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「みんなでいびり殺していいリスト」〜映画『FAKE』を観て思う〜

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この国には、「みんなでいびり殺してもいいリスト」があって、そのリストに登録されてしまったが最後、どんなにもがいても、身の潔白を叫んでも、ほとんどの場合逃れる術はない。

なかなか「問題意識の共有」なんかがされない日本だが、マスコミを通して拡散されたこのリストだけは瞬く間に共有され、「笑い者にしていい人」「集団リンチしていい人」が特定される。そうして公開処刑にも似た無意識のリンチが、まったく悪気のないままに進行する。

そう、キーワードは「悪気のなさ」だ。もちろん、殺意だってない。面白いから、子どもが小さな虫をいたぶるように楽しんでいる。その上、「いびり殺していいリスト」に登録された人は、大抵「悪い」とされている。「悪い人」を攻撃するのはこの世で一番簡単な上に、インスタントな正義感まで満たせてしまうという娯楽性も持っているので暇つぶしには最適だ。そうして今まで、多くの人が自殺に追い込まれてきた。

この数年を振り返るだけで、2014年8月にSTAP細胞論文の共同執筆者だった理化学研究所の笹井芳樹副センター長が自殺。同年には、秋葉原無差別殺傷事件犯人の弟が自殺している。

また、第一次安倍政権の際に「ナントカ還元水」が大きな批判を浴びた松岡農水相も07年に自殺。06年には、耐震強度偽装問題で大バッシングに包まれていた姉歯一級建築士の妻が飛び降り自殺した。

それぞれまったく立場は違う。しかし、共通しているのは執拗にマスコミに追われ、世間のバッシングに晒されていたことだろう。

メディアスクラムと、実態のない「世間」による「あいつ死ねばいいのに」という集合無意識のような空気が形成された時、人は死に追いつめられるようである。そうして当人が自殺した途端、「祭り」のようなバッシングは終わる。

少しの後味の悪さが残り、だけどみんなすぐに忘れてしまう。だって、自分が殺したわけじゃないのだから。

マスコミがやりすぎたのだから。別に直接本人を追いつめたり、電話をしたり手紙やメールを出したわけじゃない。ちょっとネットで笑い者にしただけ。友達との会話で馬鹿にしただけ。しかもあの時はみんなそうしていたのだ。それが「ブーム」だったのだ。

言い訳はいくらでも用意されている。そうして次の「ネタ」が登場すると、またその祭りに熱狂する。

そんな「いびり殺していいリスト」のトップに2年前、本人の意思と関係なく躍り出てしまった人がいる。それは作曲家の佐村河内守氏。

言わずと知れた「ゴーストライター騒動」の張本人だ。18年間ゴーストライターをしていたと告白した新垣隆氏は、佐村河内氏が楽譜を書けないこと、聴覚障害と言われているものの耳は聞こえていて通常の会話でやり取りしていたことなどを「暴露」。

週刊誌報道と新垣氏の会見によって、佐村河内氏は一気に日本中の注目の的となり、また、謝罪会見をすればしたで、そのヴィジュアルの変化(髪を切ってサングラスなしの姿)が日本中で「笑い者」とされた。

あれから、2年。

どれほどの人が、彼のことを覚えていただろう。そして社会的に抹殺されるような形で姿を消した彼の心境に、一度でも思いを馳せた人はどれくらいいるだろう。今、もし飲み会なんかの席で「佐村河内」という言葉を出せば、日本中どこでだって「あー」という苦笑いが返ってくるはずだ。

消えたけど、自殺はしていないようだから誰の胸も痛まない。悪いことをした人なんだから、制裁を受けるのは当然。以上。思考はそこで停止し、話題はすぐに変わる。そんなことを書きつつも、私も彼を笑い、忘れた一人だ。

先週、そんな佐村河内氏を主人公としたドキュメンタリー映画の試写会に行った。映画のタイトルは『FAKE』。監督は森達也氏だ。

森監督が佐村河内氏を撮っているらしいという話は少し前から聞いていた。

最初は、「なんでよりによって佐村河内?」と思った。あの森監督なら、もっと撮るべき重要なテーマがあるのではないか。そんなふうにも思った。同時に、「いかがわしいもの」が好きな森監督らしいな、とも思った。

そう、私にとって佐村河内氏は「いかがわしい存在」の代表格だったのだ。

そうして、映画を見終わった今、ただただ言葉が見つからないでいる。なんだか、壮大な謎かけをされたような、そんな気分だ。すごい映画だ、ということは断言できる。だけどうまい言葉が見つからない。そうして森監督に対し、思う。

どうしてあなたは、観る人を問いつめ、試すような映画を作ってしまうのか、と。

森監督は、コメントで以下のように書いている。一部引用しよう。

「市場原理によってメディアは社会の合わせ鏡となる。ならばこの傾向は、社会全体が安易な二極化を求め始めているとの見方もできる。社会だけではない。政治もこの二つと相互作用的に存在する。つまりレベルが同じなのだ。もしもこの国のメディアが三流ならば、それは社会が三流であることを意味し、政治も同様であることを示している。

こうして社会とメディアと政治は、互いに刺激し合いながら、少しずつ同じレベルでスライドする。楽なほうに。売れるほうに。票が集まるほうに。真実と虚偽。黒と白。二極化は楽だ。だって曖昧さが消える。すっきりする。右と左。正義と邪悪。敵と味方。悪は叩け。正義は勝つ。やがて集団の熱狂に身を任せながら、僕たちは同じ過ちをくりかえす」

メディアの話で、嘘を巡る話で、私の話で、あなたの話で、この社会の話だ。

『FAKE』は6月からユーロスペースにてロードショーが始まり、全国でも順次公開されるという。

観て、うちのめされて、悩んでほしい。

簡単に割り切れない「世界の複雑さ」を受け止める、その覚悟が問われる映画だ。

(2016年4月6日「雨宮処凛がゆく!」より転載)