「この5年」の「デモと広場の自由」について。の巻

もう少しで、東日本大震災から5年が経つ。多くのメディアでも「5年」の節目を前にして様々な特集が組まれている。

もう少しで、東日本大震災から5年が経つ。

多くのメディアでも「5年」の節目を前にして様々な特集が組まれている。私も最近、某メディアの5年特集の取材で、宮城と岩手を訪れた。

2011年4月末、東北新幹線の再開翌日に行って以来、訪れることのなかった石巻の景色はすっかり変わっていた。まだ震災から2ヶ月も経たなかったあの頃、津波の甚大な被害を受けた石巻は、そこがどんな街だったのかまったく想像できないほどに、どこまでも瓦礫に埋め尽くされていた。

流された家の上に乗っかる車。車道に打ち上げられている船。あちこちに無造作に転がる生活用品の数々。そうして強烈な魚の腐臭。魚の加工工場も津波に襲われ、散らばった魚たちが腐っていく匂いが何キロも先まで漂っていた。あちこちでひっくり返った車の窓には「捜索済」の貼り紙が貼られ、自衛隊員が長い棒で瓦礫に埋もれた地面をつつきながら遺体を探していた。当時で、1日5〜6人の遺体が発見されていた。

あれから、5年。久しぶりに訪れた石巻は、巨大な工事現場のようだった。広い広い敷地は整備され、たくさんの重機がゴーンゴーンと音を立てて作業していた。あまりにもだだっ広い敷地で繰り広げられる工事の様子は、なんだか瓦礫だらけだった時とは別の現実感のなさで、あの時よりももっと、そこに街があったことが想像しにくくなっていた。他に訪れた現場でも、やはり同じ印象を受けた。

一体「復興」とは、どういうことを指すのだろう。5年前、真新しかった仮設住宅が5年分古くなりながらも同じ場所にある光景を見て、改めて、思った。5年経った。だけど、大切な人を亡くした痛みはちっとも薄れていないのだと感じる出来事もあった。

「実はあの時、友人があなたの会社の人にお世話になったんです」

夜の食事の席で、私と同席していた現地の記者にそう話しかけてくる人がいた。詳しいことは書けないが、友人が子どもを亡くした際に、車に乗せてもらうなどしたらしい。そんなやりとりの後で、「じゃあ、今度その車に乗せた記者とともに挨拶に行きたい」というようなことを記者が言うと、その人は「いや、それはちょっと・・・」と渋い顔で首を横に振るのだった。

「やっと5年経ったところだから、やっと・・・」

それ以上の言葉はなかった。だけど、その言葉で充分にわかった。この地では多くの人が家族や大切な人を亡くし、おそらく、そのことにはあまり触れないようにして必死で日々を乗り切ってきた。

「あの日から、もう5年」と被災していない私は思う。だけど、「まだ5年」なんだよな、と思った。まだ5年だから、触れてはいけないことがある。踏み込んではいけない場所がある。なんだか重機が大々的に工事を続ける光景の背後で、人の心は置き去りにされてないか、取り残されたように感じていないか、そんなことばかりがやけに気になった。だけど、そういった一人ひとりの心の問題に、東京にいる私はどう寄り添い、そして具体的に何ができるのだろう。そんな宿題をもらった。

さて、「あの日から5年」を前にして、もうひとつ、考えていることがある。それは「この5年間の社会運動」についてだ。

この問題については、『現代思想』3月号の特集「3・11以後の社会運動」がオススメだ。といってもまだ最初の方しか読んでいないのだが、特集巻頭の小熊英二氏、ミサオ・レッドウルフ氏、奥田愛基氏の座談会「〈官邸前〉から〈国会前〉へ」が非常に面白い。

既に「3・11後のデモの生き証人」となった感のある小熊氏は11年4月の「素人の乱」の「原発やめろデモ」からの流れを振り返りつつ、「世界的同時性」についても触れる。

10年に始まったアラブの春。「素人の乱」界隈の人々も刺激を受けたタハリール広場の光景。その年の秋にニューヨークで始まったオキュパイ・ウォール・ストリート。その後、ヨーロッパにも金融危機が広まり、同様の運動はスペインやギリシャでも起こる。そして香港や台湾の若者たちの運動の背景にあった、不安定雇用、地価上昇、教育費高騰などの現象。

小熊氏は言う。

「つまり私の見方では、グローバルな現象としての雇用や未来の不安定化が背景となって、それぞれの地域で民主化要求の運動が起きている。そしてその運動形態は、少しずつテイストは違っても、どこもよく似通っている。従来の組織動員とは異なるインターネットの活用、比較的少人数の主催グループによる自然発生的な大衆運動といった特徴がみられます。福島事故後の日本の反原発運動や、昨年夏の安保法制反対運動も、そうした流れの一環として考えられます」

が、ここで日本が他国と違ったのは、「東京には『広場』がなかったこと」。そのため、11年から12年の東京の反原発運動は「ある意味では『場所』を探す模索でした」と小熊氏は指摘。この辺り、現場にいた一人として非常によくわかる。デモをするたび警察の規制は厳しくなり、一度は「タハリール広場」化したアルタ前には柵が設けられ、多数の逮捕者も出てしまう。この頃、私は小熊氏や柄谷行人氏たちと一緒に「デモと広場の自由」のための共同声明を出し、外国人特派員協会で記者会見までしている。

しかし、そんな「広場」なきこの国で12年、あり得ない場所が「広場」としての機能を持ち始める。そのきっかけが、12年に始まった反原連による「官邸前抗議」だ。小熊氏は次のように言う。

「こうして、あの殺風景な官邸前・国会前の官庁街が、いわば自然発生的に、事実上の『広場』になった。そして、反原連は現在まで途切れることなく官邸前抗議を続けているわけです。こうして、その後も何かあったときには、官邸前・国会前が抗議の場所だという共通理解が、2012年夏から定着していった。

つまり、2012年には原発再稼働、13年には特定秘密保護法、14年には集団的自衛権の閣議決定、そして15年は安保法制に対して、抗議活動が官邸前・国会前で起きている。おそらく、東京上空3万メートルくらいから定点観測している人がいたとすれば、2012年3月以降は毎週金曜日になると無人の場所に人が集まり、1年に1回か2回は大人数が集まっている、という光景に映っているでしょう」

上空3万メートルから見える光景。それぞれがそれぞれの思いに突き動かされて集まった人たちの群れ。それを想像すると、改めて込み上げてくるものがある。

考えてみれば、この4年間、どれほど官邸前・国会前に通っただろう。どれほどの夜を、そして昼を、暑い日を寒い日をあの場で過ごし、叫んだりスピーチしたり誰かのスピーチに泣いたりしただろう。「何かあればみんなが駆けつける場所」。それが3・11以降、この国にできた。広場がなかったこの国に出現した広場は、その存在そのものがこの国の非常事態っぷりの証明なのかもしれないなんて、ふと思う。

ちなみに官邸前や国会前に集まることについて、この数年で「あんな誰もいないとこで集まっても意味ない。繁華街とかじゃないと」なんて言われたこともあった。が、11年以降、「場所探し」の模索の中にいた一人としては、今、自分たちは「デモと広場の自由」の獲得のためにものすごい実験をしているのだ、という思いは常にあった。そして今、官邸前や国会前は時限的な「広場」であり続けている。これは確実に、

3・11以降私たちが獲得したものだ。

さて、この座談会で面白いのは、小熊氏が奥田氏に率直に「そもそもなぜ、安保法制反対がテーマなのか」と質問する場面だ。確かに審議は強引で法案の内容も矛盾が多いが、それは安保法制に限った話ではないではないか、と。

そこで奥田氏は、原発事故が起きた際、多くの情報が隠されたことに触れ、それが特定秘密保護法に反対する運動に繋がっていったことを語る。

「馬鹿な一般人は知らなくていい。知られたくない情報は隠していい。そういう認識をあらわにした法案だと思ったんです。(中略)これが安保法制にも共通しています」

一言で言えば、「舐められている」。それが一番の動機だろう。そしてその思いは、12年の反原発運動にもあったものだと小熊氏は指摘する。事故直後の運動の動機は「衝撃や恐怖」。が、12年夏、官邸前に再稼働に反対して20万人が集まった時点での動機について、「その後の原発再稼働のプロセスが『舐められている』という政治的疎外感を刺激して、それに対する反発で多くの人が集まったのでしょう」と分析する。

座談会の話題はその後選挙に移り、それも大変興味深いのだが、詳しくは『現代思想』で。

なんだかこうして3・11後の運動を振り返ると、この流れに参加したり巻き込まれたり自ら乗ってきた人たちの「功績」の大きさに、身が引き締まる思いがする。私たちは、まさに歴史のただ中にいるのだ、と。

2015年安保の光景を見て、私は「民主主義の地殻変動が起きている」と震えた。3・11以降の脱原発運動は、「民主主義の再稼働」と

いつからか呼ばれていた。それ以前からやっているプレカリアート運動、反貧困運動ではずっと憲法25条を盾に「生きさせろ」と叫んできた。そして今、SEALDsが「生活保障に税金回せ」とコールし、AEQUITASが「最低賃金1500円」を掲げている。そんな流れを見ると、嬉しいのと同時に、この10年、自分たちがやってきた運動が現状を変えられず、状況が悪化の一途を辿っていることに悲しくもなるし、責任も感じる。

でも、淡々とやっていくしかないのだ。

座談会で、奥田氏もミサオ氏も、最後に「淡々とやっていくしかない」という旨の発言をしている。

淡々と運動を続けることで、振り返ってみたら社会が少し、変わっていることがある。この5年間で、私たちはそれを経験した。獲得した。

それは小さなものかもしれないけれど、でも、私にとってはとてつもなく大きなものだ。「野党共闘」だって、あれだけの光景を国会前に作り出し続けたことが、大きな力となっている。

3・11後の世界に生きる私たちは、今まさに、「社会が変わる」渦中にいるのだと思う。ならば、この世界が少しでもマシになるような、そんなことを地道に続けたい。

あの日から5年を前にして、そう思った

(2016年3月2日 「雨宮処凛がゆく!」より転載)

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