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ルワンダ虐殺から22年。80万人の死から、世界は何を学んだのか?(後編)

2016年02月01日 23時27分 JST | 更新 2017年01月31日 19時12分 JST

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(一夜にして45000人が虐殺された技術学校の跡地、ムランビ虐殺記念館の入り口)

100日間で80万人の犠牲者を出したと言われるルワンダの虐殺から、今年は22年目を迎える。

ルワンダの虐殺がこれほど規模の大きく、絶望的なものとなってしまった要因として、これまで「国際社会の責任」が大きく問われてきた。

映画『ブラックホーク・ダウン』でも描かれたソマリアでの米国の介入失敗・国連の内政不干渉原則・同時期に起きていたユーゴスラビア紛争に対し、ルワンダは資源に乏しく国益に叶わないと見なされたこと...。様々な要因が絡まり合い、国際社会、とりわけ国連は虐殺に対する介入を躊躇し、結果として悲劇的な誤りを犯した。

この教訓として、国連は2005年の国連総会特別首脳会議にて「保護する責任(Responsibility to Protect)」という概念を新しく構築した。

ここで詳らかに書くことはしないが、「保護する責任」とは、「国民の保護という基本的な国家の義務を果たす能力の無い、もしくはその意思の無い国家に対し、国際社会は本来当該国家の保護を受けるはずの人々の『保護する責任』を負う」という新しい概念である。

この概念の誕生により、人道危機の文脈における国際社会の役割は進歩を見せると期待された。

しかし、1994年の悪夢から学んだ教訓を、国際社会は果たしてどれほど記憶し続けているだろうか。今年で5年目へ突入するシリア内戦では既に25万人以上が亡くなっており、多くの一般市民が人道危機に瀕している。そしてその多くが、本来国民を保護するべき役割を担うはずのアサド政権によるものだ。

そのような事実があるにも関わらず、安全保障理事会は、拒否権という国連を成立させるための米ソ妥協の産物により、その正義を果たせていない。結果として、シリア内戦に見る国際政治の動向は国家主体のままであり、国連はその解決に向けて本来期待される役割を果たせていないのが現実である。

これほど戦争(紛争)が形態を変えた現代において、第二次世界大戦の戦勝国が拒否権を握り続けるシステム、いやそもそも拒否権というシステム自体に、本当の意味での正義は存在し得るのだろうか。

国際社会を構成する、私たち一人一人の意識はどうだろう。22年前と比べて、何か変化は起きているだろうか。決して揺らぐことの無い「ルワンダの悲劇」という"歴史"があるにも関わらず、テレビの向こうで"今"繰り広げられている世界の紛争や貧困を、未だに「可哀想」の一言で片づけ、自分の愛する家族や恋人と楽しくディナーを続けているのではないだろうか。

人間とは、どこまでを自分と同じ「仲間」として認識するかによって、その行動が変わる生き物だと言われる。自分だけが「幸せ」ならそれで十分だろうか。家族の「幸せ」までか、それとも友人までか。もしくは同じ地域に住んでいる人か、同じ国の人までか。更に大きく、人類、つまり同じ種としての人間全てまでか、それともこの世界に生きる全ての生物までか―。複雑かつ抽象的な議論ではあるが、人間として、いや人間らしく生きるためには、誰もがこの事を考えるべきだと私は思う。

私たちにとって、「他者」という概念は何を意味するであろうか。その「他者」にも、自分と同じように人格があり、感情があり、知覚があり、人生があるということを「理解」できるだろうか。もしその「理解」ができるのであれば、今まさにこの瞬間にも世界の不条理に追いやられている人々を、同じ「他者」として認識できるだろうか。

地球上で生きる様々な人々を「他者」と認識し、「理解」すること。同時に、今自分が置かれている環境に対して「自覚」を持つこと。このような過程を踏むこと、踏み続けることによって、先に提唱した議論はその深みを増すのではないだろうか。

ルワンダでは経済成長率年6%の陰で、富裕層と貧困層の格差も広がってきている。バングラデシュの首都ダッカの様な経済成長著しいアジアの発展途上国に比べればその数は僅かであったが、キガリではストリートチルドレン(=路上で生きる子ども達)も複数見かけた。

国の発展から取り残されている人々の中にはもちろん不満を持つ者もおり、その感情が新しい憎しみの種となって、かつての民族対立へと還元される可能性も決してゼロだとは言い切れない。

世界には、どうしようも無いこと、変えられない事が沢山ある。上記した資本主義経済システムにおける「格差」の問題も、その中の一つかもしれない。つい先日、オックスファムが出した最新の報告書では、世界で最も裕福な62人が世界の貧しい半分の36億人の総資産に匹敵する資産を所有するに至ったことが指摘されている。

今の世界のシステムや「開発」という考えでは、誰かの「快」は誰かの「苦」によって支えられる。そしてまた、グローバル化が不可逆なものとしてますます進展し、あらゆる事が連関を強めている現代世界において、「自分」と「他者」がどこでどう繋がるかなど、分からない。私たちの着ている服は、どこから来ただろう。私たちの使っているスマートフォンは、どこから来ただろう。

このような時代だからこそ、私は考え続けたい。自分にとって、「他者」とは何を意味するのか。自分にとって、「仲間」とは誰なのか。一人一人が人間らしく考え続けることが、この世界の平和へと繋がっていくのでは無いだろうか。

(2016年1月25日 「ルワンダ虐殺から22年。80万人の死から、世界は何を学んだのか?(後編)」から転載、一部改変)

※編注:2016年2月12日 著者からの申し出により記述を一部変更

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PHOTOS: Gardens for Health / Rwanda