3・11後の「不思議な体験」について〜『魂でもいいから、そばにいて』

死者・行方不明者1万8000人余。こうして数字で書くのも憚られるほど、一人ひとりが誰かの「大切な人」だった。

このところ、3・11に関連する本ばかり読んでいる。

この連載でも、先々週は小熊英二氏の『首相官邸の前で』について書き、先週は『「心の除染」という虚構』について、書いた。

そうして今回触れたいのは、3・11後の「不思議な体験」を綴った『魂でもいいから、そばにいて――3・11後の霊体験を聞く』(新潮社/奥野修司)だ。

東日本大震災以降、被災地での不思議な体験を綴った本には『呼び覚まされる霊性の震災学――3・11 生と死のはざまで』があり、この連載の第365回でも書いた。

震災後、被災地で語られた「タクシーに乗る幽霊」などの話が収録されている。例えば、宮城のタクシー運転手が乗せた「不思議な客」。季節はずれの冬物のコートに身を包み、津波で流された場所を行き先として指定する。「私は死んだんですか」と運転手に問う者もいる。そうして目的地に着いた頃には誰もいなかった、という話だ。

東北学院大のゼミ生たちがフィールドワークを重ねて書いた卒論が書籍化されたのだが、この本が出版されたのは昨年の1月。3・11からあと少しで5年という時だった。

一方、『魂でもいいから、そばにいて』が出版されたのは今年の2月。大災害から5年、6年という節目に「被災地の不思議な体験」がこうして出版されるという事実に、「このような話をしても『不謹慎』などと批判されない程度に時間が経過した」ことを改めて感じたのだった。

実際、『魂でもいいから、そばにいて』には、「こんな話はね、最初の1、2年はどうしてもしゃべれなかったのよ」と語る人も登場する。4年目に入った頃からやっとしゃべれた人もいるという。「作り話でしょ」と言われるのが嫌だから、話せなかったのだ。しかし、本当は聞いてほしい。そんな人々の声に、著者の奥野氏は丁寧に耳を傾ける。

興味深いのは、奥野氏が「不思議な体験」についての話を聞くようになったのは、2014年3月の、震災から3年が過ぎた頃だということだ。

本書には、被災地の不思議な話が多く綴られている。

「閖上大橋のあたりに行くと、高校時代にいつもそこで待ち合わせていた親友が立っているんです。でも、その子はお母さんと一緒に津波で流されたはずなんです」

そう語る女子大生がいれば、ある婦人はこんなことを言う。

「ある日、ピンポンと鳴ったのでドアを開けると、ずぶ濡れの女の人が立っていました。おかしいなと思ったのですが、着替えを貸してくださいというので、着替えを渡してドアを閉めたら、またピンポンと鳴った。玄関を開けると、今度は大勢の人が口々に”着替えを!”と叫んでいた」

また、「石巻では、車を運転中に人にぶつかった気がするという通報が多すぎて、通行止めになった道路もあると聞いた」そうだ。

津波で50代で亡くなった兄からメールが届いた妹もいる。メールが届いたのは、震災から3ヶ月以上経った7月1日。前日にやっと兄の遺体が発見され、役場で兄の死亡届を書いている時だった。

「ありがとう」

一言だけのメールの発信日は、震災から10日前の3月1日。津波に襲われた兄の携帯は当然壊れて使えない。修理したら何かわかるかとメーカーに出したりしたが、原因は不明。3月1日から11日の間もメールのやり取りはしていたのに、なぜ、この日のメールだけがあまりにも絶妙のタイミングで届いたのだろう。

また、津波で夫を亡くした女性は、マグニチュード7.2の余震が来た4月、家の中がめちゃくちゃになり、暗闇の中で途方に暮れていたら、お骨の前に置いていた夫の携帯が突然光りだしたという。海水に浸かって砂だらけで電源も入らず、充電もできない携帯。それも「普通の明るさ」ではなく、点滅するように明るく光ったというのだ。

「あ、お父さんだ!」

女性はそう言い、携帯で足元を照らして懐中電灯を探した。この光景は女性の妹も見ていたといい、「姉ちゃん! ほんとに誠さん、心配でそばにいたんだね」と声を上げて泣いたという。

一方、80歳の父を亡くした男性は、夜中に玄関をドンドン叩く音を聞いている。ドアを開けたものの、誰もいない。が、またすぐにドンドンと叩かれる。

「あ、おやじだ!」とピンと来た翌朝、行方不明だった父の遺体が発見されたという連絡が入った。震災から17日後、発見されたのはちょうど父の誕生日。

そうして葬儀の日、集まった親戚たちに聞くと、多くの人が、同日の同時刻に同じような体験をしていたのだった。玄関のドアを叩く音で目が醒めた人もいれば、夢に出てきたという人もいた。

そうして葬儀の日、奇跡のような「偶然」が起きる。宅配で、ティッシュペーパーやトイレットペーパー、猫の餌などが届いたのだ。

こんな日に誰が、と差出人を見てみると、そこにあったのは亡くなった父の名前。発送は3月11日。地震が起きる直前にドラッグストアで買い求めた荷物が、集荷されていたのだ。そのドラッグストアも津波で流されたという。

しかし、トイレットペーパーや猫の餌という日用品の数々が、「今日と変わらずに続いていく日常」の象徴のようで、これらを買い求めた時、当人は当然自分の死など考えてもいなかっただろうことを思うとなんだか胸が締め付けられるのだ。

読み進めていて迫ってくるのは、「不思議な体験」そのものよりも、残された者たちの、胸を掻きむしりたくなるほどの「後悔」だ。

津波で家を流され、妻と1歳の娘を亡くした男性は、罪悪感は今も続いていると語る。地震が起きた時、介護施設で働いていた男性。自宅は目と鼻の先だった。

「すぐに駆けつければよかったんです。それなのに、施設のオープニングからいるものだから、つい私も残りますと言っちゃったんです。職場はお年寄りの施設ですが、高台にあるのだから津波が来るわけがないんです。地震後も危険がないか見回る程度でした。それを考えると、自分の大事な人を助けに行かなかった悔しさは募るばかりです。今も罪悪感はものすごくあります。ここから何分かかるんだ、10分じゃないか、行こうと思えば行けたのにと、頭の中でずーっとその繰り返しです。いくら悔やんでも悔やみきれません。あのとき、誰に何と言われようと家族を迎えに行けばよかった」

「地震から津波が到達するまで1時間もあったと知ったときの悔しさ…」

「もう一台車があればとか、そういうことを悔やむとキリがないのですが、ああだこうだと悩みつづけるのが遺族なんです」

そんな男性は、亡くなった妻と娘の夢を見るという。目が醒めても、2人の存在を感じるそうだ。妻と娘を火葬した翌日には、瓦礫の中から家族の思い出の品々が大量に発見されるという「奇跡」も体験した。自宅は2キロ近く流されたのに、写真やSDカード、結婚指輪や結婚の誓約書まで見つかったのだ。

「愛する人がいない世界は想像を絶する地獄です」と男性は言う。が、死にたいと思った時に、不思議な体験をするのだ。

「もしかすると、こういう体験がなかったら生きられなかったかもしれません。妻と子どもと家を根こそぎ失くしたんです。なぜ生きているのか、ときどきわからなくなることがあります。悲しい、寂しい、つらいばかりだったら身が持ちません。そういうとき、妻と娘は私に頑張れよと力をくれるんでしょうね。あの世で逢えるんだからって」

一方で、亡くなった人の中には、震災の半年ほど前から「達観」したようなことを言い始めていた人もいる。

「おれ、やることやったし、幸せだったから明日死んでもいいと思うんだよ」

妻に5回も6回も言っていたという男性は、津波に襲われ、遺体で発見される。先に書いた、余震の際に妻を守るように光った携帯は、この男性の物だ。

それぞれが語る「不思議な体験」から浮かび上がるのは、彼ら彼女らの生きていた日々の姿だ。死者・行方不明者1万8000人余。こうして数字で書くのも憚られるほど、一人ひとりが誰かの「大切な人」だった。

忘れないでいること。それがあの大災害で、身近な人を誰一人失っていない私ができるせめてものことだと思う。

だからこそ、私はこのところ、「あの日」からのことを綴った本ばかり読んでいるのかもしれない。

注目記事