死について、あなたは子どもにどう説明しますか?

「お母さん、私が83歳になったらお母さんはどこにいるの?」

命はいつか終わる。あなたが何をしようと、どこの出身だろうと。金持ちだろうが、貧乏だろうが、仏教徒だろうが、イスラム教徒だろうが、男だろうが、女だろうが、誰もが死ぬのだ。これはすべての人に共通なことだ。

そして私のまだ小さい長女が少しずつ理解し始めていること。

保育園に向かって歩いている途中、私たちは舗道の上でクロウタドリが死にかけているのを見つけた。羽をケガしていて、明らかに最後の息をしていた。私たちはそっとその鳥を取り上げ、安全な道路わきの植え込みの中に置き、鳥が息をひきとるまで静かに、そして敬意を持って見守った。娘はじっと見つめ、話しかけ、優しい言葉をかけながら、生まれて初めて死を体験していた。

娘と私は共にに泣いて、抱きしめ合った。彼女の心は悲しみに打ちひしがれていた。私たちは、その鳥の苦痛は終わったこと、もう悲しみや怖れもないこと、そしてずっと安らかに眠り続けること、などを話した。もう何カ月も経つのに、娘は未だにそのことを思い出すようで、もう苦痛を経験しなくていいように永遠の眠りに着いたかわいそうで、年老いたクロタドリの話をする。

昨日、彼女はいつ自分が8歳になるのかと質問した。彼女はまだ4歳なので、私は大分先のことだと答えた。彼女は笑って、今度はいつ自分は83歳になるのか、と訊ねた。

「お母さん、私が83歳になったらお母さんはどこにいるの?」

私は、もうこの世にはいない、と彼女に答えた。私はとっくに死んでいて、娘は、彼女自身の子供の母親になって、またその子供のおばあちゃんになっているだろうと答えた。

その時、突然限りある命に対する不思議な実感が私を襲った。

これまで死は何度も見てきた。祖父母や友人の死もあったし、自分のペットの死も見てきた。「ディグニタス」のドキュメンタリー番組も見たことがある。自分の本の中でも死の場面を一度ならず書いてきたし、死のシーンは映画でも、テレビでも数えきれないほど見ている。小説でも何度も読む機会があった。死は私にとって馴染みのない概念ではない。にもかかわらず...。

私は死ぬのだ。いつか私は死に、私の娘たちには会えなくなるのだ。

今になってまるで新らしい、初めてのことのようにそのことを考えるなんておかしな話だ。これまでにも、もし私が若くて死んだら娘たちは誰のところに行くのだろう、誰が彼女たちを世話し、育て、愛してくれるのだろう、と考えることもあったし、妊娠中に死にかけてからは、その日がいつか来ることへの怖れは常に心の片隅にあった。生死の境を経験して、死を怖れていた。

自分の葬式をどういう風にしてほしいか、墓石とかそんなものはいらないし、自分の遺骨は樹の下に散骨してもらって、みんなが一杯、あるいは10杯ほど飲みに行く前にはフリートウッド・マックの『アルバトロス』をかけてほしい、とか考えたりもした。

死後の世界について思いを巡らせたこともある。色々な宗教や信仰者が教えるさまざまなバージョンを見て、自分が信じることができるものがあるか探ぐって、結局「私にはわからない」という結論に落ち着いた。

しかしいくら考えても、どれだけ折り合いをつけても、何度悪夢にさいなまれても、実際の死とは何なのかは未だに曖昧なままだった。

ところが、死の現実は私に深い衝撃を与えた。自分の子供たちともう一緒にいられないこと。彼女たちに会えないこと。彼女たちが幸せでいるのか、愛されているのか、元気でいるのかを知る由もないこと。彼女たちが悲しみに打ちひしがれている時には慰め、病気の時は治るように助け、迷っている時はアドバイスをすることすらできないこと。

31歳になって、私はこれらすべてに関して未だに母を全面的に頼りにしている。少なくとも、ショートメールなどで母と話をしない日はないし、母からの慰めや助けやアドバイスに頼っているのは子供の時と同じだ。時にはそれ以上に必要としている。母がいなくなってしまうことが怖いし、また、私が娘たちを残して死んでしまうことを思うと茫然となる。

長女が83歳になり、次女が80歳になった時、私はどこにいるのか?

私はもうこの世にいない。とっくにいなくなっている。どこに行くのかはわからないけれど、娘たちと共にいないことだけは確かだ。娘たちを強く抱きしめ、頭にキスをして愛していると言うこともない。朝早く起こされてうめいていることもない。学校に遅れそうで、「とにかくコートを着なさい!」と怒鳴っていることもない。灯りを消した部屋で『ケ・セラ・セラ』の歌を歌いながら彼女たちの頭を撫でてあげることもない。笑いながら二人同時に抱きつく娘たちに下敷きにされることもない。私はここにはいない。彼女たちとは一緒にはいられないのだ。

これまでの人生の中でいろんな形の死を見てきたのに、幼い長女がこの質問をするまでこれほど死というものが現実味を帯びて感じられたことはなかった。

娘たちに、死について、それが生命の自然な一部であることをどうやって教えられるというのか。自分自身、死がこの世でもっとも不自然なものに感じられて、理解できていないとしたら。死はあまりにも大きくて、私の手には負えない。

娘が83歳になった時、私はどこにいるのだろう?

娘よ、お母さんにはわからない。わからない。

私はあのクロウタドリと一緒にいるのだろう。暖かく、眠っていて、苦痛もなく、疲れたり、どこが痛かったり、悲しかったりすることもなく。私はもうこの世にいなくて、慰めたり、抱きしめたり、アドバイスしたりするのは彼女の番だ。私はあのクロウタドリと共にいるのだろう。

ハフィントンポストUK版に掲載された記事を翻訳しました。

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