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小説や漫画の二次利用。原作とは別物のエンタメとして楽しむべし

2014年07月23日 20時20分 JST | 更新 2014年09月21日 18時12分 JST

大好きな小説や漫画が映画化されて、楽しみに見に行ったのに、ストーリーは改変され、キャラクターは全く別人に変貌し、怒り心頭に発した経験を持つ人は少なくないでしょう。

多くの人は、こうしたドラマ化や映画化を、単なるマーケティングの問題として理解していますから、そのために内容が改悪されることを好みません。金儲けのために、原作を愚弄したと考えます。けれど、二次利用によって作られた作品が原作と異なるのは、それなりの理由があるようです。(全文は元記事で:kashiko

2014-06-18-logo_mini.png ドラマ化や映画化はズバリ儲かる。

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これは一番わかりやすい問題でしょう。原作が小説や漫画の場合、それを出版している出版社にとって、作品がドラマ化や映画化されることは大きな利益を生みます。現在の日本において、出版物のマーケティングに比べれば、テレビ局や映画のマーケティングはずっと大きいものです。見てもらえるお客さんも増えますし、層も多岐にわたります。それだけ利益も大きくなりますし、映画やドラマがヒットすれば、原作にも注目が集まり、そこでも利益が上げられます。

こうしてみると出版社にとっていいことずくめです。それなのに、映像化された作品が気に入らない原作のファンは、それはもう腹を立てるしかないかもしれません。原作を守るべき出版社に対し、まるで我が娘を女衒に売り渡した飲んだくれの親父、くらいの敵意は丸出しにするでしょう。

ネット上に、原作漫画からかけ離れたアニメ化が行われた時に、そのファン層が書き込む『原作●●●』という言葉は、初めて見るとびっくりしますけれども、意図するところはこれと同じようなものかもしれません。

2014-06-18-logo_mini.png 日本の出版社は、作家を育て、守る。

しかしその一方で、出版社が作品に果たす役割は決して小さくありません。

日本では長く出版社が作家を育ててきました。新人作家とは、その時点ではまだ完成された存在ではなく、ブラッシュアップが必要ですし、また既存の作家であれば、いかによい環境で作品作りに専念してもらえるか、それをするのが出版社です。日本における出版社、そして編集者は、作家の作品性や作家性を重視し、作家として育て、守ることを一番に考える傾向がありますが、これが欧米になるとだいぶ様子が違うようです。

2014-06-18-logo_mini.png 欧米の出版界は作家よりも編集長。やがてジリ貧に...。

イギリスの出版界では、出版物を作るのは作家ではなく編集者であり、編集長であって、企画からその内容に至るまで、事細かに設定し、資料を作り、それを作家に与えて書かせるというのが一般的であるようです。だから作家は単なる手足に過ぎません。しかしこのようなスタイルがやがて「ジリ貧」になるのは、アメリカのハリウッドを見れば明らかです。

実は作家性を重視しない作品作りの最たるものを行ったのが、ハリウッドでした。ハリウッドでは、プロデューサーと映画会社が綿密なアンケート調査を行い、どのようなストーリーで、どのようなキャラクターがどのように絡んで、どのようなシーンがあるか、すべてを細かく設定し、それをマニュアル通りに複数の脚本家に発注し、その脚本を元に映画監督が映画を撮ります。

一時期はそれで大ヒットも出ましたが、現在では、もはやハリウッド単独で、新しい作品を作り出すことは難しくなっています。こうした管理された制作現場では、脚本家も監督も育たなかったのです。

一方、映画作りに作家性を重視した日本では、規模こそ小さくても、奇想天外な才能が育ち、多くの名作を排出しています。結果としてハリウッドが日本の作品を高額で買い上げて、ハリウッドでリメイクするという事が行われています。つまり、これから先も楽しい作品が読みたいなら、従来の出版界が存続することを望まなければならないわけです。

2014-06-18-logo_mini.png 媒体が変わると解釈が変わる?想像でつくられる小説の世界を映像にすると...。

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例えば、小説を映画化することを例に取ってみましょう。

多くの人は、小説に書かれている文章通りに映像化すれば、映画ができると考えていると思います。しかし実際にはそうではありません。まず小説は、映画のための解説を書いているわけではありません。特に小説は、読んだ人の想像力を喚起し、別世界に連れて行くことを目的にしていますから、必ずしも状況を説明するようなことは書いてありません。極端に言えば、情景描写など一行もなくても小説は成立します。

日本の小説の場合『私小説』というカテゴリーがありますが、まさに自分の心の内を吐露するだけで成立する小説ですので、情景描写はほとんどなくても成立します。

しかし映画は、画像というものがなければ成立しません。画像がカメラによって撮影されるものである以上、画面に映るものがなくてはなりません。すると、情景描写など一行もない小説から、その主人公が存在する場所が、どこのどういう場所で、何があって、何が見えるかを想定しなければなりません。

でも小説を読んでいるとき、読者はこのことをあまり意識していないでしょう。情景のことなど何も書いてない小説を読んでいるのに、あたかも自分が主人公になったように錯覚して読んでしまいます。主人公がどこにいるのか、どんな部屋にいるのか、何が見えているのか、全く知らなくてもそうです。それはどういう事かと言えば、読者は小説の少ない文字から、勝手に思うような情景を想像して頭の中に描いているからです。

例えば主人公が学生だったとしたら、読者はすぐに自分が学生だったときのことを思い出します。特に物語に規定がなければ、読者は自分が通った学校を思い出し、自分が通った教室を思いだし、自分の友人たちを思い出し、先生を思い出します。それが小説のストーリーに合わなければ、合うような調整を加えながら、適当に情景を組み替えていきます。

そもそも自分の思い出の中で、自分が普通だと思っていた情景がベースになるわけですから、読者は、小説の内容にあまり違和感を持たなくなるのです。少なくともその人が思うもっとも自然な情景が描かれやすいのです。

しかしこれが映像になると、必ず具体的な情景が映ります。例えば物語の背景にスカイツリーが映ったら、東京の人なら、ごくありふれた情景として見るでしょうけれども、東京以外にすむ人なら、とても珍しい情景となって、もう日常ではなくなります。しかし小説においては、『とても高い鉄塔』と書けば、東京の下町に住む人はスカイツリーを思い浮かべ、東京以外にすむ人なら、それぞれの地域での一番高そうな鉄塔を思い浮かべればいいのです。

つまり小説における情景とは、読者の数だけ違う情景が生まれると言うことです。しかし映画は、映画監督が作った一つの情景だけが存在します。その情景に馴染んだ人はいいですが、馴染まなかった人にとっては、その映画は違和感を生んでしまうのです。

例えばキャラクターにおいて、『美人』という設定があったとしましょう。主人公の女性が美人と書かれていたら、読者は自分が思う美人を思い浮かべればいいのです。それぞれにとってもっとも美しいと思う人です。後は小説の記述から、長身にしたり、髪を長くしたり、色を白くしたり、色々調整すればいいのですが、思い浮かべている美人像が人によって違うので、きっと読者の数だけ、主人公の容姿は存在するのです。

けれど映画では、一人の女優がそれを演じますから、見た人誰もが納得するというわけにはいかないでしょう。ある人は気に入り、ある人は気に入らなくなります。こうなってくると『主人公が違う』という意見が出るはずです。

このように媒体の変化というのは大きな差異を生みます。

つまり、二次利用によって作られた映画は、映画監督が原作を読んで行ったひとつの解釈に過ぎないのです。観客は、他人の解釈を見せられるだけであり、そこに相乗りできるかどうかは、あくまでも時の運なのです。

そう考えれば、映画化された作品を見て、原作との違いに愕然となるのは、むしろ当然のことなのかもしれません。

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2014-06-18-logo_mini.png 小説と映画でこうも違う、という3つのタイトルご紹介。

  • 滝口康彦の小説『拝領妻始末』を映画化した『上意討ち・拝領妻始末』
  • 山本周五郎の小説『日々平安』を映画化した『椿三十郎』
  • 藤沢周平の小説『たそがれ清兵衛』と『祝い人助八』をまとめて映画化した『たそがれ清兵衛』

以上3タイトルについて、その解釈と見どころをkashikoで解説しています。

2014-06-18-logo_mini.png 二次利用そのものは排除するべきなのか。

そうでないことは既に述べました。二次利用をしないと、出版界は持たないのです。おもしろい作品をこれからも読みたいなら、二次利用は不可欠なのです。

ただ昨今、二次利用をすることを念頭に作られる原作というものが出てきました。メディアミックスと呼ばれる作品ですが、始めから後の映像化、舞台化を念頭に原作を作るのです。この場合往々にして、原作の質に影響が生まれがちです。いくら映像化に適していても、その結果原作たる小説の内容が薄く、質が悪くなっては意味がないように思います。

作家性だけが、良い作品を作る

どの媒体であっても、どの作品であっても、それだけは共通しているのです。

(全文は元記事で:kashiko