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『呼び覚まされる霊性の震災学』から思う「時間」

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TOHOKU EARTHQUAKE
Minamisoma,Fukushima prefecture,Japan | sot via Getty Images
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東日本大震災から、あと少しで5年だ。

生き残った私たちは5年分、年を重ね、亡くなった人たちの時間はあの日のまま、止まっている。

そんな節目を前にして、ある本を読んだ。前回の原稿で取り上げた「タクシーに乗る幽霊」の論文が掲載されている『呼び覚まされる霊性の震災学――3.11 生と死のはざまで』(新曜社)だ。東北学院大学の「震災の記録プロジェクト」(金菱清ゼミナール)の学生たちの論文はどれも非常に読み応えがあり、「あの日」と「あの日以降に起きたこと」、そしてそれが今も現在進行形であることに、改めて思いを馳せた。

第一章は、やはり宮城県石巻市のタクシードライバーの話。震災以降、季節外れの真冬のコートを着た乗客がタクシーに乗り、行き先を告げるものの、気づいたらいないという「不思議な現象」について、そんな体験をしたドライバーたちに聞き取りをしたものだ。

例えば、夏の深夜、コートにマフラーで一人佇んでいた小学生くらいの女の子。「お母さんとお父さんは?」と尋ねると「ひとりぼっちなの」と言うので家の場所を聞き、送っていくもののタクシーを降りた瞬間にスーッと姿を消したという。

また、やはり6月なのにダッフルコートに身を包んで乗車してきた青年は、「彼女は元気だろうか?」と言い、気がつくと姿はなかったという。

「ちょっとした噂では聞いていたし、その時は“まあ、あってもおかしなことではない”と、“震災があったしなぁ”と思っていたけど、実際に自分が身をもってこの体験をするとは思っていなかったよ。さすがに驚いた。それでも、これからも手を挙げてタクシーを待っている人がいたら乗せるし、たとえまた同じようなことがあっても、途中で降ろしたりなんてことはしないよ」

震災で母を亡くしたドライバーは言う。

「夢じゃない?」と思う人も多いだろう。が、実際にタクシーのメーターは切られ、記録は残る。不思議な現象は、事実上、「無賃乗車」という扱いになっているという妙なリアリティ。

不思議なのは、ある意味で王道の「幽霊話」「怪談話」なわけだが、著者がこれらの「不思議な話」の調査において、「幽霊」と口にすると「そんなふうに言うんじゃない!」と怒鳴るドライバーがいるということだ。通行人の中にも「幽霊なんて蔑むように言うんじゃない!」と声を荒らげたり、「幽霊とはちょっと違うかもしれないね」と諭す人がいたという。

「幽霊」の話だけど、でも違う。そこには、少し前まで当たり前に生きていた誰かの存在が無数にある。だからこそ、「幽霊とは違う」という言葉が出てくる。5年という歳月は、そういうものなのだと思う。亡くなった人は、幽霊なんかじゃない。だけど、3・11直後とは違って、そんな「不思議な現象」を、ある意味多くの人がバッシングに怯えずに「きっとそういうこともあるよね」と語ることができる、そういう歳月。

「時間」という意味では、3章の「震災遺構の『当事者性』を越えて 20年間の県有化の意義」も非常に興味深かった。震災や津波の被害の甚大さを伝え、後世に残すため、震災遺構を保存しておくか否かという問いがテーマだ。

例えば気仙沼で津波により打ち上げられた「第18共徳丸」。市街地に打ち上げられた大型漁船は津波被害を伝える震災遺構として注目されたが、3・11から2年後の2013年9月、住民の意向で解体撤去された。

撤去前までは多くの観光客が訪れてその前で手を合わせ、写真を撮り、商店街も観光客で賑わっていたという。しかし、撤去後は観光客の数も激減。が、保存の賛否を問うアンケートでは約7割の市民が「保存の必要はない」を選択したそうだ。

身内を失った遺族からすると「そんなもの見たくない」というのが本音であろう。一方、教訓や追悼の場として保存すべき、という意見も理解できる。
 

さて、まさにこの問題に直面しているのが、南三陸町の防災対策庁舎。12メートルを超える津波に襲われ、町の職員を含む43名が犠牲になった。錆びた鉄骨の骨組みだけが残る無惨な震災遺構には、今も訪問者が絶えないという。

やはりこの防災対策庁舎も、保存するか否かで賛否が分かれているという。そこで、宮城県はある決断を下した。「20年間の県有化」だ。結論を出すことを一旦ストップして、県が維持費を負担し、20年後、改めて判断しようということである。

著者はここで、広島の原爆ドームの保存に触れる。言わずと知れた、原爆、そして戦争のシンボルだ。この原稿で初めて知ったのだが、原爆ドームの「永久保存」が決まったのは1966年、戦争が終わって21年も経ってからのことなのだ。戦後間もない広島市民は、3割がドームの解体を望んでいたという。また、米国からは撤去の圧力を受けていた。保存か解体か、もしくは「放置」か。当時は生活の再建が最優先され、放置された結果、原爆ドームは66年、永久保存が決まったのである。

「当時の広島も保存の議論で町全体がぎくしゃくしていた。つらい遺族の感情は、戦争も震災も同じ。防災対策庁舎も、残すかどうかの結論を焦ってはいけない」

広島市民の声である。

今から20年後は、2036年だ。果たしてその頃、南三陸町の人々はどんな決断を下すのだろうか。

そんなことを思うと、3・11以降、時々、痛いほどに実感する果てしないような感覚を思い出す。私たちが生きている今・この瞬間そのものが歴史を紡いでいるのだと。一体どれくらいの時間が経てば、痛みは歴史に変わっていくのだろうと。

さて、もうひとつ、紹介したいのは第5章「共感の反作用 被災者の社会的孤立と平等の死」だ。この章の主人公は、宮城に住むある女性。自宅マンションで被災し、津波の被害には遭わなかったものの、両親は津波の犠牲になり、故郷の町は壊滅。が、彼女は「被災者」として扱われることはない。

「震災後、避難所や仮設住宅、お年寄りや子どもに復興のスポットライトが強烈にあたるなか、夫も子どももいて、家も流されなかった『普通のおばさん』は蚊帳の外におかれ、焦燥感と虚無感に苛まれていく」

著者はこの女性のような立ち位置を「コールドスポット」と呼ぶ。ホットスポットという強い光の反作用としてできるコールドスポット。津波にやられた実家で「ボロ雑巾」のようになった母の亡骸を自ら発見し、また遺体安置所を巡って死後2週間の父の遺体と対面し、心は壊れそうなのに、彼女の立場は「より軽度とカテゴライズされ」てしまう。

実際、3・11で彼女よりひどい思いをしている人はたくさんいる。しかし、だからといって「あなたの苦しみは軽度だ」と誰に言えるだろう。いや、誰も彼女にそんなことは言っていない。しかし、未曾有の大惨事の中、彼女のように「自分より大変な人がたくさんいるんだから我慢しなくては」といろんな気持ちを押し殺してきた人は大勢いるはずだ。
 
ホットスポットの影にあるコールドスポットで、口をつぐんでしまう人々。だけど、自分の苦しみや痛みを低く見積もると、あとで大変なことになる。手痛いしっぺ返しを食らう。彼女も一時、無気力に苛まれ、夜か朝かわからない状態で睡眠薬を飲んで無理矢理寝るだけの日々を送っていたという。

その後、彼女はスピーチコンテストで自分の経験、思いを語ったことにより、「私は震災に遭って、両親も亡くなり、故郷も失った」ことを自分で初めて認めることができたという。それまでにかかった時間は、実に3年8ヶ月。

学生たちによって紡がれた『呼び覚まされる霊性の震災学』(5章のみ編者)。

被災の現場で掬い上げた小さな声に耳を澄ますように書かれた本書から浮かび上がった大きなテーマは、私にとっては「時間」だった。

もう少しで、あれから5年。ふと、戦後5年の世界に生きていた人たちってどんなことを考えていたんだろう、と思った。

(2016年2月3日 「雨宮処凛がゆく」より転載)

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