年末に「越年」現場を巡り、貧困バッシングについて考えた。

「だって私、死ぬほどキツい中仕事してんのに、誰も私にオニギリなんかくれないんですよ!」なんだかそれは核心をついた言葉のように思えた。

新年である。と同時に、この連載もなんと記念すべき400回を迎えた!

そんな目出たい年明けだが、新年そうそう、風邪をひいて寝込んでいる。結構ハードな風邪だ。おそらく、年末にやたらと外で過ごしていたからだろう。寒さに弱く、普段家で原稿ばかり書いている人間がちょっと外に出るとすぐ風邪をひくというヘタレっぷり。で、なぜ外にいたかというと、この年末も都内を中心として、各地の炊き出しや越年の取り組みに参加してきたのである。

ここでざっと、年末のスケジュールを振り返ろう。

〈12月29日〉「ふとんで年越しプロジェクト」に参加。今年で4回目となるこのプロジェクトは、行政の窓口が閉まる年末年始、ホームレス状態にある人をシェルターに繋げる取り組みだ。クラウドファンディングで寄付を募り、宿泊場所を確保し、役所が開く1月4日以降、必要な支援や福祉、あるいは医療などに繋げる。今回のプロジェクトではこの取り組みに繋がることにより、25名が路上ではなく暖かい宿泊場所で年を越すことができたという。

そんなプロジェクト始動の日、シェルターにいる若者の訪問に同行させてもらう。あまり詳しくは書けないが、20代の若さにして、貧困ビジネスや飯場での未払いなどを経験していた男性だ。このプロジェクトに繋がらなければ、おそらく路上で年を越していたのだろう。そんな人たちが、役所が閉まり、そして仕事も途切れる年末年始、この国にどれくらいいるのだろうと考えると気が遠くなってくる。

夕方からは、ふとんで年越しプロジェクトの方々と「夜回り」。

ホームレス状態の人々にアルファ米とカイロ、そして年末年始の炊き出しや生活・健康相談などの情報を記載したチラシを配るのだ。新宿と飯田橋近辺を回ったのだが、準備したアルファ米などのセットは、たった数時間、都内のほんの一画を回っただけで百数十セットがなくなった。久々に夜回りに参加して、これほど多くの人が寒さの中、路上で寝ているという事実に改めて言葉を失った。

特にテントを作ることが禁止されている場所では、路上にそのまま布団を敷いて寝ている人たちが多くいた。この年末はあまり寒くなかったものの、これから寒波が来ると言われている。風よけになるものもない吹きっさらしの路上で、頭まですっぽりと毛布をかぶる人たちの姿が目に焼き付いている。アスファルトの上は、どれほど底冷えするだろう。どれほど彼らの体温を奪っていくだろう。

〈12月30日〉 横浜・寿町の炊き出しに参加。

野菜たっぷりの温かい雑炊に400人以上が行列を作っている光景は圧巻だった。その中には、若い人の姿もちらほらあった。一方でボランティアも多く、学生らしき人々や子どもなども参加。原発事故で神奈川に自主避難している方もボランティアに参加していた。食器洗いや配膳のお手伝いをさせて頂く。この後、池袋の炊き出しにも少し顔を出す。炊き出しには、150人ほどが並んだ。

〈12月31日〉 渋谷・宮下公園の越年に参加。

当事者も支援者も一緒にご飯を作る「共同炊事」の場で、私も野菜切りなどを手伝わせて頂く。公園には手作りの追悼の台のようなものがあり、何人もの名前が書いてある。支援者の方に聞くと、昨年1年間で、支援者が把握しているだけでも渋谷近辺で7名もが路上で命を落としたのだという。一人ひとりの名前を胸に刻み、線香を上げ、手を合わせる。

渋谷・宮下公園で少しお手伝いさせて頂く私

渋谷・宮下公園の一画に設置されていた、7人を追悼する台。お線香をあげました

夜は山谷の越年に参加。路上で上演される演劇を見た後、支援者も当事者も一緒になってみんなでネギを切り、そばを茹で、100人ほどで一緒に年越しそばを食べる。食後はみんなで布団を運び、路上に敷く。寝る場所がない人は路上に敷いた布団で年を越すのだ。

まさかそんなにたくさんはここで寝ないだろう、と思っていると、結構な人が「ここで寝る人!」という言葉に手を挙げる。路上に敷かれた何組もの布団、という現実感のない光景になんだか頭がクラクラする。布団や毛布の多くはカンパとして全国から送られてきたものだそうだ。

人の温かさに触れつつも、夜が更けるにつれ寒さは容赦なく厳しくなってくる。年越し前に帰路につく。

このようにして、私の2016年は越年の現場を回ることで幕を閉じた。

年末に、路上で出会った人々の背景には様々な問題が影を落としていた。失業、貧困ビジネス、家族の問題、知的障害や精神障害などなど。若者から高齢者まで、満遍なく、全世代がいた。そして多くの人々が、制度の隙間に落ちるようにして路上に辿り着いていた。

嬉しかったのは、この「炊き出し巡りツアー」に、今回も山本太郎参議院議員が参加してくれたこと。そしてもうひとつ、嬉しかったのは松戸市議会議員のDELIさんも31日、参加してくれたことだ。

渋谷・宮下公園にて炊き出し作りのお手伝いをする山本太郎議員、松戸市議会議員のDELIさん。なんだか微笑ましいショット

横浜・寿町で炊き出しの配膳を手伝う山本議員

こんなふうに、選挙や票など関係なく、もっとも厳しい「現場」に顔を出してくれる議員がもっともっと増えたらこの国は変わるのに。そう思うのは私だけではないはずだ。

しかし、これら「越年」の取り組みは、まったくと言っていいほど世間の注目を集めていない。

2008年から09年にかけて「年越し派遣村」が開催された時は大きな注目を集め、その翌年に「公設派遣村」が開催された時にも大きく報道されたわけだが、それ以降、「越年」が注目されることはない。毎年必ずやっているのに、そして今回訪れた多くの現場では派遣村以前から「越年」の取り組みがなされているのに、だ。

現場の支援者たちとも、そんな話になった。

まぁ、「ブーム」だったと言われればそれまでなのだろう。あの時、メディアは「新しい現象」として派遣村を取り上げた。この国で、「貧困」が再発見された瞬間だった。

あれから10年近くが経ち、「貧困」が「常態」となった今、多くの人が「慣れて」しまった。ここになんだか、言いようのない危うさを感じるのは私だけではないはずだ。そうして貧困が当たり前になった社会で、貧しい人々に対する視線はより厳しくなっているのを感じる。昨年は、未成年である高校生に対して「貧困バッシング」までもが起きた。

さて、そんな今回の「炊き出しツアー」で、貧困バッシングについて考える大きなヒントを貰ったので、そのことに触れたい。

私に大いなるヒントを与えてくれたのは、今回のツアーに1日参加した私の友人・A子 (30代独身、フリーランス)だ。

彼女は30日、寿町と池袋の炊き出しに参加したのだが、その日の夜、一緒にご飯を食べていると、感想を話し始めた。「現場を見ることができてよかった」。そんなふうに語るA子は、池袋の炊き出しの後、ボランティアの人々が9時半から更に路上の人々にオニギリを配りに行くという話し合いをしているのを見て、感銘を受けたという。

「わざわざオニギリまで配りに行くなんて、すごいなー」

そんなふうに言っていたA子だが、お酒が進むにつれ、だんだんと「オニギリまで貰うなんて」「ちょっと甘えてるっていうか...」「もうちょっと自分でなんとかすればっていうか...」と、ホームレス状態にある人に対して、若干の苛立ちを滲ませ始めたのだった。

「いやいやいや、今はたまたま年末年始だからいろいろやっててボランティアもたくさんいるけど、決して甘えてるわけでは...」

なんだかしどろもどろになって言うと、A子は突然、叫んだ。

「だって私、死ぬほどキツい中仕事してんのに、誰も私にオニギリなんかくれないんですよ!」

そうしてA子は、続けた。

「毎日『死ねよババア』とか言われながら生きてて、生きててもキツいことばっかですよ。だけど誰も助けてくれないし優しい言葉なんかかけてくれないしもちろんオニギリなんてくれないし!」

A子の「魂の叫び」に思わず爆笑しながらも、なんだかそれは核心をついた言葉のように思えた。

「誰も私にオニギリなんてくれないし」

彼女が欲しいのは、もちろんオニギリなんかではなく、誰かの思いやりとか優しさとか、そういうものなのだろう。だからこそ、わかりやすい「善意の塊」である「路上の人々に配られるオニギリ」が無性に羨ましく思えたのかもしれない。

それから話題は「フリーランスで仕事をするキツさ」に移っていった。

A子も私同様、単身女性でフリーランス。常に100%どころか120%くらいの力で向かわないといつなくなるかわからない仕事。弱音を吐くことは許されないし、ちょっとでも「休む」ことも許されない。いつもギリギリの精神状態で仕事にしがみつかざるを得ない日々。それは私もまったく同じで、だからこそ、風邪でもこうして原稿を書いたりしてしまうわけである。

そうしてフリーランスに限らず、今はほとんどの人がそんな労働環境の中にいて、周りの人間はかなりの確率で敵・ライバルで、もちろん弱音なんか吐けず、誰にも守られていない中で、どんなに満身創痍になろうとも仕事にしがみつき続けなければならない。なぜなら、失業したらアウトだから。

最近、派遣で働く女性と話していて、驚いたことがある。パワハラが蔓延する職場で働く女性は、薬で「何も感じない」ような精神状態にして毎日出社しているのだという。また、別の派遣女性からは、パワハラやセクハラ、契約に関する不利益な話がいつあっても録音できるよう、職場では常にICレコーダーを肌身離さず身につけているという話を聞いた。

そんなことが、「当たり前」の環境で私たちは生きている。何がおかしくて何がおかしくないかもわからないまま、すべてが少しずつ狂っているような世界。

そんな中で、「他者や弱者への優しさを持て」なんていう方が無理なのかもしれない。

さて、A子と話していて、あるテレビ番組を思い出した。それは少し前に放映された、NHKの『NEXT 未来のために 私は‟当事者"だった〜障害者殺傷事件が問いかけたもの』。

この番組には、相模原障害者殺傷事件の植松容疑者の残した言葉がどこか否定できないと告白する人々が登場する。障害を持つ自らの息子を長い間愛せなかった女性。また、障害者施設で働いていた女性は、仕事中に障害を持つ人に暴力を振るわれた時、彼らが「守られて」いて、そこで働く自分は守られていないということに複雑な思いを抱いたことを吐露した。

「守られている」と思われている人々と、「守られていない」と感じる人々。ここに、「障害者差別」や「貧困バッシング」を巡る大きなヒントがある気がする。

おそらくA子は、ホームレス状態の人々が、守られてはいないものの、自分よりは他者の善意を向けられていると感じたのだろう(しかし、前述したように、渋谷近辺だけで7人もが路上死しているという現実があるのだが)。

と、ここまで書いて、なんだか小さく戦慄した。「障害者」や「ホームレス」が守られ、善意を向けられていると感じるほどに、普通に働く人々は「自分は誰にもどこにも守られていない」と感じているのではないだろうか。

おそらくここに、「貧困バッシング」が生まれる下地があると思うのだ。

では、なぜ私は、そしてホームレス支援などをする人々は、その貧困バッシングの罠にハマられずいられるのか。

「余裕があるからじゃない?」と言う人もいる。それも一理あるかもしれないが、少なくとも私は違うし現場でもあまり感じない。私の中にあり、そして現場でも感じるのは、「人を生きさせない」システムに対する静かな怒りだ。

ホームレスだから、障害者だから、貧乏だから。そんな理由で堂々と差別がまかり通り、尊厳を踏みにじってくるような政治や大きな力や行政の人々の態度や、そして人々の中に刷り込まれた差別意識への憤り。それは突き詰めていくと、「自分がそうされたら嫌だから」という一点に尽きる。

さて、年明けには、ある集まりの新年会に行った。

そこには、精神障害を抱える人々やこの年末に支援に繋がった人、この数年で路上から支援に繋がり、今はアパート暮らしをする人々などがいた。昨年の「ふとんで年越しプロジェクト」で支援に繋がった人や、路上を脱出してすぐの時から知っている顔がいくつかあったのだが、驚いたのは、みんながびっくりするほど明るくなっていたことだ。

率先して場を盛り上げたり仕切ったりして、彼ら彼女らはとっくに「支援される対象」ではなくなっていた。支援者と元当事者が入り交じって、誰が支援者なのかもわからない感じ。人は「生きられる」算段がつき、安心して自分を出せるコミュニティがあり、いつでも相談できる場を得ると、こんなにも変わるのだ。

なんだか、久々に「人間ってすごいかも」と圧倒されるような経験だった。

そんなふうに、「人が変わる」姿を見ているから、私はこの現場が好きなのかもしれない。そう思った。

この年末年始、多くの人が炊き出しや越年の取り組みで命を繫ぎ、そして多くの人が支援に繋がった。しかし、それは幸運なほんの一例で、この年末年始に貧困ビジネスにひっかかった人もいるかもしれないし、今も路上で凍える人がいる。空腹で、体調を崩し、途方に暮れる人がいる。

もし、自分がそうなったら、助けてもらえる社会がいい。これを読んでいるあなたも、きっとそうだと思う。

さて、2017年が始まった。

安倍首相は新年そうそう憲法改正への意欲を滲ませ、アメリカではもうすぐトランプ新政権が誕生する。一体、どんな1年になるのだろう。

年末年始に出会った人々にとって、そしてこれを読んでいるあなたにとってもいい1年になることを、心から祈っている。

(2017年1月11日 マガジン9 雨宮処凛がゆく!「年末に「越年」現場を巡り、貧困バッシングについて考えた。の巻」より転載)

注目記事