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被災者としての誇り

2014年01月25日 16時51分 JST | 更新 2014年03月27日 18時12分 JST

私は福島県相馬市に住んでいるが、被災地によってその災害状況は様々であるし、復興復旧といえども、一律には言えないものがあるから、一口に被災者の心持ちを語り切れるものではない。

あの日、激しい揺れに襲われたあと、「津波です、逃げてください!」という広報があって家から北側の道路に出た時に振り返ったとき、ひたひたと押し寄せてくる泥波をはっきりとこの眼で見た。幸い、近所の人とともに娘の車で西側のバイパスの土手の上へと逃げたが、あの時、私がひとりで居たとしたら、足の遅いよたよたとした身体で道路に逃げても、土手まで辿り着く前に津波に足を取られて泥の中に巻き込まれたであろう。

私の実家である隣町の新地町は海からは離れているはずなのに、押し寄せてきた津波は寝たきりの叔母の命を奪い、探しに来た同居の娘(私の従妹)を引く波がさらっていった。行方不明で探し求めて2011年8月になってから遠い地の亘理で見つかったという。もちろん顔や姿は判別できず、娘さんがエプロンで見分けたという。

まさに人間の生き死になど背中合わせの紙一重。私がこの地域の死者第一号となっていたかもしれない。

亡くなった方の身内にとって、被災はまだ終わったとはいえないだろうし、住む家を失って仮設住宅に住む人も何万人といる。その場その身になってみなければ解らない苦しみや悲しみにはかける言葉にも戸惑ってしまう。

あれから3年を迎える。あの日、泥波に埋もれた水田には地域ごとに稲や大豆が植え付けられた。相馬の漁港では船もあり、漁師さんもいて、海には魚がいっぱいいるというのに思うような漁ができず、口惜しい思いをしている。神様はどうしてこの様な理不尽な仕打ちをなさるのか。

天と地を引き裂いたあの災害は今尚思いがけない後遺症を残している。それでも人間は生きていかなければならない。いつまでも被災という負を背負ってはいられないと私の場合は思った。

地域的にも災害が少なく、自治体の動きも早く、ボランティアさんにも入っていただき、2011年11月までに家は解体され、更地となった。

終の棲家として主人と二人のんびりと余生を、と思っていたのに、人一倍健康に留意して命が惜しかったお父さんが2010年12月27日、あっけなく逝ってしまった上に、家も解体される仕儀となってしまったが、お父さんの百か日もすまぬうちに今度は大震災が起こり、命は助かったものの一年半も娘の家に居候させてもらい、毎日廃屋の後片付けに通った。暑く、辛い夏だった。

生も死も天の定めであるならば、これからは家族の皆に迷惑をかけないよう、元気な体で生きていたいと思う。いや、生かされていることを忘れてはいけないのだ。

老いの身では何を語っても行動が伴わないのだけれど、自分でできることは身体が動くうちは自分でやりたい。こうしてブログというものに私の思いを駄文ながらこれから書き連ねることも、そのひとつだ。これはあくまでも私自身の覚悟であり、小さな誇りでもある。

様々な援助も受け、御恩に報いるためには、被災者自身が覚悟を決めて立ち上がらなければ前には進めないのだと思う。それが、被災者としての誇りでもある。

take

息子・武澤忠が撮影

震災復興 画像集

東日本大震災2カ月後の気仙沼市内の様子

南三陸町の防災庁舎

「たろう観光ホテル」の写真集