問題などの聞き取り調査を行った。

ビキニの被ばくではゼミに参加したばかりの高校1年生の時、土佐清水市で「第五住吉丸」という漁船の調査を体験した。15歳だった。ガイガーカウンターで放射線値を調べながら調査した。「X年後」には小川さんら高校生が調査しながら驚くシーンが登場する。

カウンターの音が鳴り響く。バリバリバリ...。

「うわあ、どういうこと?怖いね、これ」とつぶやく高校生たち。測定器の針が振り切れてバリバリという音が鳴り続ける。

当時、被ばくして35年が過ぎているにも関わらず、船体からはセシウム134やストロンチウム90などが検出された。 乗組員11名中8名がガンのため亡くなっていた。

小川さんはこの時から被ばくについての本を熱心に読むようになったという。

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(幡多ゼミによる放射線被害の追跡取材をまとめた本)

■忘れられない遺族の悲しみ

小川さんが今でも強く印象に残っているのが、27歳で自死を選んだ藤井節弥さんという青年に関する聞き取り調査だ。長崎原爆で被ばくした藤井さんは、ビキニでの水爆実験でも漁船員として被ばくし、体調不良と後遺症の恐怖に苦しみ、1960年に命を絶った。

福井県まで藤井さんの実家を訪ねて聞いた時の母親の慟哭が忘れられない。

「なんでこんな目に遭ってしまうのだろうかと...。理不尽を感じました」。

小川さんがもうひとつ強く印象に残る人が沖の島の荒木初子さんだ。

満足な医療機関がない離島・沖の島。現地の風土病といえるフィラリアで次々に乳児が死亡するなかで保健師として孤軍奮闘したのが荒木初子さんだった。グループで話を聞きに行った後、小川さんしばらくして再び話を聞きたくなって次はたった1人で荒木さんのもとを訪れた。

自分の地域について本当のことを知りたい。今報道されていることは本当のことなのだろうか。自分自身も地域に貢献したい。そんな気持ちがどんどん高まっていった。

参加する高校生からすれば、小川さんのように工業高校の生徒なら普通校の生徒と仲よくなりたい、男子ならば他校の女子生徒と仲よくなりたい、など若者らしい「不純な動機」で参加するケースがほとんどだったという。だが、やっていくうちにどんどんはまっていった。国が明るみに出そうとしない放射能汚染の実態や朝鮮人の徴用などの理不尽な実態。悲痛な体験をした人たちや使命感を持って社会的な役割を果たした人たちに話を聞いていく。いつしか小川さんは中心的な存在になっていた。

そのうちに、自分のやりたいことが次第に見えてきたという。

小川さんは、幡多ゼミで障害者施設を訪れたことがきっかけで、障害者福祉に興味がわくようになり障害児教育の教師を目指すことを決めたという。高校3年生の時だった。工業高校では卒業後に就職するのが一般的だが、一念発起して勉強して大学へ進学した。大学では普通高校出身者と比べて未履修の科目が多かったことで苦労の連続。だが念願かなって現在は知的障害児の特別支援学級の教員として働いている。

「いろいろ思い出してみても...もし幡多ゼミに参加しなかったらと考えると今の仕事につくことは絶対になかったですね。それだけは言えます」。

記憶を確かめるように言葉を選んだ末、小川さんははっきりと言った。

幡多ゼミは一人ひとりの高校生にとって、人生を変えるような学びの場だったのだろう。

■「反骨精神」と「私塾」の伝統と

幡多ゼミのような「ゼミナール活動」は、戦後各地で盛り上がった平和労働運動との関連が強い。なかでも高知県内では教員の勤務評価に反対する「勤評闘争」や全国一斉の学力テストに反対する「学テ闘争」あるいは日米安保条約改定に反対する「安保闘争」など教員たちの労働組合による闘争がさかんだった地域だ。

山下さん自身も労働組合活動に熱心な教員の一人で、幡多ゼミの存在も労働組合運動の延長線上にあったということができる。

その2つに共通するのは「中央」に対する地元の「反骨精神」だといえる。

「中央」が押しつけてくる学力テストや教員の勤務評定などに反対の声を上げた活動家たちとゼミナール運動を支えた教員たちは重なっている。

「反骨精神」が強い人たちが支えたゼミ活動。高知県内では「幡多ゼミナール」の他にも、「高知高校生平和ゼミナール」などゼミナール活動が活発に行われた。

高知という土地柄で幡多ゼミのような地域の活動が他の地域に比べて盛り上がったのは、幕末からの「私塾」の伝統が脈々と続いているから、というのが山下さんの見方だ。

坂本龍馬を筆頭に幕末や明治維新にかけて活躍した人間を数多く出した高知県。私塾といえば後藤象二郎、岩崎弥太郎らが学んだ鶴田塾(少林塾)が有名で、自由民権運動の先頭に立った板垣退助もここで学んだ。その系譜からは権力なにするものぞ、という強い自律精神が感じられる。

「議論好き」な高知人の気質。山下さんの言葉を借りると「どんな考えであっても自分の考えを言える人間が何も言えない人間よりずっと偉い」という意識がある。加えて「分け隔てがない」「ラテン的な陽気さ」を持つ県民性こそ幡多ゼミの活動が盛り上がった背景にあるのだろう。

■大きく変わった教育現場

1983年に始まった幡多ゼミナールの活動は30年の歴史の中で前半15年間がヤマ場だった。

21世紀に入る前後から、ゼミの顧問を務める教師が急に減り、参加する高校生も少なくなっていった。

ゼミ活動が停滞した理由を、山下さんは「学校の管理教育」だと言う。

「学校の管理教育が強まるにつれて、ゼミ活動が弱まっていった」。

幡多ゼミを顧問として手伝っていた教師は、前述のように山下さんも含めて労働組合の役員や組合員が多かったが、教職員労組の組織率は低下する一方で全盛期の半分以下になった。

それが幡多ゼミにも影響を及ぼしている。「顧問」としてゼミを手伝う教師がいなくなっているのだ。

学校の管理強化が進み、教師は業務での成果を求められるようになった。作成すべき書類も飛躍的に多くなった。負担が増加し、すっかり余裕がなくなってしまった。そうなると定時に学校の仕事を終えて、勤務後に自主的なゼミ活動を手伝うことなどできなくなってしまう。

教師ばかりか生徒も外へ出られなくなった。

■「中身を教えず、うわべだけ」の学校

「受験校では勉強ばかり教えて、面接のやり方まで教えている。何の知識もない生徒、社会的な関心もない生徒、本も読んでいない生徒に、こう聞かれたらこう答えなさいなどと教える。言ってみればウソのつき方を教えていると同じではないか」。

すでに高校を退職して久しい山下さんの教育現場に対する批判はかなり辛辣だ。

「教師は本当にその子に社会的関心があって、判断力、探究力、知識があるならば、現場に見に行かせて、さらに本を読ませて、本当の学習の喜びを教えるのが役割です。生徒の関心の入り口は『社会的な問題』なんですよね。でも今の学校ではその入口を断ち切った状態で受験勉強に合わせて生徒を仕上げていく。畑で言ったら、即効性のある化学肥料を放り込んでいるようなもの。

本当の自然の治癒力とか栄養とかで育てずに、すぐ効き目のあるもので育てようする受験勉強。実業高校でも資格試験ばかり。この先ずっと使うことがない、取る必要のない資格も含めて。成績という尺度で生徒を追い立てて、土日をつぶす。

そういうことに熱心な教師が職場で評価される。体育でも順位が重視される。学校がそういう価値観に縛られていくと、若者の本来の可能性とか多様性が切り捨てられる。その結果、社会的な問題だけでなく、どんなことにも関心を持たない若者が育っていく」。

このテーマになると山下さんは憤りのために話が止まらなくなる。

 確かに若者に社会的な関心を持たせるという意味では、現在の学校教育はすっかり点数化や管理化が進み、教師も生徒も「社会のリアル」に触れて知的な刺激を受けるという機会はごく少なくなっている。

山下さんの教え子で幡多ゼミによって人生が変わったという前述の小林裕代さんは現在の教員の一人だが、「今の教員はやることが多くて忙しすぎる」と余裕がない日常を嘆いている。

時代がすっかり変わってしまったようだ。

■ゼミの衰退は"精神の自由"の危機

山下さんは今も幡多ゼミの看板を掲げて活動を続けている。

地元高知の高校生と一緒に原発事故の影が色濃く残る福島に行き、沖縄に行ったり、東京や神奈川などの高校生と一緒に合宿をやったりと、目まぐるしく動き回る。

高校生の「社会の現実から学ぶ社会勉強の場」は今も健在だ。

しかし、全盛期には毎週のように、忙しい時期には毎日のように生徒が泊まり込んで議論し合った熱気からはすでに遠いものになっている。

活動も福島の原発問題、沖縄の基地問題、韓国の戦後補償問題など「地元」の歴史の掘り起しから少し離れたテーマも多くなった。

「この10年、教育現場で失われた自由を取り戻せないものか」。

山下さんはそう感じている。

教師や生徒が社会問題に無関心だと人々が失ってしまうのは自分の頭で考える「精神の自由」だと話す。

「社会的な問題だけでなく、何にも関心を持たない子どもが育っている。それは大変な問題だ。ゼミに参加しようという教師も生徒も減り、社会問題への反応は弱い。それは『精神の自由』の危機だと思う。日本中で社会的な問題について調査する自主的なゼミ活動が衰退している。

どこへ行っても社会問題を勉強しようという関心が以前よりもずっと後退した。物は豊かになって、電気もじゃぶじゃぶ使える。夜もコンビニに行けばなんでもある。そういう一見『自由』に見えるが、実際には『貧困』な世界になっていると感じる。

一度使うと後戻りしにくい。原発反対と言っても、電気を止められたら困る、と感じる。それで崩されてしまう。若い人が特にそう。電気の奴隷みたいだ。便利な生活と引き換えに精神の自由を奪われていく。それを脱却することがいかに大事かを伝えていきたい」。

■教育実践として再評価が必要

現在、ゼミに来る高校生は全盛期の3分の1以下の10数人に過ぎない。しかも、試験の時期や学校行事、進路指導の時期などにはまったく来なくなる。

教師と高校生が自分たちで自主的に取り組んできたかつての自由なゼミナールは大きな曲がり角に来ている。

インターネットなどに書き込まれる若者たちの文章を読んでも痛みを持つ人への想像力が乏しくなり、容赦ない誹謗、中傷、攻撃がむき出しになっている。自分とは異質な文化的な背景、社会的な背景を持つ者への無関心や無理解が広がっている。

だからこそ、リアルな社会問題を調べたり、リアルな人々と触れ合ったりして、現実の社会の問題や人間というものを学ぶ、という幡多ゼミのような学びの場は今の時代こそ必要だ。大学でこうした教育実践が注目されているのにはそうした背景がある。

映画「X年後」のヒットで一躍注目を集める高校生のゼミナール。

実際の活動が衰退傾向にあるのは皮肉だが、このところ発言する機会が増えた山下さんの存在とともにゼミ活動そのものも、教育的な実践として再評価されるべきだと思う。

 やはり「ドキュメンタリーな学習」がこの社会には必要なのだ。

(長編ドキュメンタリーのようにすこぶる長い原稿におつきあいいただいた方。辛抱して読んでくださり、ありがとうございました。)

(この記事はジャーナリストキャンプ2014高知の作品です。執筆:水島宏明)